第50話 温泉宿の猫耳マッサージ~ミアの忠誠心~
みなさん、こんにちは! 房吉です。
今回は少し趣向を変えて、芦名視点で温泉宿でのひと時をお届けします。戦いの合間の日常回、そして芦名とミアの意外な交流を描いています。
ほっと一息つけるようなエピソードです。どうぞお楽しみください!
「くっ……」
思わず呻き声を漏らしてしまった。肩の古傷が、温泉に浸かった後というのに妙に痛み出したのだ。
宿の廊下を歩いていると、ふらりと足元がおぼつかなくなる。
壁に手をつき、なんとか体勢を立て直した。
見事な梁組みの天井が、一瞬揺れて見える。
「芦名様、大丈夫ですか?」
振り返ると、浴衣姿のミアが心配そうな顔で立っていた。
彼女の猫耳が不安げにぴくぴくと動いている。漆喰の白壁に、彼女の姿が繊細な影絵のように映り込んでいた。
「ああ、なんでもない。少し古傷が痛むだけだ」
俺はそう答えたが、実際は刺すような痛みが肩から背中にかけて走っていた。
「でもそれ、かなり辛そうですよ? スイリア様に診てもらいましょうか?」
ミアの目が真剣だ。丸い瞳孔が僅かに開き、俺の様子を見つめている。このような時、彼女の猫としての素性がよく現れる。
「いや、二人は楽しそうだったから、帰ってくるまで待とう」
スイリアはさっき、この温泉宿の近くにある薬草園まで陽菜と山菜採りに出かけたところだ。あの二人の笑顔を思い出すと、俺も自然と口元が緩む。
「それじゃあ…私がお手伝いしますにゃ! スイリア様がいないときは、私がスイリア様の代わりをしなければなりませんから!」
ミアは猫耳を元気よく立てて、まっすぐ俺を見上げてきた。その決意の表情には、スイリアへの強い忠誠心が垣間見える。小さな体から放たれる気迫に、思わず感心してしまう。
「君が?」
「はい! 私もスイリア様から医術を少し習っています。特に肩こりや古傷のマッサージは得意ですにゃ!」
ミアが自信満々に胸を張る姿に、俺は微笑まずにはいられなかった。小さなメイド服の胸元のリボンが、彼女の息遣いに合わせて揺れている。
「それは助かる。では、お願いできるだろうか」
「はい! お任せくださいにゃ! スイリア様が戻ってくるまでに、芦名様を楽にしてみせます!」
彼女は嬉しそうに尻尾を左右に振った。その様子は、まるで子猫がおもちゃを見つけた時のように無邪気で愛らしい。どうやら彼女の尻尾は感情の表れなのだろう。
「では、芦名様のお部屋で施術させていただきますね」
俺の部屋に入ると、ミアは手際よく準備を始めた。和室の窓からは夕暮れの空が見え、遠くの山々が紫色に染まっている。温泉宿特有の硫黄の香りが、かすかに鼻をくすぐる。
「浴衣の上からでは難しいので、少し肌を出していただけますか?」
「ああ」
俺は浴衣の上半身をはだけさせ、肩を露出した。ビスマルク海の戦いで負った銃創の跡が、赤黒く残っている。今はもう痛まないはずだったのに、なぜか今日に限って疼きを感じる。
「これは……」
ミアは少し驚いたように目を見開いた。黄金に輝く瞳に、かすかな同情の色が浮かぶ。
「酷い傷ですね……戦場で負われたのですか?」
「ああ。フネから投げ出されたあとに、敵機からの機銃掃射を受けてな」
あの日の記憶が鮮明に蘇る。海の冷たさ、空からの嵐のような銃弾、そして視界を真っ赤に染めた血の色。俺は思わずまた眉をひそめた。
「そうだったんですね……辛かったでしょう」
彼女の眉間に深い皺が寄り、本当に俺の痛みを気にしているようだった。その眼差しに、何故か胸が温かくなる。異世界とはいえ、こうして気遣ってくれる者がいるのは、思いのほか心強い。
「どうする? 浴衣は全部脱いだほうがいいか?」
