お礼
翌朝、僕は昨日よりもさらに早く家を出た。
目覚ましが鳴る前に起きた、というより、ほとんど眠りが浅かっただけかもしれない。雨の中、一本の傘に入って歩いた帰り道も、別れ際に翼が見せた笑みも、寝ようとするたびに何度も脳裏に浮かんできた。
そのせいで、校門をくぐった時にはまだ空気がひんやりしていた。
約束の時間より少し早く渡り廊下へ着くと、翼はもうそこにいた。
今日は窓際ではなく、壁に軽く背を預けるようにして立っている。僕に気づくと、すぐに姿勢を正した。そういうところがいかにも翼らしいと思う。
「おはよう」
「……おはよう、蓮」
名前を呼ぶ時の間が、昨日より少しだけ短くなっていた。
それだけで妙に嬉しくなる自分が、だいぶ単純だと思う。
翼は今日はすぐに中庭のほうを見なかった。代わりに、手に持っていた小さな紙袋を僕へ差し出してくる。
「これ」
「え?」
「昨日のお礼」
紙袋の中を見ると、ホットのミルクティーと、きれいに畳まれた薄いタオルハンカチが入っていた。どちらも売店か自販機で買ったものらしい。
僕が言葉を失っていると、翼は少しだけ視線を逸らす。
「昨日、肩が濡れていたでしょう」
「いや、あれくらい別に」
「別に、じゃないわ」
きっぱり言い切られた。
「私が勝手に心配しただけだから、受け取って」
その言い方が妙に真っ直ぐで、断る余地がなかった。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
返事は落ち着いているのに、耳が少しだけ赤い。たぶん、こういうことをするのにも慣れていないのだろう。
紙袋を受け取ると、タオルハンカチが思ったより柔らかかった。翼が選んだのだと思うと、それだけで触れる手に妙な意識が向いてしまう。
「こういうの、律儀だよね」
僕が言うと、翼はすぐに返した。
「昨日、蓮がいなかったら、たぶんあの子を見つけるまでずっと歩き回ってたから」
「ああ……それは、ありそう」
「何その間」
「いや、すごく想像ついたから」
翼は少しだけむっとした顔をしたが、否定はしなかった。
そのまま二人で中庭へ出る。
雨上がりの花壇はまだしっとりと濡れていて、土の匂いが少し濃い。朝の光が水滴を細かく反射していて、昨日の放課後とはまた違う景色に見えた。
そして今日は、三毛猫がいた。
花壇の縁で丸くなっていたそれは、僕らに気づくとゆっくり顔を上げる。翼のほうが先に見つけたらしく、足がぴたりと止まった。
「……いた」
昨日の不安が一気にほどけたのが、その一言だけでわかる。
「今日はいたね」
「ええ」
ほんの少しだけ、翼の口元が緩む。
僕らがしゃがみ込むと、三毛猫は昨日みたいに警戒せず、のそのそとこちらへ歩いてきた。まず僕の足元で立ち止まり、それから当然みたいに翼の膝へ寄っていく。
翼はもう、前みたいにどうしていいかわからず固まったりしなかった。驚いたように目を見開きはしたけれど、すぐに手を伸ばして、慣れたみたいに背を撫でる。
「……今日は最初からこっちに来た」
報告する声が嬉しそうだった。
「順調に好かれてるね」
「蓮のおかげ」
「僕、そんなに何もしてないけど」
「してるわ」
翼は猫を撫でながら続ける。
「一人だったら、たぶんここまで落ち着いて近づけてないもの」
その言葉は、猫の話をしているだけのはずなのに、少しだけ胸の奥に残った。
翼は気づいていないのか、あるいは気づいていて流したのか、僕のほうを見ないまま猫の耳の後ろを優しく撫でる。
すると三毛猫は気持ちよさそうに喉を鳴らし、そのまま翼の膝へ前足を乗せた。
「……すごい」
翼が呟く。
「何が」
「この前まで、私が近づいたら逃げてたのに」
「努力の成果じゃない?」
「努力って、こんなところで結果が出るのね」
「翼、案外そういうところ真面目だから」
言うと、翼はようやく僕を見た。
「案外って何」
「普段から真面目だけど、こういう時はもっと必死だなって」
「……悪い?」
「悪くない。むしろ、いいと思う」
翼は少しだけ黙って、それからまた猫へ視線を落とした。
「蓮って、たまにそういうのをさらっと言うわよね」
「今のも禁止?」
「今のは……別に禁止しない」
その言い方だけで、わりとぎりぎりだったのだとわかる。翼の耳はまた少し赤くなっていた。
しばらくして、始業の時間が近づく。
僕らが立ち上がると、三毛猫は花壇の影へ戻っていった。翼はその後ろ姿を見送りながら、小さく息を吐く。満足した時の、すごくわかりやすい息だった。
教室へ戻る途中、翼がふいに足を緩めた。
「蓮」
「うん」
「タオル、ちゃんと使って」
「今?」
「今じゃなくてもいいけど」
「使うよ」
「ならいい」
それだけなのに、なぜか念押しみたいに聞こえて少し可笑しい。
教室へ入ると、すでに何人かが登校していた。加瀬陽菜は席に着くなり、こちらを見るなり目を細める。
「おはよー……って、何その紙袋」
さっそく来た。
僕が返事に困るより早く、翼が淡々と答える。
「私が渡したの」
教室の空気が、一瞬だけ静かになった気がした。
加瀬がぱちぱちと瞬きをする。篠宮も本から目を上げた。
「え、翼が?」
「そう」
「なんで?」
「昨日のお礼」
「昨日って、雨の?」
「ええ」
