猫に弱い?
その日の放課後、僕こと――篠原蓮は担任に頼まれて、職員室から資料の束を二年棟の準備室まで運ぶはめになっていた。
昼休みに見た一件のせいで、頭の中はずっと落ち着かなかった。あの保科翼を間近で見たせいだろう。教科書を開いても文字が上滑りして、ノートに視線を落としても、脳裏に浮かぶのは銀色の髪と、あの冷え切った視線ばかりだった。
最強。完璧。隙がない。
そんな言葉が、今日の保科にはあまりにもよく似合っていた。
資料を抱えて廊下を歩いていると、西日が窓ガラスに反射して、床に長い橙色の帯を落としていた。授業の終わった校舎は昼とは違う静けさに包まれていて、遠くから運動部の掛け声が薄く聞こえてくる。その静かな空気を壊さないように歩いていたはずなのに、不意に、どこかから小さな声が聞こえた。
「……ち、違うの。そうじゃなくて、えっと……ほら、怖くないから……」
か細い。しかも、妙に困っているような声音だった。
こんな時間、こんな場所で、そんな声を出しそうな人物に心当たりがなかった僕は、思わず足を止めた。声は中庭へ続く渡り廊下のほうから聞こえる。窓越しに覗いてみると、植え込みのそばに誰かがしゃがみ込んでいた。
銀色の髪が、夕陽に照らされて淡く光っている。
その瞬間、僕は自分の目を疑った。
そこにいたのは、昼休みにあれほど圧倒的な強さを見せつけた、あの保科翼だったからだ。
ただし、昼間の彼女とはまるで別人みたいだった。
保科は中庭の隅にしゃがみ込み、スカートの裾が汚れるのも構わず、両手を胸の前で小さく握っていた。その視線の先には、痩せた三毛猫が一匹。どうやら校内に住みついている野良猫らしい。警戒心が強いのか、少し離れた花壇の縁に前足をかけ、こちらをじっと見ている。
そして保科は、その猫に向かって、信じられないくらい弱々しい声をかけていた。
「ね、ねこさん……よかったら、こっち来ない……? その、撫でたりしないから……いや、撫でたいけど……撫でたいのは本当だけど、今日は我慢するから……」
僕はその場で固まった。
頭が理解を拒んでいるのに、耳だけはしっかりとその言葉を拾ってしまう。
昼休み、工藤を壁に叩きつけたあの保科が。
周囲の人間を一歩で黙らせるような、あの凛然とした保科が。
今、猫相手にものすごく低姿勢で交渉している。
しかも、ちょっと声が甘い。
いや、ちょっとどころではない。かなり甘い。というか、どう考えても可愛い。可愛いという言葉をここまで全力で体現している保科翼なんて、昼休みの一件からは一ミリも想像できなかった。
猫はというと、保科の懸命な説得にもかかわらず、しっぽを一度だけ揺らして、じり、と半歩後ろに下がった。
「っ、あ……待って……」
そのたった半歩に、保科は露骨に傷ついた顔をした。
さっきまでの無敵さはどこへ行ったのかと思うくらい、わかりやすくしょんぼりしている。肩は少し落ち、結ばれた唇には拗ねたような力が入り、長い睫毛が伏せられる。近寄りがたい美人が見せるにはあまりにも反則的な表情だった。
まずいものを見てしまった気がして、僕は慌ててその場を離れようとした。けれど、抱えていた資料の角が窓枠にこつんと当たり、乾いた音を立ててしまう。
中庭の空気が、一瞬で凍った。
保科がはっと顔を上げる。
次の瞬間、その目がまっすぐこちらを射抜いた。
昼休みに工藤へ向けていたのと同じ鋭さ――とまではいかないにせよ、十分に人を怯ませるだけの強い視線だった。僕は思わず肩を跳ねさせ、資料を抱え直すことしかできなかった。
「……誰?」
低く、警戒した声。
僕は観念して中庭の入口に姿を見せた。
「ご、ごめん。通りかかっただけで……その……」
言い訳がましいとわかっていても、うまく言葉が出てこない。そもそも、今の光景を見たこと自体が申し訳ないような気持ちだった。
保科は僕の顔を見て、ほんの少しだけ眉を動かした。どうやら同じ学年の生徒だと認識したらしい。けれど、次の瞬間には、彼女の白い頬にうっすらと赤みが差していくのがわかった。
たぶん、自分が見られたものを理解したのだ。
「……今の」
保科が口を開く。
「今のは、その……違うの」
違わないだろう、と喉元まで出かかったけれど、さすがに飲み込んだ。