「いえ、上半身だけで結構です。まずうつ伏せになっていただけますか? スイリア様から教わった特別な施術を行いますので」
俺は畳の上に敷かれた布団にうつ伏せになった。首を枕に乗せ、リラックスする。
桐の香りがほのかに漂う枕カバーが、どこか懐かしい気持ちを呼び起こす。
「では始めますにゃ」
そう言うと、ミアの細い指が俺の肩に触れた。その感触は予想以上に温かい。
「ん……」
思わず声が漏れる。彼女の指先がゆっくりと傷を中心に円を描くように動いていく。驚くほど心地よく、緊張していた筋肉がほどけていくのを感じた。
「痛いですかにゃ?」
「いや……」
痛みなどなかった。むしろ、心地よさのあまり思わず声が出たのだ。緊張から解放された体が、少しずつ重みを増していく感覚。
「よかった。キャットフォークである私たちは、触覚が人間より敏感なんです。だから、筋肉の状態も指先でよくわかるんですよ。スイリア様にも認められた技術なんですにゃ」
ミアは解説しながら、着実に俺の肩周りをマッサージしていく。
初めは優しく、徐々に力を込めてきた。彼女の指先からは不思議な温もりが伝わってくる。
まるで小さな光の粒子が流れ込んでくるような感覚だ。
「この傷のあたりに、気の流れが滞っていますね。おそらく昨日の温泉で毒素が流れ出そうとして、詰まってしまったのかもしれません」
「へえ、それがわかるのか」
「はい。感覚と経験です。スイリア様は私よりずっと優れていますが、私もスイリア様に褒められるくらいには上達しましたにゃ」
彼女の指が俺の肩甲骨の間を押し、背中全体を揉みほぐしていく。次第に体が温かくなってきた。血が巡り始めたのか、肩の痛みが徐々に和らいでいくのがわかる。
「芦名様、とても緊張されていますね。もっとリラックスしてください」
そう言われて気づいた。確かに体に力が入っていた。女性に触れられることに慣れていない自分の反応に、少し恥ずかしさを覚える。
「すまない……」
「大丈夫ですよ。深呼吸してみてください」
言われるままに息を吸い、ゆっくりと吐き出す。次第に体の力が抜けていくのを感じた。古い鎧を脱ぎ捨てるような、解放感がある。
「そうそう、そのまま……」
ミアの声が優しく耳に届く。不思議と安心感が広がっていく。暖炉で温められたミルクを飲んだような、穏やかな温かさが体の芯に広がる。
彼女の指が肩から背中全体に移動し、丁寧に揉みほぐしていく。その動きには無駄がなく、俺の体の凝りに正確に当たるのが不思議なほどだ。
「これはスイリア様から教わったんです。人の体には気の流れがあって、それを整えると傷の痛みも和らぐんですよ」
「ほう……」
ミアの説明に頷きながら、俺は目を閉じた。久しく味わったことのない安らぎが全身を包み込む。あの南洋での激戦から、どれだけの時が流れただろう。こうして穏やかな時間を過ごせることに、密かな感謝の念が湧いてくる。
「あっ……」
突然、背中に温かい感触が広がった。目を開けると、ミアが両手だけでなく、前腕全体を使って俺の背中に体重をかけているのがわかった。
「す、すみません。大きなこりには、こうすると効果的で……スイリア様もこうされるので」
彼女の声が少し上ずっている。頬が薄く紅潮しているのが、俺の視界の端に映る。どうやら少し恥ずかしいらしい。
「構わない。むしろ気持ちいいよ」
そう答えると、ミアはほっとしたように息を吐いた。口元にかすかな微笑みが浮かぶ。
彼女が体重をかけるたび、かすかに彼女の胸の柔らかさが背中に当たる。
その感触に、俺は思わず息を呑んだ。意図せず意識してしまうことに、内心で自己嫌悪を覚える。
「次は首筋をほぐしますね」