翼は一切ごまかさなかった。ごまかさなかったせいで、周囲の数人までさりげなくこちらを見ているのがわかる。こっちは朝から心臓に悪いのに、本人はまるで気にしていない顔だった。
加瀬は僕と翼を交互に見てから、わざとらしくうなずいた。
「へえー。なるほどねえ」
「何が」
「別に?」
「陽菜」
「いやだって、翼がお礼を用意してる時点でかなり珍しいからさ」
加瀬はそう言って笑う。
「篠原くん、よかったね。これはけっこう貴重だよ」
「陽菜、煽らないで」
篠宮が静かにたしなめる。けれど、その目元にはほんの少しだけ面白がっている気配があった。
翼は僕の机の前で立ち止まったまま、小さく息をつく。
「別に珍しくないわ」
「珍しいよ。翼、基本的に自分で片づけるし」
「今回は片づけてもらったから」
それを聞いて、加瀬はますますにやにやし始める。まずい流れだと思った時には遅かった。
「ねえ翼」
「何」
「それ、私たちが知らないところで、かなりいろいろあった感じ?」
「ないわ」
「ほんとかなあ」
「本当よ」
「じゃあ、なんでそんなに耳赤いの?」
教室の空気がまた止まりかけた。
翼はぴたりと固まり、数秒遅れて自分の耳へ手をやる。完全に加瀬の勝ちだった。
「……赤くない」
「いや赤いって。千歳もそう思うでしょ?」
「思う」
篠宮の追撃が容赦なかった。
翼はわずかに視線を逸らしたあと、今度は僕を見る。助けて、とまでは言わない。でも、これ以上話を広げるなという意味くらいは伝わってきた。
「たぶん、朝ちょっと寒かったからじゃないかな」
僕がそう言うと、加瀬は「優しい」と笑い、篠宮は無言のまま目を細めた。
翼は一拍だけ黙り、それから小さく言う。
「……そういうことにしておく」
教室の空気が少し和らいだところで、朝のホームルームが始まった。
一時間目は現代文だった。教師が黒板に板書する内容をノートへ写していく、いつも通りの授業。翼は前の席で、いつもと変わらず静かにペンを走らせている。
けれど、今日の僕は別のことが気になって仕方なかった。
机の横に掛けた紙袋。中に入っているホットのミルクティーと、タオルハンカチ。どちらも翼が選んで、わざわざ僕のために持ってきたものだ。
そんなことを意識したまま落ち着いて授業を受けられるほど、僕は器用じゃない。
休み時間、紙袋の中からハンカチを取り出してみる。薄いグレーの地に、端だけ細く青いラインが入っていて、派手ではないけれど丁寧な印象のものだった。翼が選んだと思うと、妙に納得してしまう。
「それ、使うの?」
不意に声がして、顔を上げる。
翼だった。
教室のざわめきの中に紛れるように、僕の席の横へ立っている。
「使うよ」
「……ならいい」
「でも、もったいないかも」
「ハンカチは使うためのものでしょう」
「それはそうなんだけど」
翼は僕の手元を見る。
「昨日のこと、本当に気にしてない?」
「むしろありがたいけど」
「なら、変に遠慮しないで」
そこまで言ってから、翼は少しだけ声を落とした。
「私が渡したかっただけだから」
たぶん本人は、かなり普通のことを言っているつもりなのだと思う。
でも、そういう言い方をされるたびに、こっちはいちいち困る。
「……蓮?」
「いや、なんでもない」
「何かある顔だった」
「気のせい」
「そう」
翼は不満そうではなかった。ただ、少しだけ探るような目をして、それから自分の席へ戻っていく。
その背中を見送っていると、横から加瀬の声が落ちてきた。
「翼、ああいうの自然にできるタイプじゃないからね」
見ると、加瀬がいつの間にか隣の席の机に腰を預けていた。
「……そうなんだ」
「そうだよ。お礼したいと思っても、たぶんずっと考え込むし、変じゃないかなとか似合わないかなとか、そういうの気にするタイプ」
加瀬は笑いながら言う。
「だから、ちゃんと受け取ってあげて」
その言葉は思ったよりまっすぐで、僕は小さく頷いた。
「うん」
「よろしい」
加瀬は満足そうにしてから、ひらひらと手を振って自分の席へ戻る。その横で篠宮が本を閉じながら、ぽつりと付け足した。
「翼、今朝は機嫌いいから」
僕がそちらを見ると、篠宮は何でもないみたいな顔のまま言う。
「理由、たぶん篠原くんでしょ」
さらっと投げられたその一言に、僕はまともに返事ができなかった。
篠宮はもうそれ以上何も言わない。ただ、静かに視線を本へ落とす。その横顔は冷静なのに、少しだけ優しかった。
午後の授業を終えて、放課後。
今日は雨も降らず、空は穏やかに晴れていた。部活の声が聞こえる中、僕が帰り支度をしていると、翼が前の席で手を止める。
「蓮」
小さな声だったが、僕にはすぐわかった。
「うん」
「今日……」
そこで翼が言葉を切る。
教室にはまだ何人か残っている。加瀬と篠宮もいる。そのせいか、続きが少し言いづらそうだった。
「帰り、途中まで」
それだけで十分伝わった。
「いいよ」
「……そう」
翼はそれ以上何も言わなかったが、机の上で指先が少しだけ緩む。安心した時の反応だと、もう僕にもわかる。
加瀬はそんな僕らを見て、明らかに何か言いたそうにしていた。けれど今日は珍しく口を挟まない。代わりに、僕と目が合った瞬間だけ、にやっとして親指を立てた。
やめてほしい。
ただ、不思議と嫌ではなかった。
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