「べ、別に、猫に話しかけていたわけじゃなくて……ええと、そう、様子を見ていただけで……」
言えば言うほど苦しくなる言い訳だった。しかも本人もそれをわかっているのか、途中からみるみる声が小さくなっていく。僕は人生で初めて、保科翼という完璧美人が言葉に詰まる瞬間を見た。
なんだこれ。
昼休みの彼女を知っているからこそ、目の前の光景が信じられない。
だが、もっと信じられなかったのは、その姿を見てしまった僕の胸の内だった。
憧れのまま遠くに置いていたはずの存在が、急に手の届くところへ落ちてきたような感覚。いや、落ちてきたというのは違う。彼女はきっとずっと高い場所にいるままだ。ただ、その高いところにいる人が、不意に見せた無防備さが、あまりにも破壊力抜群だった。
僕が何も言えずにいると、猫がふいにこちらへ顔を向けた。そして次の瞬間、保科のほうではなく、なぜか僕の足元へと、とことこと歩いてきた。
「え」
保科が目を丸くする。
僕も同じ気持ちだった。猫なんて特別好きでも嫌いでもなく、懐かれるような体質でもない。なのに三毛猫は何のためらいもなく僕の靴の先で止まり、くん、と鼻を鳴らしてから、すり、と制服の裾に頭をこすりつけてきた。
どうして。
昼休みからずっと心をかき乱されていた僕の感情が、今度は別方向に混乱する。
その一方で、保科は信じられないものを見るような目でその様子を見つめていた。普段なら涼やかで整っているはずの顔が、今は露骨に動揺している。悔しそうというか、羨ましそうというか、その両方が混じったような、なんとも子どもっぽい表情だった。
「……どうして」
ぽつり、と保科が呟いた。
「私があんなに頑張っても来なかったのに」
その声音には、昼休みに不良を一蹴した女子とは思えないほどの切実さが滲んでいた。僕は思わず猫を見下ろし、それから保科を見る。
「えっと……たまたま、じゃないかな」
「そんなはずない」
即答だった。しかもかなり本気の声だった。
保科はじっと僕の足元の猫を見つめ、それから決意したように一歩だけ近づいてくる。けれど、その一歩で猫がぴくりと耳を動かすと、彼女はすぐに動きを止めた。慎重すぎる。慎重すぎて、逆に可愛い。
「……ねえ」
保科が言った。
「その子、今は機嫌がいいみたいだから」
言葉を区切り、少しだけ視線を逸らす。長い睫毛の影が頬に落ちる。夕暮れの色の中で、その横顔は相変わらず綺麗だった。ただ、そこにある空気は昼間とはまるで違う。強くも冷たくもなく、どこかためらいがちで、不器用だ。
「少しだけ、撫でても……逃げないと思う?」
僕は瞬きをした。
保科翼が。あの保科翼が。おそるおそるそんなことを聞いてくる。
しかも、どこか上目遣いで。
たぶん本人は無自覚だろう。無自覚だからこそ質が悪い。こんなの、まともに受けたら心臓がもたない。
「た、たぶん……急に触らなければ、大丈夫かも」
「……そう」
保科は短く息を吸い、まるで重要な実技試験にでも臨むみたいな真剣さで腰を落とした。そして、そろそろと手を伸ばす。細く白い指先が、ありえないほど慎重に猫へ近づいていく。
猫は少しだけ鼻を鳴らしたが、逃げなかった。
指先がふわりと毛並みに触れる。
その瞬間、保科の顔がぱっと明るくなった。
「……っ」
声にならない歓声、みたいなものが口元から漏れる。唇がわずかに緩み、目元が柔らかく細められる。そんなふうに笑うのか、と僕は思った。
昼休みの彼女は、綺麗だった。
今の彼女は、ずるいほど可愛かった。
「やわらかい……」
保科は消え入りそうな声で呟いた。もう僕の存在を忘れているのかもしれない。猫を撫でるたび、彼女の表情はどんどん幼く、素直になっていく。さっきまで漂っていた近寄りがたさは影も形もなく、ただ好きなものを前にした女の子がそこにいた。
猫が気持ちよさそうに喉を鳴らし、保科の手に自分から頬を擦りつける。
そのとたん、保科は露骨に顔をほころばせた。
「……かわいい」
それは猫に向けた言葉のはずなのに、聞いていた僕のほうが妙にいたたまれなくなって、視線を逸らした。耳まで熱くなっている自覚がある。たぶん今の僕は相当変な顔をしている。
