第48話 温泉と月の夜に(前編)
アカブトマガス退治から半年が経った頃、俺たちは慰労会のようなものを開くことにした。
少し羽を伸ばす時間があってもいいだろう。それぞれが心の内に抱える傷を癒す時間も必要だ。
「さて、どこか行きたいところはあるか?」
俺が尋ねると、陽菜が両手を勢いよく挙げ、元気な声を響かせた。
「温泉! この辺りに温泉地があるって聞いたんだけど、行ってみない? お湯に浸かるだけでリフレッシュできるし、なんだか日本を思い出すなぁ」
そう言いながら、彼女は懐かしむように目を細める。澄んだ瞳に故郷への思いが揺れていた。ついつい見入ってしまう。
スイリアもミアも異議なしという表情でうなずいた。スイリアは特に興味深そうな表情を浮かべている。異世界でも温泉文化があるのか気になるのだろう。
「よし、決まりだな。近くの温泉地に向かおう」
俺はそう言って、地図を広げた。この異世界の地図は陽菜の世界の福島県に似ていて、彼女曰く、そこに「湯野上温泉」という場所があるらしい。
ここでは「ユガミ温泉郷」と呼ばれているようだ。
翌朝、俺たちは早々に出発した。
ミアは最初、診療所の留守番をしなければならないと言っていたが、スイリアが「たまには休んでいいのよ」と優しく声をかけると、まるで子猫のように目を輝かせ、尻尾をピンと立てて喜んだ。
その様子があまりにも可愛らしくて、思わず微笑んでしまった。
道中、陽菜は日本の温泉についてずっと語っていた。彼女が故郷について話すとき、いつも目が輝いているのが印象的だ。
「温泉って本当にいいよね〜。会津には沢山温泉あるんだぁ。東山温泉、芦ノ牧温泉、熱塩温泉...」
陽菜は指を折りながら、まるで宝物を数えるように温泉の名前を挙げていく。
「温泉地によって泉質も違うし、効能も違うんだよー。お肌がつるつるになるやつもあれば、疲労回復のやつもあって...あっ、もしかしてさだっちの肩こりにも効くかも!」
彼女の言葉に、思わず肩を揉みながら苦笑した。
確かに、艦長を拝命してから、デスクワークと緊張で肩こりには悩まされていたっけ。
スイリアは興味津々といった表情で陽菜の話に聞き入っていた。その真剣な眼差しが、何とも言えず魅力的だ。
「日本には温泉文化が根付いているんですね。エルフの国にはそういった習慣はありませんでした」
「えー! エルフは温泉に入らないの?」
陽菜が驚いた表情で尋ねると、スイリアは静かに首を振った。銀紫色の髪が優雅に揺れる。
「滝行はしますが、お湯に浸かる習慣はないんです。むしろ、熱い湯に浸かるという発想自体がなかったかもしれません」
「滝行!? 冷たい水に打たれるやつ? 修行みたいなやつ? うわぁ、想像しただけで寒気がするよー」
陽菜が両腕を抱きながら身震いする姿に、ミアがクスクスと笑い声を上げた。
「でも陽菜さん、寒いのが苦手なのに、冬の会津でアイスを食べるって言ってましたよね?」
「それは別! アイスはいつでも食べたいもんだよ!」
そんな他愛もない会話を交わしながら歩くこと数時間。
道中の小さな発見や、季節の変化に気づくたびに、陽菜が嬉しそうに指さす。
スイリアはそれを優しく見守り、ミアは時折興味を示す。
彼女たちと過ごす日常の何気ない時間が、不思議と心地よい。
やがて山間から湯けむりが立ち上る小さな町が見えてきた。
木々の間から覗く木造の建物と、石畳の道。懐かしさを感じる雰囲気だ。
「着いたぞ。ユガミ温泉郷だ」
町の入り口には「ユガミ温泉郷」と彫られた石碑があり、その横には小さな祠が置かれていた。
「あれは湯神様を祀ってるんだって」
