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才色兼備の多彩で最強のカッコイイ保科さんは、どうにも僕にだけは可愛い一面を見せてくれるらしい。  作者: 沢田美


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10/12

お礼

 翌朝、僕は昨日よりもさらに早く家を出た。


 目覚ましが鳴る前に起きた、というより、ほとんど眠りが浅かっただけかもしれない。雨の中、一本の傘に入って歩いた帰り道も、別れ際に翼が見せた笑みも、寝ようとするたびに何度も脳裏に浮かんできた。


 そのせいで、校門をくぐった時にはまだ空気がひんやりしていた。


 約束の時間より少し早く渡り廊下へ着くと、翼はもうそこにいた。


 今日は窓際ではなく、壁に軽く背を預けるようにして立っている。僕に気づくと、すぐに姿勢を正した。そういうところがいかにも翼らしいと思う。


「おはよう」


「……おはよう、蓮」


 名前を呼ぶ時の間が、昨日より少しだけ短くなっていた。


 それだけで妙に嬉しくなる自分が、だいぶ単純だと思う。


 翼は今日はすぐに中庭のほうを見なかった。代わりに、手に持っていた小さな紙袋を僕へ差し出してくる。


「これ」


「え?」


「昨日のお礼」


 紙袋の中を見ると、ホットのミルクティーと、きれいに畳まれた薄いタオルハンカチが入っていた。どちらも売店か自販機で買ったものらしい。


 僕が言葉を失っていると、翼は少しだけ視線を逸らす。


「昨日、肩が濡れていたでしょう」


「いや、あれくらい別に」


「別に、じゃないわ」


 きっぱり言い切られた。


「私が勝手に心配しただけだから、受け取って」


 その言い方が妙に真っ直ぐで、断る余地がなかった。


「……ありがとう」


「どういたしまして」


 返事は落ち着いているのに、耳が少しだけ赤い。たぶん、こういうことをするのにも慣れていないのだろう。


 紙袋を受け取ると、タオルハンカチが思ったより柔らかかった。翼が選んだのだと思うと、それだけで触れる手に妙な意識が向いてしまう。


「こういうの、律儀だよね」


 僕が言うと、翼はすぐに返した。


「昨日、蓮がいなかったら、たぶんあの子を見つけるまでずっと歩き回ってたから」


「ああ……それは、ありそう」


「何その間」


「いや、すごく想像ついたから」


 翼は少しだけむっとした顔をしたが、否定はしなかった。


 そのまま二人で中庭へ出る。


 雨上がりの花壇はまだしっとりと濡れていて、土の匂いが少し濃い。朝の光が水滴を細かく反射していて、昨日の放課後とはまた違う景色に見えた。


 そして今日は、三毛猫がいた。


 花壇の縁で丸くなっていたそれは、僕らに気づくとゆっくり顔を上げる。翼のほうが先に見つけたらしく、足がぴたりと止まった。


「……いた」


 昨日の不安が一気にほどけたのが、その一言だけでわかる。


「今日はいたね」