そう言って、彼女の指が首の後ろから耳の下にかけて動き始めた。この部分は特に気持ちが良く、思わず「ふぅ……」と声が漏れる。
「ここ、いいですか?」
「ああ、非常に気持ちいい」
「よかったです……スイリア様にも喜んでもらえると嬉しいです」
ミアの声が嬉しそうだ。彼女の尻尾がピンと立ち、左右に揺れるのが見える。窓から差し込む夕日に照らされた尻尾の輪郭が、影絵のように壁に映る。
マッサージが進むにつれ、肩の痛みはどんどん和らいでいった。
代わりに、全身に心地よい倦怠感が広がっていく。まるで海の底に沈んでいくような、穏やかな浮遊感。
「ミア、君は本当に上手だな。スイリアに教わっただけとは思えないほどだ」
「ありがとうございますにゃ! 実は……キャットフォークには生まれつきのマッサージの才能があるんです」
「ほう?」
「はい。昔から『猫の手も借りたい』という言葉がありますよね。あれは私たちキャットフォークのマッサージ技術が由来なんですよ」
俺は思わず笑ってしまった。彼女の真面目な表情と、その説明のギャップが愉快だった。
「いや、うちの世界では『猫の手も借りたい』は『忙しい時に手伝いが欲しい』という意味だ」
「えっ? そうなんですか?」
ミアは驚いたように手を止めた。猫耳がピクリと動き、目が丸く見開かれる。
「こ、この世界では違うんです。『疲れた時に猫の手でマッサージしてもらいたい』という意味です」
その真面目な表情に、俺はまた笑いを堪えられなくなった。彼女の解釈が妙に筋が通っていて、なおさら可笑しい。
「芦名様、笑わないでくださいにゃ!」
ミアは頬を膨らませて抗議する。その仕草が妙に子供っぽくて愛らしい。いつもの忠実なメイドらしからぬ表情に、親近感が湧いてくる。
「すまない、すまない。ただ、君のその解釈も間違ってはいないな」
彼女の手によって、確かに疲れが癒されているのだから。
「ふんっ」
彼女は少しふくれっ面になったが、また黙々とマッサージを続けた。少ししてからようやく、彼女の耳の緊張が解けたように感じた。
「次は肩を直接ほぐしますね」
そう言って、ミアの手は俺の傷口の周りを丁寧にマッサージし始めた。かつてあれほど痛んでいた場所なのに、今はただ温かな感触だけが残っている。
「ここは気をつけないと……」
彼女の声が真剣になる。その集中力のせいか、彼女は俺の身体に更に近づいてきていた。
背中を向けているため彼女の表情は見えないが、彼女の呼吸が首筋に感じられるほど近い。心臓の鼓動がふと速くなる。
「力を入れますよ……」
彼女の両手が俺の肩を強く押さえた。その指圧は痛いほどだが、同時に心地よさも感じる。凝り固まった筋肉が解れていくような、解放感をともなう痛み。
「うっ……」
思わず声が漏れる。
「ごめんなさい、痛かったですか?」
「いや、いい感じだ……続けてくれ」
ミアはまた黙々と作業を再開した。彼女の手から、ほのかな温かさが伝わってくる。そして彼女のかすかな香り——バニラのような、甘く穏やかな香りが鼻をくすぐる。
「あの、芦名様……」
しばらくして、彼女が恐る恐る声をかけてきた。
「なんだ?」
「スイリア様のこと、どう思ってますか?」
突然の質問に、俺は少し考え込んだ。スイリアのことを尋ねられるとは思わなかった。しかし、彼女の真剣な声音に、誠実に答えることにした。
「スイリア? 彼女は大切な仲間だし、優れた医術師だと思う。なぜそんなことを聞く?」
「いえ……私、スイリア様のお世話係として、スイリア様のことが心配で……」
彼女の声には、何か言い切れない感情が含まれているように感じた。彼女の手の動きがわずかに躊躇う。
「スイリア様は昔から孤独だったんです。ハーフエルフということで、いろんな人に避けられて……でも、芦名様や陽菜さんと会ってから、とても明るくなりました」
