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才色兼備の多彩で最強のカッコイイ保科さんは、どうにも僕にだけは可愛い一面を見せてくれるらしい。  作者: 沢田美


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11/12

明日も来る?

 放課後、教室の空気が少しずつ帰り支度のざわめきに変わっていく中で、僕だけが妙に落ち着かなかった。


 翼は前の席で、いつも通り静かにノートを鞄へしまっている。動作に無駄がなくて、それだけ見れば普段と何も変わらない。けれど、さっき僕に向けて「帰り、途中まで」と言った時、最後の声だけがほんの少しだけ小さくなったのを、僕はまだ引きずっていた。


 加瀬陽菜はその空気を察しているのかいないのか、今日は妙に機嫌がいい。篠宮千歳は変わらず静かだが、ときどき本から目を上げては僕と翼の間に流れる空気を見ているようだった。


「じゃあ翼、私たち先に行くね」


 鞄を肩にかけた加瀬が言う。


「千歳、本屋でしょ?」


「うん」


「翼は?」


 翼は一拍だけ間を置いてから、平然と答えた。


「今日はそのまま帰る」


 その一言だけで、加瀬の目がわかりやすく細くなる。何か言いたくて仕方ない顔だ。だが今日は本当に黙るつもりらしく、「そっか」とだけ返して、僕のほうを一瞬見たあと、にやっと笑う。


 やめてほしい。


 篠宮はそんな加瀬の肩を軽く押して、教室の出口へ向かわせた。去り際、彼女は翼にだけ聞こえるくらいの声で何かを言ったらしく、翼がほんの少しだけ目を細める。けれど追及するほどのことではなかったのか、そのまま二人は教室を出ていった。


 残った僕と翼の間に、数秒の静かな空白が落ちる。


「……行きましょう」


 先に口を開いたのは翼だった。


「うん」


 昇降口へ向かうまでの廊下は、いつもより少し長く感じた。部活へ向かう生徒たちや、友達同士で騒ぎながら帰る連中と何度もすれ違う。そのたびに、翼と並んで歩いていることが妙に意識される。


 でも翼は、周囲の視線なんて最初から存在しないみたいに前を向いていた。そういうところは本当にぶれない。誰かに見られているからといって、慌てたり取り繕ったりしない。その強さは、見ていて素直にすごいと思う。


 校門を出てしばらくは、ただ並んで歩いた。


 空はまだ明るく、風も穏やかだった。昨日の雨の匂いが少しだけ残っていて、路肩の木々からは雫が落ちる音が聞こえる。


「……今日のハンカチ」


 翼が前を見たまま口を開いた。


「使ってたわね」


「見てたの?」


「見える位置にいたから」


「じゃあ、ちゃんと使いました」


「そう」


 その返事は短かったけれど、どこか満足そうだった。


「ミルクティーも飲んだよ」


「それも知ってる」


「それも見てたの?」


「蓮、思ってるより目立つの」


 それはたぶん違う。目立っていたのは僕じゃなくて、翼のほうだと思う。だが、そんなことを言うと話が変な方向へ行きそうだったので、黙っておいた。


 交差点を渡り、住宅街へ入る。昨日の分かれ道まではまだ少しある。


 翼はしばらく黙っていたが、やがて思い出したように言った。


「陽菜たちに、何か言われた?」


「昼休み?」


「……うん」


「少しだけ」


「どんな」


 聞き方は何でもないようでいて、実はかなり気にしているのがわかる。僕は少し考えてから、なるべくそのまま答えた。


「翼は不器用だから、ちゃんと受け取ってあげて、って」


 翼の歩幅がわずかに乱れた。


「陽菜が?」


「うん。あと篠宮さんも、今朝は機嫌がいいって」


「……余計なことばかり」


 小さく漏らした声は、呆れ半分、照れ半分という感じだった。


「でも、本当だった」


 僕がそう言うと、翼は一瞬だけこちらを見た。


「何が」


「機嫌。今日、朝から少し柔らかかった」


 言ったあとで、こういうのはさらっと口にしないほうがよかったかもしれないと気づく。だが翼は怒らなかった。代わりに、少しだけ前を向き直してから、静かに言った。


「……それは、あの子がいたから」


「猫?」


「猫も、だけど」


 そこで言葉が止まる。


 僕は横顔を見た。翼は前を向いたまま、唇だけをわずかに結んでいる。何か言いたい時の顔だった。


「蓮がいたから」


 やがて落ちてきたその一言に、僕はすぐには返事ができなかった。


 翼はそれ以上こちらを見ない。ただ、何でもないことみたいに歩き続ける。たぶん彼女の中では、これは思ったことをそのまま言っただけなのだろう。だからこそ、言われた側の心臓がどうなるかなんて考えていない。