「ええ」


 ほんの少しだけ、翼の口元が緩む。


 僕らがしゃがみ込むと、三毛猫は昨日みたいに警戒せず、のそのそとこちらへ歩いてきた。まず僕の足元で立ち止まり、それから当然みたいに翼の膝へ寄っていく。


 翼はもう、前みたいにどうしていいかわからず固まったりしなかった。驚いたように目を見開きはしたけれど、すぐに手を伸ばして、慣れたみたいに背を撫でる。


「……今日は最初からこっちに来た」


 報告する声が嬉しそうだった。


「順調に好かれてるね」


「蓮のおかげ」


「僕、そんなに何もしてないけど」


「してるわ」


 翼は猫を撫でながら続ける。


「一人だったら、たぶんここまで落ち着いて近づけてないもの」


 その言葉は、猫の話をしているだけのはずなのに、少しだけ胸の奥に残った。


 翼は気づいていないのか、あるいは気づいていて流したのか、僕のほうを見ないまま猫の耳の後ろを優しく撫でる。


 すると三毛猫は気持ちよさそうに喉を鳴らし、そのまま翼の膝へ前足を乗せた。


「……すごい」


 翼が呟く。


「何が」


「この前まで、私が近づいたら逃げてたのに」


「努力の成果じゃない?」


「努力って、こんなところで結果が出るのね」


「翼、案外そういうところ真面目だから」


 言うと、翼はようやく僕を見た。


「案外って何」


「普段から真面目だけど、こういう時はもっと必死だなって」


「……悪い?」


「悪くない。むしろ、いいと思う」


 翼は少しだけ黙って、それからまた猫へ視線を落とした。


「蓮って、たまにそういうのをさらっと言うわよね」


「今のも禁止?」


「今のは……別に禁止しない」


 その言い方だけで、わりとぎりぎりだったのだとわかる。翼の耳はまた少し赤くなっていた。


 しばらくして、始業の時間が近づく。


 僕らが立ち上がると、三毛猫は花壇の影へ戻っていった。翼はその後ろ姿を見送りながら、小さく息を吐く。満足した時の、すごくわかりやすい息だった。


 教室へ戻る途中、翼がふいに足を緩めた。


「蓮」


「うん」


「タオル、ちゃんと使って」


「今?」


「今じゃなくてもいいけど」


「使うよ」


「ならいい」


 それだけなのに、なぜか念押しみたいに聞こえて少し可笑しい。


 教室へ入ると、すでに何人かが登校していた。加瀬陽菜は席に着くなり、こちらを見るなり目を細める。


「おはよー……って、何その紙袋」


 さっそく来た。


 僕が返事に困るより早く、翼が淡々と答える。


「私が渡したの」


 教室の空気が、一瞬だけ静かになった気がした。


 加瀬がぱちぱちと瞬きをする。篠宮も本から目を上げた。


「え、翼が?」


「そう」


「なんで?」


「昨日のお礼」


「昨日って、雨の?」


「ええ」


 翼は一切ごまかさなかった。ごまかさなかったせいで、周囲の数人までさりげなくこちらを見ているのがわかる。こっちは朝から心臓に悪いのに、本人はまるで気にしていない顔だった。