地元の案内書を読んだ陽菜が教えてくれる。石碑の前で、彼女は軽く手を合わせた。その仕草が何とも愛らしい。
俺たちは町の中心部へと歩を進めた。
道中にはいくつもの旅館や土産物屋が立ち並び、どこからともなく硫黄の香りが漂っていた。
温泉特有のあの匂いに、どこか懐かしさを覚える。
「あの建物が一番大きいね。泊まるなら、あそこがよさそう」
陽菜が指さした先には「湯守りの宿 星月」と書かれた立派な木造建築があった。二階建ての日本家屋風で、入口には赤い提灯が下がっている。昭和初期の日本の旅館を思わせる佇まいだ。
俺たちはその旅館に向かって歩を進めた。入り口には若い女将らしき人が立っており、俺たちを見るなり深々と頭を下げた。彼女の所作は洗練されていて、長年の経験を感じさせる。
「いらっしゃいませ。湯守りの宿 星月でございます」
「四人で一泊したいんですが、空いてますか? 部屋割りは、女三人と男一人の別々でお願いします」
俺が尋ねると、女将は端正な顔立ちに柔らかな笑みを浮かべて頷いた。
「ご用意できますとも。お部屋は眺めのよい山側になりますが、よろしいでしょうか」
俺たちは顔を見合わせてうなずき、案内されるままに旅館の中へと入っていった。
旅館の中は和風の佇まいで、廊下には畳が敷かれ、所々に生花が飾られていた。
廊下を歩くとき、畳の香りと木の温もりが懐かしさを呼び起こす。昭和の日本にいた頃の記憶が、断片的によみがえってくる。
「いやぁ〜、本当に日本の旅館みたい!」
陽菜が目を輝かせながら言う。確かに俺の知る日本の旅館に非常に似ている。こうして異世界と昭和の日本の共通点を見つけるのも面白いものだ。時々、彼女と同じものを見て感じられることに、どこか特別な感覚を覚える。
案内された部屋は広々とした和室で、窓からは山々の緑が見えた。縁側には座布団が置かれ、隅には床の間まで設えられている。
「わぁ、すごく綺麗...」
スイリアが感嘆の声を上げる。彼女のそのような素直な驚きの表情を見るのは珍しく、心がほっと和む。
女将が茶菓子と共にお茶を運んできてくれた。茶菓子は小さな月の形をした和菓子で、ほんのりとした甘さが心地よい。
「温泉は内湯と露天風呂がございます。また、本日は『月見の宴』という催しを行っておりますので、よろしければご参加ください」
「月見の宴?」
と聞き返すと、女将は「夜空を眺めながらお酒と食事を楽しむ催しでございます」と説明してくれた。
なるほど、こういった催しも日本の風情を感じさせる。
「それじゃあ、まずはお風呂に入りましょうか」
陽菜が提案した。長旅で汗ばんだ体を清めたいという気持ちは皆同じだったようだ。
「そうですね。長い道のりで疲れましたし」
スイリアも同意する。その声にはいつもの緊張感がなく、少しリラックスしているようだ。
さっそく用意された浴衣に着替え、女性陣と別れて俺は男湯へと向かった。
男湯は意外にも空いていた。石造りの内湯に滑り込むと、熱い湯が疲れた体を包み込む。まるで全ての緊張が溶けていくような心地よさだった。
「はぁ...極楽だ」
思わず漏れる溜息。こんな穏やかな時間がもっとあってもいいかもしれない。
ずっと戦闘と緊張の連続だったから、こうして体を休める時間の大切さを忘れていた。
湯気の向こうから「芦名殿」と声がかかった。振り向くと、意外な人物がそこにいた。
「エドワード将軍!?」
まさか温泉でエドワードに会うとは思わなかった。彼は厳格な将軍として知られているが、こんな場所で出会うとは...。
彼は湯船の向こうから手を挙げて挨拶した。
「やあ、芦名殿。こんな所で会うとは思わなかったよ」