しばらくして満足したのか、猫はひと鳴きして塀の向こうへ去っていった。保科はその後ろ姿を名残惜しそうに見送ってから、ゆっくりと立ち上がる。そして、数秒の沈黙ののち、はっとしたように僕を見た。
現実に引き戻されたらしい。
昼間の凛とした空気を取り戻そうとしているのがわかる。背筋を伸ばし、咳払いまでしている。けれど、一度崩れた威厳はそう簡単には元に戻らない。というか、僕の中ではもう完全に手遅れだった。
「……今のこと」
保科は視線を泳がせたあと、観念したように言った。
「誰にも言わないで」
予想外だったのは、その言葉が脅しではなく、お願いに近い響きをしていたことだ。
「別に、言わないよ」
僕がそう返すと、保科は少しだけ目を見開いた。もっと怯えたり、慌てたりすると思っていたのかもしれない。けれど、こんな秘密をわざわざ言いふらすほど、僕は目立ちたがりじゃない。
それに、言えるわけがなかった。
こんな一面を知ってしまったら、もう以前みたいに遠くから憧れているだけではいられない気がしたからだ。
「本当に?」
「うん。本当に」
保科は僕の顔をじっと見つめた。試すような目ではなく、確かめるような目だった。やがて、ふっと肩の力を抜く。
「……そう。なら、よかった」
その言い方が妙に素直で、僕はまた心臓のあたりが騒がしくなるのを感じた。
西日が傾き、校舎の影が中庭に長く落ちていた。昼間なら決して見られなかったであろう沈黙が、今はむしろ心地よい。僕は抱えたままだった資料の束を思い出し、慌てて持ち直した。
「あ、僕、これ運ばないと」
「……先生の手伝い?」
「う、うん。準備室まで」
「そう」
保科は一瞬だけ資料に目を向け、それから僕へ視線を戻した。整った顔立ちはもうかなりいつもの無表情に近づいていたが、さっきの残滓みたいなものがまだ目元に残っている。完全に隠しきれていないところが、かえって危ない。
「じゃあ、行きましょう」
「え?」
「準備室。私は職員室に用があるから、その行くついでよ」
保科は僕の戸惑いなど意に介さず、当たり前みたいに隣へ並んだ。距離は近すぎず遠すぎず、けれど、ひとりで歩いていたさっきよりも確実に世界が騒がしく感じる程度には近い。
僕は緊張で、抱えた資料を落としそうになった。
「そんなに力まなくても、取って食べたりしないわ」
前を向いたまま、保科が言う。
「……それとも、昼休みのせいで怖い?」
「こ、怖くは……」
「じゃあ何?」
問われて、僕は返事に詰まった。
怖くはない。むしろ逆だ。たぶん今の僕は、昼休みよりずっと危険な状態にある。完璧で遠い存在だと思っていた相手の、誰にも見せないような顔を見てしまった。その事実だけで、心拍数が変になるには十分すぎた。
答えられずにいると、保科は小さく息を吐いた。
「……変な人」
呆れたような声音だった。けれど、その横顔は少しだけ柔らかかった。
そして準備室の前に着いた時、保科は扉に手をかける前に、ふと思い出したようにこちらを振り返った。
「ねえ」
「な、何?」
「明日も、あの子が来るかもしれないから」
そう言って、彼女はほんのわずかに言い淀む。
最強で、完璧で、隙がないはずの保科翼が、たったそれだけの一言を口にするために躊躇っている。そのこと自体が、もう信じられなかった。
「もし見かけたら……教えて」
静かな声だった。
「できれば、他の人じゃなくて、あなたが」
扉の隙間から差し込む夕暮れの光が、彼女の横顔を淡く照らしていた。普段なら近寄りがたいだけのその美貌が、今はどうしようもなく無防備に見える。
僕は返事をするまでに、少し時間がかかった。
「……うん」
やっとそれだけ言うと、保科は小さく頷いた。
「ありがとう」
その笑みは一瞬だった。
けれど、昼休みに見たどんな凛々しい表情よりも、僕の胸にはっきりと焼きついた。
その日を境に、保科翼は僕の中で、ただ憧れるだけの遠い存在ではなくなった。
校内最強で、誰よりもカッコよくて、完璧で。
なのにどういうわけか、そんな彼女は、僕の前でだけは少しずつ、拍子抜けするほど可愛い顔を見せるようになる。
――その始まりが、あの夕暮れの中庭だった。
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