保科翼
「なぁ、保科! 俺と付き合ってくれよ」
昼休みの喧騒がまだ廊下に残っている時間だった。
そんな空気を乱暴に裂くような大声が、二年校舎の端まで響いた。
声の主は、この学校で知らない者はいない不良――工藤だった。制服は着崩され、ネクタイは緩みきり、立っているだけで周囲の空気を濁らせるような威圧感がある。廊下を歩いていた生徒たちは何事かと足を止め、教室の中にいた生徒たちまで窓際や扉の近くへ視線を向けていた。
その視線の中心に立っていたのは、銀髪の少女だった。
「な! いいだろ! お前は俺の横にいるのが一番性に合ってると思うぜ~。いいこともたくさんしてやるからよ」
軽薄で下卑た響きを含んだ誘い文句。けれど、それを真正面から受けてもなお、彼女の表情は少しも揺れない。
保科翼。
校内でその名を知らぬ者はいない。
艶のある銀髪に、目を奪うほど整った顔立ち。すらりと伸びた手足と、運動部のエースたちすら一目置くほどの運動神経。加えて、定期考査では常に上位、教師陣からの信頼も厚い。まさしく才色兼備という言葉を、そのまま人の形にしたような存在だった。
だが、彼女が周囲から特別視される理由は、それだけではない。
綺麗だから。頭がいいから。運動ができるから。
そんな要素は、いわば表面にすぎない。
保科翼という人間を本当に際立たせているのは、そこに一切の隙がないことだった。誰に媚びず、群れず、怯まず、自分の意思だけでまっすぐ立っている。その姿は同学年の女子というより、完成された何かのようで、だからこそ皆、半ば憧れ、半ば畏れながら彼女を見ていた。
そんな保科は、目の前の工藤を静かに見据えたまま、淡々と口を開いた。
「ごめんなさい。私、これから職員室に用があるの。貴方に付き合えるほど暇じゃないわ」
それだけでも十分に拒絶の意志は伝わる。
だが、保科の言葉はそこで終わらなかった。
「そんなに時間が余っているのなら、自分の進路や生活態度について先生と相談したほうがいいと思う。そちらのほうが、よほど有意義でしょう?」
言葉そのものは丁寧なのに、込められた温度は驚くほど低い。
まるで薄く研がれた刃物を喉元へ静かに突きつけられたような、容赦のない一言だった。
一瞬、周囲の空気が凍る。
工藤のこめかみがぴくりと引きつり、口元が露骨に歪んだ。笑って流せるはずもない。周囲の視線が集まっているからこそ、引くに引けないのだろう。苛立ちを隠しきれないまま、彼は保科の肩を掴もうと手を伸ばした。
その動きには、もはや告白の気配など欠片もなかった。
見ているこちらにもはっきりわかるほど、剥き出しの悪意と敵意だけがそこにあった。
教室の扉のそばからその様子を見ていた僕は、思わず息を呑む。
やばい、と思った時には、もう手遅れだった。
――ただし、不利になるのは保科のほうではなかった。
工藤の腕が届くより早く、保科はほんの半歩だけ身を引いた。
たったそれだけの動きで、伸ばされた手は呆気なく空を切る。
さらに体勢を崩しかけた工藤の腕を、保科は流れるような動作で受け流した。無駄のない、洗練された動きだった。力任せではなく、相手の勢いそのものを利用するような鮮やかさがある。
次の瞬間、工藤の身体が横に流れ、そのまま壁へ激しくぶつかった。
「い、痛ェ……!」
鈍い音が廊下に響き、工藤はその場に座り込む。鼻を打ったのか、顔をしかめながら鼻先を押さえていた。取り巻きですらすぐには声をかけられず、ただ唖然とその様子を見ている。
対して保科は、呼吸ひとつ乱していなかった。
制服の乱れを軽く直し、それからゆっくりと振り返る。
その目は冷たかった。怒っているというより、ただ明確に線を引いている目だった。近づくことを許さない、絶対零度の拒絶。その視線だけで、人を一歩退かせてしまえるほどの強さがあった。
「私に軽々しく触らないでくれる?」
静かな声だった。
それなのに、先ほどの怒声よりもずっと強く、廊下に響いた気がした。
「私、自分が許した相手としか触れ合いたくないの」
それだけ言い残すと、保科はもう工藤に一瞥もくれず、踵を返した。
銀色の髪がふわりと揺れ、遠ざかっていく背中には、勝者の余裕すら滲んでいる。
あとに残ったのは、しばしの静寂だった。
誰もすぐには口を開けなかった。
あまりにも一方的で、あまりにも鮮やかだったからだ。
やがて、堰を切ったように周囲から声が漏れ始める。
「保科さん、やっぱりカッコよすぎる……」
「あの工藤相手に、あそこまで言えるの本当にすごいよな」
「可愛いし、強いし、頭いいし……もう最強じゃん」
賞賛とも畏怖ともつかないざわめきが、廊下のあちこちで広がっていく。
そのどれもが、保科翼という存在の特別さを改めて裏づけるものだった。
そして、僕もまた、その場で彼女に目を奪われていた一人だった。
あんなふうに、誰にも媚びず、誰にも屈しないでいられる人がいるのかと思った。
相手が不良だろうと臆することなく、冷静に、堂々と、必要なら実力で黙らせる。綺麗で、強くて、頭まで切れる。まるで漫画やドラマの中からそのまま抜け出してきたみたいな、完成されたヒロイン。
教室の隅で目立たないように生きている僕なんかとは、住む世界が違う。
それでも、いや、だからこそ思ったのだ。
――カッコいい、と。
ただ、そんなふうに憧れだけを抱いていられたのは、きっとあの瞬間までだった。
保科翼は、誰に対しても完璧で、誰に対しても隙のない、絶対に崩れない最強の人間だと思っていた。
――あの時までは。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
このお話が少しでも面白いと感じていただけたら、ぜひ「♡いいね」や「ブックマーク」をしていただけると嬉しいです。
応援が次回更新の励みになります!




