今のは禁止
土曜日の朝、学校は平日とはまるで別の場所みたいに静かだった。
いつもの通学路を歩いていても、制服姿の生徒はまばらで、校門をくぐったあとも、聞こえてくるのは遠くの運動部の声くらいしかない。そんな中で、十時半という約束の時間が近づくにつれて、僕の胸の内側だけがやけに落ち着かなかった。
休日の学校で、翼と会う。
それだけで、いつもより少しだけ特別なことをしている気がする。
図書室の前まで来ると、準備室の扉が少しだけ開いていた。中では紙を捲る音と、誰かの小さな話し声がしている。覗くつもりはなかったのに、ふと視線を向けたその先で、僕は足を止めた。
翼がいた。
白いシャツの袖をきっちりと肘まで折り、机の上に広げられた掲示物のレイアウトを整えている。長い銀髪は後ろでひとつにまとめられていて、普段より少しだけ輪郭がはっきり見えた。その横顔は相変わらず整っていたけれど、今は教室で見る時よりも、どこか仕事の空気を纏っている。
「ここ、見出しはもう少し上で揃えたほうが見やすいですか?」
緊張した声でそう尋ねたのは、一年の女子らしい。図書委員の後輩だろう。
翼はその紙に目を落とし、数秒だけ考えてから静かに答える。
「うん、そのほうがいいと思う。あと、ここの余白を少しだけ広くすると窮屈に見えないから、貼る位置も一センチくらいずらしてみて」
「わ、わかりました」
指示の出し方がすごく自然だった。上から押さえつけるわけでもなく、曖昧に丸投げするわけでもなく、相手がすぐ動ける言葉でちゃんと導いている。
隣ではもう一人、一年の男子が脚立に乗って掲示板へ紙を貼ろうとしていたが、位置が少し曲がっている。翼はすぐにそれに気づいた。
「ごめん、少しだけ右。……そう。そこ」
「はいっ」
男子が慌てて貼り直す。翼はそれを確認して、小さく頷いた。
「綺麗。ありがとう」
たったそれだけで、相手の顔がぱっと明るくなる。
すごいな、と思った。
教室や廊下で見かける翼は、近寄りがたくて、凛としていて、どこか完成されすぎているように見えることが多い。けれど今の翼は、誰かをきちんと引っ張ることができる人の顔をしていた。
強くて、冷静で、でもちゃんと周りを見ている。
その姿が、どうしようもなく目を引いた。
その時、不意に翼がこちらを見た。
一瞬だけ目が合う。
次の瞬間、彼女の表情にほんのわずかな驚きが走った。たぶん、僕がもう来ていたことに今気づいたのだろう。けれど、その動揺もほんの一拍で消して、翼は一年生たちに向き直る。
「ここまでで大丈夫。あとは私が貼るから、二人とも先に戻っていいわ」
「えっ、でも」
「もう終わりかけだし、今日は手伝ってくれて助かったから」
「……はい。ありがとうございました!」
二人はぺこりと頭を下げ、準備室を出ていった。すれ違いざま、僕は軽く会釈を返す。扉が閉まって、ようやく室内が静かになった。
翼は手元の紙を揃えながら言う。
「……いつから見てたの」
「少し前から」
「声をかければよかったのに」
「邪魔したくなかったから」
そう答えると、翼は一瞬だけ言葉を止めた。それから、小さく息を吐く。
「別に、邪魔にはならないわ」
その言い方が、思っていたより柔らかかった。
僕が準備室の中へ入ると、机の上には色ごとに仕分けられた画用紙や、図書委員のおすすめ本紹介、来月の貸出ランキングなどが綺麗に並べられていた。几帳面すぎるくらい整っていて、見ているだけで翼らしさが伝わる。
「まだ少しかかる?」
「十分くらい」
翼はそう言ってから、机の端に置いてあったペンを取る。
「待たせるのも悪いから、蓮が嫌じゃなければ少し手伝って」
「いいの?」
「いいわよ。ここ、マスキングテープ押さえてて」
言われた通りに紙の端を押さえる。翼の指先がすぐ横を通るたび、どうにも落ち着かない。けれど当の本人は、作業に集中しているせいか、すごく自然だった。
「こういうの、慣れてるんだ」
「毎月あるもの」
「さっきの一年生とも、ちゃんと先輩してたね」
僕がそう言うと、翼の手が一瞬だけ止まった。
「……何それ」
「そのままの意味。格好よかった」
翼は貼りかけの紙を見たまま、ほんの少しだけ視線を逸らす。
「蓮、最近そればっかり」
「本当なんだから仕方ない」
「そういうところ」
「うん」
「……本当に困る」