「……そういうの、急だよね」


 ようやく出てきたのは、それだけだった。


「何が」


「今の」


「本当のことを言っただけ」


 平然と返されて、僕はもう笑うしかなかった。


 その時だった。


 通りの向こう側で、小さな悲鳴みたいな声が上がる。


 反射的に視線を向けると、自転車で走ってきた男子高校生が曲がり角でバランスを崩し、買い物帰りらしい女の子とぶつかりかけていた。女の子はランドセルを背負った小学生で、驚いた拍子に持っていた袋を落としてしまっている。


 僕が立ち止まるより早く、翼が動いた。


 すっと車道寄りへ一歩出て、転びかけた小学生の腕を支える。自転車の男子は慌ててブレーキをかけ、数メートル先でようやく止まった。


「大丈夫?」


 翼がしゃがみ込み、小学生と目線を合わせる。声は静かだったが、安心させるように柔らかかった。


 女の子はこくこくと頷く。翼はすぐに落ちた袋の中身を拾い集め、汚れていないかを確かめてから手渡した。


 そこへ、自転車の男子が青ざめた顔で戻ってくる。


「す、すみません……! 急いでて……」


 翼は立ち上がる。


 その瞬間、空気が少し変わった。


「急いでいることと、前を見ないことは別でしょう」


 声は低くも高くもない。怒鳴りもしない。けれど、ぴたりと相手を止めるだけの強さがあった。


「この子に怪我がなかったからよかったけど、次は本当に危ないわ。歩道に入るなら、せめて速度を落として」


「……はい」


 男子は完全に気圧されていた。言い訳の余地もないと思ったのだろう。深く頭を下げ、そのまま自転車を押して去っていく。


 小学生の女の子は翼を見上げたまま、少しだけ目を輝かせていた。


「あ、ありがとうございました……」


「気をつけて帰って」


 翼は最後にその子の頭を軽く撫でる。女の子は顔を赤くして、何度も振り返りながら走っていった。


 全部が一瞬だった。


 でも、目の前で見ている僕には十分すぎた。


 迷いがない。自分が何をするべきかを、考えるより先に選べる。相手を怖がらせるために強く出るわけじゃなく、必要な言葉だけで場を収める。


 やっぱり、そういうところが格好いい。


 僕が何も言えずにいると、翼はさっきまでの表情を何でもないように戻して、落ちていた小さな飴を一本だけ拾い上げた。さっきの袋から転がったものらしい。


「……これは、たぶんもう駄目ね」


 その言い方がやけに普通で、僕はようやく息を吐いた。


「翼」


「何」


「今の、すごかった」


「別に、当たり前のことをしただけ」


「それがすごいんだよ」


 翼は飴の包みを近くのゴミ箱へ捨て、それから僕のほうを見る。


「そういうの、本当に平然と言うのね」


「本当に思ったから」


 しばらく、翼は黙っていた。


 その沈黙のあとで出てきたのは、思いがけない言葉だった。


「……蓮が見てると、なんだか調子が狂う」


「え」


「今だって、あとから考えたら少し言いすぎた気がしてきたし」


 さっきの対応のどこにそう思う余地があるのかわからなかった。


「全然。むしろちょうどよかったと思う」


「本当に?」


「うん。あの子、安心してたし」


 そう言うと、翼はほんの少しだけ肩の力を抜いた。


「……ならいい」


 でも、そのあとすぐに小さく付け足す。


「陽菜たちの前なら、たぶんこんな確認しないのに」


「僕の前だから?」


「そう」


 また、そういうことを簡単に言う。


 何か返そうとした時、翼がふいに立ち止まった。目の前には、小さなベーカリーがある。商店街の外れにある、昔からありそうな店だ。ガラス越しに、焼きたてらしいパンがいくつか並んでいるのが見える。


 翼はそこを見て、ほんの少し迷うような顔をした。


「どうしたの?」


「……寄ってもいい?」


「パン屋?」


「ここの、期間限定の紅茶メロンパンが美味しいって、陽菜が言ってたから」


 意外だった。


 翼がそういう情報で店に寄ろうとするのが、なんだか新鮮に見える。


「甘いもの好きなんだ」


「悪い?」


「悪くない。なんかちょっと安心した」


「何に」


「ちゃんと高校生っぽいところもあるんだなって」


 翼は少しだけむっとした顔をしたが、結局否定しなかった。


「……蓮は何か欲しいものある?」


「僕?」


「一つくらいなら奢るわ。昨日のお礼とは別で」


「じゃあそれ、お礼多すぎない?」


「気にしないで」


 たぶん、気にしているのは翼のほうだ。何かしてもらったら、きちんと返さないと落ち着かないのだろう。


 店に入ると、焼きたての匂いが広がる。夕方の中途半端な時間だからか、客は少なかった。翼はトングを持つ手つきまで妙に真剣で、目当ての紅茶メロンパンを見つけると、ほんの少しだけ表情が明るくなる。