ミアの声には純粋な喜びが含まれていた。その声音には、主人を思う従者としての誇りと、友人を案じる友人としての優しさがにじみ出ている。
「スイリア様の笑顔を守れるなら、私は何でもします。芦名様にもずっとスイリア様のそばにいてほしいんです……」
そう言うミアの言葉には、自分の主人を案じる純粋な忠誠心が感じられた。スイリアの幸せを純粋に願うその心に、俺は心を打たれた。
「わかった。俺もスイリアを大切に思っている」
そう言いながら、俺は体を起こした。
「ミア」
振り返ると、ミアの顔には真摯な表情が浮かんでいた。猫耳はまっすぐに立ち、彼女の決意を物語っている。
「私、スイリア様のために……」
彼女の言葉が途切れる。
その時、彼女の尻尾が不意に動き、俺の手に触れた。柔らかく温かい感触。驚くほどの滑らかさに、ハッとする。
「あっ……」
ミアが驚いたように振り返る。尻尾は俺の手に軽く触れたままだ。
「すまない」
俺は手を離そうとしたが、尻尾はまるで意志を持つかのように、軽く俺の手首に絡まった。
「尻尾……?」
「ご、ごめんなさい! 尻尾が勝手に……」
彼女は慌てて尻尾を引き戻そうとするが、むしろ尻尾は俺の腕に軽く巻きついたままだ。ミアの頬が真っ赤に染まっていく。
「尻尾って自分の意志で動くのか?」
「い、いえ……感情が高ぶると、自分でも制御できなくなることが……」
ミアの頬が赤くなる。俺との距離感に気づいたのか、わずかに体を引いた。
「感情?」
「はい……スイリア様のことを話すと、こうなってしまいます。スイリア様への思いが強すぎて……」
彼女はそう言って、恥ずかしそうに尻尾を引き戻した。その純粋な忠誠心が、妙に胸を打つ。この異世界には、想いの強さが形になる不思議がある。それもまた、魅力的だ。
「スイリア様は私の命の恩人なんです。だから……スイリア様を大切にしてくれる人も、私は大切にしたいんです」
そのまっすぐな視線に、俺は小さく頷いた。
「ミア、君のスイリアへの思いはよく伝わった。安心してくれ、俺もスイリアを守るつもりだ」
「本当ですか?」
「ああ。約束する」
ミアの顔がパッと明るくなり、尻尾が嬉しそうに左右に揺れ始めた。
「ありがとうございます!」
彼女の笑顔は、まるで太陽のように輝いていた。スイリアへの純粋な想いが、こんなにも彼女を美しく見せるのか。
その時、廊下から声が聞こえてきた。
「ただいま〜! 山菜いっぱい取れたよ〜!」
陽菜の元気な声だ。スイリアも一緒に戻ってきたようだ。
「あ! スイリア様が!」
ミアは嬉しそうに飛び上がり、洋服を整える。その動きは、まるで猫が飼い主の帰りを喜ぶかのようだった。
「芦名様のおかげで、私の役目は果たせました。スイリア様にご報告してきますね!」
彼女は小さく頭を下げると、急いで部屋を出て行った。その後ろ姿には、主人の帰りを心待ちにしていた忠実な従者の喜びが溢れていた。
俺は一人残され、肩に手を当ててみる。痛みはすっかり消えていた。まるで古い鎧を脱ぎ捨てたかのような、軽やかさを感じる。
「スイリアも、良い部下を持ったな……」
思わず微笑みがこぼれる。この温泉宿での思わぬ時間が、俺にミアの忠誠心の深さを教えてくれた。そして、スイリアという人物への理解も、少し深まったような気がする。
廊下からは、ミアがスイリアに熱心に話す声と、それに笑顔で応えるスイリアの声が聞こえてくる。
俺は浴衣を直し、彼女たちのもとへ向かった。先ほどまで感じていた疲労感はすっかり消え、心地よい軽やかさだけが残っていた。異世界での新たな発見——猫の手を借りることの本当の意味を知った、そんな一日だった。




