第49話 温泉と月の夜に(後編)
美味しい食事をいただいた後、女将が案内してくれた先は旅館の屋上だった。
夜空に浮かぶ月が、まるで水面のように輝いている。
その柔らかな光が温泉郷全体を銀色に染め上げ、幻想的な雰囲気を作り出していた。
湯けむりが月明かりに照らされ、白い靄となって町を覆う様子は、まさに絵画のようだ。
そこには既に多くの浴衣姿の人々が集い、月を眺めながら酒を酌み交わしていた。和やかな笑い声が夜風に乗って響く。
「あ、あそこにエドワード将軍が...」
スイリアが小声で言う。彼女の声には微かな緊張が混じっていた。
エドワード将軍は浴衣姿で月を眺めていた。温泉で見た時よりもさらにリラックスした様子で、手には日本酒らしき盃を持っている。
彼の隣には数人の部下らしき人たちがいて、彼らも同じように浴衣姿だ。
普段の鎧姿とは全く違う光景に、一瞬戸惑う。
俺たちが近づくと、エドワードが気づいて手を振った。
「やあ、皆さんもいらしたか」
その声には温泉で聞いたようなくつろいだ調子が感じられる。
「こんばんは、エドワード将軍」
スイリアが丁寧に挨拶する。彼女の仕草には生まれ育った王宮での教育が垣間見える。
優雅で上品な佇まいが、月の光に照らされて一層映える。
「スイリア姫、ご機嫌麗しく。いかがお過ごしでしょうか」
エドワードの視線が一行に注がれる。
彼の目には優しさがあった。
いつかの厳しさはどこか遠くへ行ってしまったかのようだ。
「はい、お陰様で元気で過ごしております。あ、あの……」
「ん?」
「この間は、わがままを言ってしまい、すみませんでした。エドワード様も私の身を案じてくださったのに……」
おずおずと謝るスイリアにエドワード将軍は一瞬ぽかんとした顔をしていたが、意味が分かると、はっはっはと高らかに笑った。
「気にすることやあらん。姫がこうして無事にいらっしゃれればそれでよしです。芦名殿に任せてよかった。この話はこれで終わりにしましょう。ところで、そちらのお嬢さんも、湯は楽しみましたかな?」
「はい、とても温まりました! お湯がすごくいい感じで、お肌もすべすべになってるんですよ!」
陽菜が元気よく答える。彼女はエドワード将軍という高位の人物にも臆することなく、いつも通りの明るさだ。その率直さが、場の空気を和らげる。
エドワードは陽菜の屈託のない返事に、思わず優しく微笑んだ。
「良い湯だろう。この温泉郷の湯は疲れを癒すだけでなく、心の傷も癒すと言われている」
彼の言葉に深い意味を感じる。きっと彼自身も多くの傷を抱えながら生きてきたのだろう。
「心の傷も...」
スイリアがつぶやく。その横顔に浮かんだ表情は、何か遠い記憶を辿るような、少し寂しげな色を帯びていた。彼女の言葉に何か深い意味を感じた。
宴は次第に盛り上がり、地元の踊り手が伝統舞踊を披露する場面もあった。
数人の女性が円形に並び、優雅に手を動かしながら舞う姿は、まるで水の精のように美しい。
一連の動きには、源泉を守り、感謝するという意味が込められているのだろう。その神聖さが伝わってくる。
「わぁ、すごい!」
陽菜が目を輝かせながら踊りに見入っている。その瞳に映る光景が、きっと彼女の中で鮮やかな思い出として刻まれていくのだろう。
「これはフォンテーヌの舞というんですよ」
女将が説明してくれた。
「温泉の神様に捧げる踊りなんです。昔から伝わる大切な儀式で、湯の恵みに感謝し、これからも温泉が枯れないよう祈る意味があるんですよ」
踊りが終わると、女将から「お客様も参加してみませんか」と誘われる。
「え、私たちが!?」
陽菜は驚いた様子だが、目は期待に満ちて輝いていた。
「ぜひぜひ、簡単な踊りですから」
「やってみようよ、スイリア!」
陽菜がスイリアの袖を引っ張る。その無邪気な仕草に、スイリアも断りきれない様子だ。
「え、私なんて...」
スイリアは恥ずかしそうにしていたが、結局二人は踊り手に混じって輪の中に入った。先ほどの踊り手の指導で、二人は簡単なステップを教わる。
最初は恥ずかしそうにしていたスイリアだったが、徐々に表情が和らぎ、優雅に手を動かし始めた。彼女の動きには自然な気品があり、まるで生まれながらにして踊りを知っていたかのようだ。
陽菜は少しぎこちないものの、笑顔で楽しそうに踊る。彼女の明るさと無邪気さが場の雰囲気を一層盛り上げている。
「いやぁ、スイリア様、意外とお上手ですにゃ」
ミアが感心した様子で言う。彼女も目を輝かせて見つめていた。
確かにスイリアの動きは流れるように美しく、エルフの血を引く彼女の繊細さが表れていた。月の光に照らされた彼女の姿は、まるで妖精のように神秘的だ。
「まるで妖精のようだ...」
と俺もつい見惚れてしまう。その言葉が口から漏れたことに気づき、少し照れた。
踊りが終わると、二人は少し照れくさそうに戻ってきた。陽菜の頬は上気し、スイリアの銀紫色の髪は少し乱れていたが、二人とも満足げな表情を浮かべていた。
「すごく楽しかった! あーでも緊張した! みんな見てたしね」
陽菜が頬を赤らめながら言う。
「恥ずかしかったです...」