「本当にあった」


「そんなに嬉しいんだ」


「……ちょっとだけ」


 ちょっとどころじゃない顔だと思う。


 僕は適当に塩パンを一つ取った。会計をしようとすると、翼が当然みたいに財布を出す。


「ここは私が」


「いや、自分の分は払うよ」


「だめ。私が言い出したから」


「でも」


「蓮」


 名前を呼ばれて、僕は言葉を止める。


 翼は真っ直ぐこちらを見ていた。こういう時の彼女は本当に強い。押し切るのではなく、相手が引くしかないところまで自然に持っていく。


「私に格好つけさせて」


 その一言は、少しだけ意外だった。


「翼が?」


「たまにはいいでしょう」


 そして会計を済ませたあと、店を出る。紙袋を一つずつ手に持って、店先のベンチに座った。


 紅茶メロンパンをひと口食べた瞬間、翼の目がわずかに丸くなる。


「……美味しい」


「よかったね」


「うん」


 素直な返事だった。


 そのあと翼は、自分でも気づいていないくらい小さく頬を緩めながら、もうひと口食べる。こういう時の彼女は本当にわかりやすい。


 僕が塩パンをちぎっていると、翼がちらりとこちらを見る。


「美味しい?」


「うん、美味しい」


「そう」


 なぜかそこで満足したように頷く。


 その仕草がおかしくて少し笑うと、翼は眉を寄せた。


「何」


「いや、翼って案外、わかりやすいなって」


「どこが」


「今、僕のパンの感想まで気にしてたし」


「……別に」


 否定はしたが、メロンパンを持つ手が少しだけ落ち着かなくなる。図星らしい。


「本当に」


「本当に?」


「本当に、蓮の前だと調子が狂うの」


 風みたいに軽い口調だったのに、その内容だけがまっすぐ胸に落ちた。


 僕はすぐには返せなかった。


 翼もそれ以上重ねるつもりはないらしく、視線をパンへ戻す。けれど、その耳がうっすら赤いのが見えてしまったら、何もなかったみたいにはできない。


「……僕もだよ」


 結局、そう返すのが精一杯だった。


「翼の前だと、すごく調子狂う」


 今度は翼が止まる番だった。


 しばらくして、小さく息を吐く。


「お互い様ってこと?」


「たぶん」


「……そう」


 それだけ言って、翼はまたパンを食べる。けれどさっきより少しだけゆっくりだった。


 ベーカリーを出て、また並んで歩く。


 さっきのやりとりのあとだからか、前より静かだった。でも、その静けさは嫌なものではなくて、どちらかといえば心地よかった。


 分かれ道の手前まで来た時、翼がふいに立ち止まる。


「蓮」


「うん」


「明日、土曜でしょう」


「そうだね」


「午前中だけ、学校に行くの」


「補習?」


「図書委員の仕事。来週の掲示物を作らないといけなくて」


 そこまで言って、翼は少しだけ言葉を切る。


「終わったら、中庭を見に行こうと思ってる」


 猫のことだとわかる。


 でも、そのあとに続いた言葉で、僕の心臓はまた変な鳴り方をした。


「……もし予定がなければ、蓮も来る?」


 聞き方はいつも通り落ち着いている。けれど、最後のほうだけわずかに不安そうだった。


 断る理由なんて、どこにもなかった。


「行く」


 即答すると、翼はほんの少しだけ目を見開いたあと、やわらかく息をついた。


「そう」


「何時?」


「十時半くらいには終わると思う」


「じゃあ、そのくらいに」


「うん」


 そこで会話は終わるはずだったのに、翼はなぜかすぐに歩き出さなかった。何か言いたそうにして、でも言葉を選んでいる顔だった。


「どうしたの?」


「……別に」


「別に、じゃない顔してる」


「蓮のそれ、最近ちょっと生意気」


「翼のせいだと思う」


「私のせい?」


「うん。慣れてきたから」


 そう言うと、翼は一瞬だけ言葉を失ったあと、ほんの少しだけ目を逸らした。


「……それは、少し困る」


「なんで」


「今までは、私ばかり困ってたから」


 その返しがあまりにも素直で、僕はもう何も言えなかった。


 翼はそんな僕の反応を見て、少しだけ困ったように笑う。


「じゃあ、また明日」


「うん。また明日、翼」


 名前を呼ぶと、翼はやっぱり少しだけ耳を赤くしながら、それでもちゃんと僕を見て返してくる。


「また明日、蓮」


 土曜日の約束が、これまでで一番待ち遠しかった。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

このお話が少しでも面白いと感じていただけたら、ぜひ「♡いいね」や「ブックマーク」をしていただけると嬉しいです。

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