困ると言いながら、耳が少し赤い。作業中なのをいいことに誤魔化しているつもりらしいけれど、全然誤魔化せていなかった。
十分と言った通り、作業はほどなく終わった。
掲示板に貼られた紙はどれも綺麗に整っていて、遠目に見ても読みやすい。翼は最後に少しだけ全体の位置を確認してから、小さく頷いた。
「よし」
その言い方に、仕事をきちんと終えた人の満足が滲んでいた。
「お疲れさま」
「ありがとう。待っててくれて」
翼はそう言って机の上を片づけ始める。そこまでは普段の彼女らしかった。問題は、その次だった。
「あと、これ」
準備室の隅に置いてあった小さなトートバッグから、翼が包みを一つ取り出す。
「え?」
「お昼前になるかもしれないと思って、一応」
渡されたのは、ラップに包まれた小さなサンドイッチだった。卵とハムが挟まった、ごくシンプルなやつ。それでも見た瞬間にわかる。これ、たぶん買ったものじゃない。
「もしかして」
「……朝、作ったの」
さらっと言うには破壊力が強すぎた。
僕が固まっていると、翼は少しだけ眉を寄せる。
「何」
「いや……手作り?」
「そうだけど」
「それを僕に?」
「蓮、来るって言ったから」
何でもないことみたいに言うから余計に困る。
「いらなかった?」
「いる。ものすごくいる」
思わずそう返すと、翼は一拍遅れて視線を落とした。
「……ならよかった」
声が少しだけ小さい。
たぶん本当は、渡すまでにかなり迷ったんだろうなと思う。そういうのが顔に出にくいくせに、出る時は本当にわかりやすい。
準備室を出て、二人で中庭へ向かう。
休日の校舎は静かで、廊下を歩く足音まで少し響いた。平日の昼とは違って、人の気配が少ない。だからこそ、翼と並んで歩いていることがよりはっきり意識される。
中庭へ出ると、三毛猫はいた。
花壇の縁ではなく、今日はベンチの下にいた。日向と日陰の境目みたいな場所で丸くなっていて、僕らを見ると面倒そうに片目だけ開ける。
「今日はここなんだ」
僕が言うと、翼はすぐにしゃがみ込んだ。
「休日だから静かな場所のほうがいいのかも」
そう言って手を伸ばすと、三毛猫は嫌がるどころか、自分から翼の指先へ頬を寄せた。
もう完全に懐いていた。
翼の表情がゆるむ。その変化は昨日までよりずっと自然で、もう隠すつもりもないみたいだった。
「……この子、本当に気まぐれね」
「でも翼のことは好きそう」
「そうだといいけど」
「今のはだいぶ好きな反応だと思う」
「……そう?」
報告を受けるみたいに訊いてくるのが少し可笑しい。
翼は猫の背中を撫でながら、小さく息を吐く。
「蓮」
「うん」
「座って」
「ここ?」
「ええ。ずっと立ってるの、変でしょう」
言われて、ベンチへ腰を下ろす。翼も少しだけ距離を空けて隣へ座った。膝の近くまで寄ってきた三毛猫が、そのまま僕らの足元を行ったり来たりしている。
しばらくはそのまま、静かな時間が流れた。
やがて翼が、さっき渡したサンドイッチの包みへ視線を向ける。
「……食べないの?」
「もったいなくて」
「食べ物をそういう理由で取っておくの、変」
「だって翼の手作りだし」
その途端、翼はあからさまに視線を逸らした。
「……じゃあ、余計にちゃんと食べて」
「はい」
僕は素直に包みを開く。
卵の焼き加減も、パンの切り方も、妙にきれいだった。ひと口食べると、想像以上にちゃんとしていて驚く。
「美味しい」
言うと、翼はすぐにはこっちを見なかった。
「そう」
「いや、本当に。すごい美味しい」
「……ならよかった」
また同じ返事だったけれど、今度のほうが少しだけ嬉しそうだった。
僕が二口目を食べた時、翼がぽつりと言う。
「朝、少しだけ失敗したの」
「え」
「卵。最初、火が強すぎて」
その告白が妙に新鮮だった。翼がそんなふうに、自分の小さな失敗を誰かに話すこと自体、あまり想像できなかったからだ。
「でもちゃんとリカバーしたじゃん」
「やり直したから」
「真面目だなあ」
「中途半端は嫌なの」
きっぱり言ったあとで、翼は自分でも何か気づいたみたいに少しだけ黙る。
「……蓮に渡すなら、なおさら」
その一言で、今度は僕が黙る番だった。
春のやわらかい風が吹いて、花壇の葉を揺らす。三毛猫は僕らの足元で丸くなり、そのままうとうとし始めていた。