「こちらこそです。将軍も温泉がお好きなんですか?」
エドワードはゆっくりと湯に浸かりながら頷いた。普段の凛々しさは残しつつも、どこかリラックスした表情を見せている。
「ああ、この歳になると古傷が疼いてねえ。温泉の湯に浸かると心身ともに癒される」
そう言いながら、彼は肩を回した。戦場で負った傷なのだろうか。彼の顔に一瞬痛みが走ったように見えた。
不思議なものだ。先日までは厳しい顔で俺たちを詰問していた彼が、今や湯煙の中でリラックスした表情を見せている。人間味を感じさせるその姿に、なぜか親近感を覚えた。
「芦名殿、スイリア様はどうしてるかね?」
「はい、お元気にされてますよ。今日も私や仲間と一緒にこの温泉に来ています」
陽菜のことを思い出すと、つい顔がほころぶ。彼女の明るさが、どれだけ俺たちの旅を照らしてくれていることか。
「そうか、あとでお目にかかりに行くとするかな」
エドワードは目を閉じて湯に身を沈めた。その顔には、長い軍務の疲れが刻まれている。
「人は時に休息も必要だ。戦い続けるだけでは心が枯れてしまう」
彼の言葉は、ずっと戦場を駆け回ってきた俺の心に染み入った。休むことも大事な戦略なのかもしれない。
「芦名殿、今夜の月見の宴に参加するかい? 私も顔を出す予定でね」
「参加する予定です。皆も楽しみにしていますので」
そんな会話を交わしながら、俺たちは湯に浸かり続けた。熱い湯に体を委ね、じわじわと疲れが溶けていくのを感じる。
ふと、女湯の方から陽菜の楽しそうな笑い声が聞こえてきた。その声に思わず微笑む。きっと彼女たちも温泉を満喫しているのだろう。
温泉から上がって部屋に戻ると、既に女性陣は浴衣姿で待っていた。
スイリアの浴衣姿は凛として美しく、陽菜は元気に手を振り、ミアは猫耳をピクピクさせながら恥ずかしそうにしている。彼女たちの姿を見て、なぜか胸が温かくなった。
「さだっち、遅いよー!」
陽菜が頬を膨らませる。その仕草があまりにも幼くて、思わず笑ってしまった。
「すまんな、温泉が気持ち良くて」
「芦名殿、すっきりしました?」
スイリアが微笑みながら尋ねる。彼女の頬は湯冷めで少し赤くなっていて、いつもより柔らかな表情だった。銀紫色の髪を簡単にまとめ上げた姿が、いつもと違って新鮮だ。
「ああ、かなりリフレッシュできた。エドワード将軍とも会ったよ」
「エドワード将軍が!?」
スイリアが驚いた顔をする。その表情から、彼女とエドワード将軍の間には何かあるのかもしれないと感じた。
「そうだ。彼も月見の宴に参加するそうだ」
「そうでしたか...少し緊張してしまいますね」
スイリアの表情が一瞬曇った。エドワード将軍が彼女の父親と関わりがあることを考えると、複雑な感情なのかもしれない。
「大丈夫だよ、ここは温泉だし、みんなリラックスしてるから」
陽菜が慰めるように言う。彼女の言葉には、不思議と人を安心させる力がある。スイリアも小さく頷いた。
そうこうしているうちに、仲居さんが夕食の準備に来た。部屋には立派な膳が並べられ、地元の山の幸、川の幸が所狭しと並ぶ。香ばしい焼き魚の匂いと、蒸し物の上品な香りが室内に広がる。
「すごーい! めっちゃ豪華!」
陽菜が目を輝かせる。その反応が微笑ましい。
「これは...とても美味しそうです」
スイリアも感嘆の声を漏らした。
ミアは既に目の前の魚に手を伸ばしそうになっていた。猫のような仕草で、思わず笑ってしまう。
「ミア、行儀よくね」
俺が軽く注意すると、彼女は猫耳をピンと立てて「はにゃっ!」と声を上げた。可愛らしい反応に、皆で笑いながら食事を始めた。