スイリアはそう言いながらも嬉しそうだった。彼女がこんなに素直に感情を表に出すのは珍しい。この宴の雰囲気が彼女の心を和らげたのかもしれない。
宴も深まり、月は天高く昇っていた。その光は温泉郷を優しく包み込み、静かな輝きを放っていた。
エドワード将軍が俺たちのところに寄ってきて、「少し話さないか」と誘われた。彼の表情には、どこか懐かしさと寂しさが混じっているように見えた。
月明かりの下、俺たちは縁側に腰掛ける。そこからは町全体が見渡せ、湯けむりの向こうに家々の灯りが点々と輝いていた。
エドワードは深く息を吐くと、スイリアに静かに語りかけた。
「スイリア姫、あなたの母上も強い人です」
その言葉にスイリアの身体が微かに震える。
「エルフの血を引き、それでいて王都で堂々と生きていた。あなたもその血を受け継いでいる」
「母上のことを...」
スイリアの目に涙が光る。その瞳に映る月の光が揺れ、まるで水面のようだった。彼女が母親について話すのを聞いたことがなかったので、その反応に胸が締め付けられる。
「そうだ。彼女は立派な人です。臆することなく、自分の道を貫いた。そして、あなたも立派に成長している」
エドワードの声には、まるで自分の子供を見るような温かさがあった。彼とスイリアの母親には、何か特別な繋がりがあったのかもしれない。
「スイリア...」
陽菜が友人の肩に手を置いた。友情の温もりが伝わるようなその仕草に、何か特別なものを感じる。
「私...自分の居場所を見つけたいんです」
スイリアが静かに言った。彼女の声は小さいが、揺るぎない決意が感じられた。
「そして、今はここが私の居場所なんだと思うようになりました。芦名殿や陽菜さん、ミア...彼らと過ごす時間が、私にとっては大切なものになっています」
彼女の言葉に、胸が熱くなった。彼女もまた、この旅を通して何かを見つけようとしているのだろう。
それは俺たち全員に言えることかもしれない。
エドワードはゆっくりと頷き、「そうか。それならば良い」と言った。老練な将軍の目には、安堵の色が浮かんでいた。
「ただ、いつでも王都に帰ってきてほしい。あなたのお父上も、きっと会いたがっているだろう」
スイリアはしばらく沈黙した後、静かに頷いた。彼女の横顔には、複雑な感情が浮かんでいた。
「はい...いつか、必ず」
その言葉には強い決意が込められていた。きっといつか、彼女は自分の出自と向き合い、新たな一歩を踏み出すのだろう。俺たちはその時、彼女の力になれるだろうか。
夜も更け、俺たちは部屋に戻った。障子の外からは月の光が差し込み、静かな夜の雰囲気に包まれる。部屋の中は、ほのかな温かさが漂っていた。
陽菜は窓辺で月を眺め、スイリアは静かに座り、ミアは既に眠そうな目をしていた。
「今日は楽しかったね」
陽菜が布団に横になりながら言った。彼女の声には満足感が溢れていた。
「ええ、とても」
スイリアも微笑んだ。その表情には、今日一日の疲れと充実感が混ざっていた。
「スイリア様がお父上に会いに行くなら、私もついていきますにゃ!」
ミアが猫耳を揺らしながら言う。彼女の忠誠心はいつも変わらない。
「ありがとう、ミア」
スイリアの声には深い感謝が込められていた。
俺は窓辺に立ち、月を眺めていた。今日の温泉と宴、そしてスイリアとエドワードの会話。
短い時間だったが、皆の心が少し軽くなったような気がする。この異世界での日々が、いつしか俺の新たな思い出になっていることに気づいた。
「さだっち、何考えてるの?」
陽菜が声をかけてきた。彼女の目には純粋な好奇心が宿っていた。
「ん? ああ、なんでもない。ただ...こういう時間も悪くないなと思ってね」
戦場での緊張の日々から離れ、こうして平和な時間を過ごすことの大切さを、改めて感じていた。
「うん、たまにはね」
陽菜も月を見上げる。その瞳に映る月は、彼女の世界の月と同じだろうか。
「異世界でも温泉があって、月があって...なんだか不思議な感じ」
彼女の言葉に、思わず頷いた。確かに不思議だ。遠く離れた世界なのに、こうして同じ月を眺め、同じお湯に浸かる。何か運命めいたものを感じずにはいられない。
「でも、こういう時間があるから、また頑張れる気がするよ」
陽菜の言葉に、スイリアとミアも頷いた。確かに、戦いの合間のこんな静かな時間が、俺たちの心を癒してくれる。それぞれが抱える傷や疲れを、少しずつ洗い流してくれるのだろう。
「さて、明日はどうする?」
俺が尋ねると、「もう一回温泉入りたーい!」と陽菜。
「私も...」
とスイリアも小さく頷いた。彼女の顔にはリラックスした表情が浮かんでいた。
俺はクスリと笑った。どうやら明日も温泉でゆっくりすることになりそうだ。
軍人としては、こんな平和な時間を過ごすことが贅沢に思えた。でも、今の俺にはこの静けさが必要なのかもしれない。
窓の外から聞こえる虫の音と、部屋の中の穏やかな寝息が織りなす夜の調べ。いつしか俺の瞼も重くなっていった。
「おやすみ、みんな」
そっと呟いて、俺も布団に身を沈める。
明日はきっと、また新しい発見があるだろう。この異世界での冒険は、まだまだ続く―――。