翼はしばらく前を向いたまま、やがて小さく続ける。
「陽菜たちにはたぶん、こういうことしない」
「サンドイッチ?」
「うん」
「どうして」
翼はすぐには答えなかった。
少しだけ間を置いてから、猫の背中を撫でるみたいな仕草で、視線を落としたまま言う。
「蓮には、ちゃんとして渡したかったから」
たぶん彼女の中では、かなり勇気を出した言葉だったんだと思う。
声は小さいし、目も合わないし、最後のほうなんて聞こえるかどうかぎりぎりだった。でも、それで十分すぎるくらい伝わるものがあった。
「……嬉しい」
僕がやっとそれだけ言うと、翼は少しだけ肩の力を抜いた。
「なら、作った甲斐があった」
その言い方はまだ落ち着いていた。でも、頬に差す色だけは隠せていない。
僕が最後のひと切れまで食べ終えるのを、翼は隣で静かに待っていた。途中、三毛猫がベンチへ前足をかけると、翼はすぐにそちらへ気を取られる。猫を撫でる時だけ、彼女の目元は驚くほどやわらかい。
けれどその直後、不意に僕のほうを見た。
「……どうして笑うの」
「笑ってた?」
「少し」
「いや、嬉しそうだなって思って」
「嬉しいもの」
「それ、もう隠さないんだ」
「蓮の前で隠しても、たぶん意味ないから」
その言い方は、どこか諦めに似ていた。
でも嫌そうではなかった。むしろ、その諦めごと受け入れているみたいだった。
その時、校舎のほうから誰かの足音が聞こえた。
僕らがそちらを見る前に、明るい声が飛んでくる。
「うわ、本当にいた」
加瀬陽菜だった。
その少し後ろに、篠宮千歳もいる。二人とも私服ではなく制服姿だ。どうやら補習か部活の手伝いか、何かで学校へ来ていたらしい。
加瀬は僕と翼、それからベンチの下で丸くなる三毛猫を見て、なんとも言えない顔をした。
「……なんかもう、思った以上に自然なんだけど」
翼は一瞬だけ固まったあと、すぐにいつもの顔へ戻ろうとした。けれど、膝の上に置いた手が少しだけ落ち着かないせいで、完全には戻りきれていない。
「陽菜」
「はいはい、騒がない騒がない」
加瀬は笑いながら両手を上げる。
「でも翼、土曜に学校来て、掲示物終わったあとに男子と中庭で猫見ながら座ってるの、かなりレアだよ?」
「……知ってる」
翼の返事が思っていたより素直だったせいで、加瀬のほうが一瞬詰まる。
篠宮はベンチの近くまで来ると、僕の手元のラップの包みを見た。
「それ、翼が作った?」
鋭すぎる。
僕が返事に困るより早く、翼が小さく息を呑んだ。加瀬の目が一気に丸くなる。
「え、まって、ほんとに!?」
「千歳、どうしてわかるの」
「ラップの畳み方が翼っぽい」
そんなところで見抜かれるのか。
翼はもう何も言い返せなかった。頬をわずかに染めたまま、三毛猫の背中を撫でる手だけが少し速くなる。
加瀬は僕を見て、それから翼を見て、最後にまた僕を見た。
「……へえ」
その一言に、妙な含みがありすぎて困る。
けれど、篠宮はそれ以上踏み込まなかった。むしろ、静かに笑って言う。
「邪魔してごめん。私たち、もう行くから」
「え、いいの? 私まだちょっと見たいんだけど」
「陽菜」
「はいはい」
加瀬は不満そうにしながらも、今日は素直だった。去り際、僕のほうを見てにやっとする。
「篠原くん、土曜の朝から頑張ってるね」
「……どう返せばいいの、それ」
「そのままでいいよ」
そして二人は本当にそのまま去っていった。
残された中庭には、また静かな空気が戻る。
翼はしばらく無言だったが、やがてぽつりと漏らす。
「……見られた」
「うん」
「かなり、見られた」
「うん」
「蓮」
「何」
「なんでちょっと楽しそうなの」
「少しだけ可愛かったから」
翼がゆっくりこちらを向く。
「……今の、禁止」
「また?」
「また」
でも、その声にはもう前ほどの切れ味がなかった。たぶん怒っているというより、照れて困っているだけなのだろう。
三毛猫がベンチへ飛び乗り、そのまま翼の太腿のあたりへ頭を押しつける。翼は反射的に両手で受け止め、また表情をゆるめた。
「……もう」
誰に向けた言葉なのかわからない。
猫か。僕か。あるいは自分自身か。
でも、その曖昧さごと、今の時間には似合っている気がした。
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