 加瀬は僕と翼を交互に見てから、わざとらしくうなずいた。


「へえー。なるほどねえ」


「何が」


「別に?」


「陽菜」


「いやだって、翼がお礼を用意してる時点でかなり珍しいからさ」


 加瀬はそう言って笑う。


「篠原くん、よかったね。これはけっこう貴重だよ」


「陽菜、煽らないで」


 篠宮が静かにたしなめる。けれど、その目元にはほんの少しだけ面白がっている気配があった。


 翼は僕の机の前で立ち止まったまま、小さく息をつく。


「別に珍しくないわ」


「珍しいよ。翼、基本的に自分で片づけるし」


「今回は片づけてもらったから」


 それを聞いて、加瀬はますますにやにやし始める。まずい流れだと思った時には遅かった。


「ねえ翼」


「何」


「それ、私たちが知らないところで、かなりいろいろあった感じ?」


「ないわ」


「ほんとかなあ」


「本当よ」


「じゃあ、なんでそんなに耳赤いの?」


 教室の空気がまた止まりかけた。


 翼はぴたりと固まり、数秒遅れて自分の耳へ手をやる。完全に加瀬の勝ちだった。


「……赤くない」


「いや赤いって。千歳もそう思うでしょ?」


「思う」


 篠宮の追撃が容赦なかった。


 翼はわずかに視線を逸らしたあと、今度は僕を見る。助けて、とまでは言わない。でも、これ以上話を広げるなという意味くらいは伝わってきた。


「たぶん、朝ちょっと寒かったからじゃないかな」


 僕がそう言うと、加瀬は「優しい」と笑い、篠宮は無言のまま目を細めた。


 翼は一拍だけ黙り、それから小さく言う。


「……そういうことにしておく」


 教室の空気が少し和らいだところで、朝のホームルームが始まった。


 一時間目は現代文だった。教師が黒板に板書する内容をノートへ写していく、いつも通りの授業。翼は前の席で、いつもと変わらず静かにペンを走らせている。


 けれど、今日の僕は別のことが気になって仕方なかった。


 机の横に掛けた紙袋。中に入っているホットのミルクティーと、タオルハンカチ。どちらも翼が選んで、わざわざ僕のために持ってきたものだ。


 そんなことを意識したまま落ち着いて授業を受けられるほど、僕は器用じゃない。


 休み時間、紙袋の中からハンカチを取り出してみる。薄いグレーの地に、端だけ細く青いラインが入っていて、派手ではないけれど丁寧な印象のものだった。翼が選んだと思うと、妙に納得してしまう。


「それ、使うの?」


 不意に声がして、顔を上げる。


 翼だった。


 教室のざわめきの中に紛れるように、僕の席の横へ立っている。


「使うよ」


「……ならいい」


「でも、もったいないかも」


「ハンカチは使うためのものでしょう」


「それはそうなんだけど」


 翼は僕の手元を見る。


「昨日のこと、本当に気にしてない?」


「むしろありがたいけど」


「なら、変に遠慮しないで」


 そこまで言ってから、翼は少しだけ声を落とした。


「私が渡したかっただけだから」


 たぶん本人は、かなり普通のことを言っているつもりなのだと思う。


 でも、そういう言い方をされるたびに、こっちはいちいち困る。


「……蓮?」


「いや、なんでもない」


「何かある顔だった」


「気のせい」


「そう」


 翼は不満そうではなかった。ただ、少しだけ探るような目をして、それから自分の席へ戻っていく。


 その背中を見送っていると、横から加瀬の声が落ちてきた。


「翼、ああいうの自然にできるタイプじゃないからね」


 見ると、加瀬がいつの間にか隣の席の机に腰を預けていた。


「……そうなんだ」


「そうだよ。お礼したいと思っても、たぶんずっと考え込むし、変じゃないかなとか似合わないかなとか、そういうの気にするタイプ」


 加瀬は笑いながら言う。


「だから、ちゃんと受け取ってあげて」


 その言葉は思ったよりまっすぐで、僕は小さく頷いた。


「うん」


「よろしい」


 加瀬は満足そうにしてから、ひらひらと手を振って自分の席へ戻る。その横で篠宮が本を閉じながら、ぽつりと付け足した。


「翼、今朝は機嫌いいから」


 僕がそちらを見ると、篠宮は何でもないみたいな顔のまま言う。


「理由、たぶん篠原くんでしょ」


 さらっと投げられたその一言に、僕はまともに返事ができなかった。


 篠宮はもうそれ以上何も言わない。ただ、静かに視線を本へ落とす。その横顔は冷静なのに、少しだけ優しかった。


 午後の授業を終えて、放課後。


 今日は雨も降らず、空は穏やかに晴れていた。部活の声が聞こえる中、僕が帰り支度をしていると、翼が前の席で手を止める。


「蓮」


 小さな声だったが、僕にはすぐわかった。


「うん」


「今日……」


 そこで翼が言葉を切る。


 教室にはまだ何人か残っている。加瀬と篠宮もいる。そのせいか、続きが少し言いづらそうだった。


「帰り、途中まで」


 それだけで十分伝わった。


「いいよ」


「……そう」


 翼はそれ以上何も言わなかったが、机の上で指先が少しだけ緩む。安心した時の反応だと、もう僕にもわかる。


 加瀬はそんな僕らを見て、明らかに何か言いたそうにしていた。けれど今日は珍しく口を挟まない。代わりに、僕と目が合った瞬間だけ、にやっとして親指を立てた。


 やめてほしい。


 ただ、不思議と嫌ではなかった。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

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