第32話 冷泉の守護者~天狗サネカゼとの対峙~
霧の中、しばらく進むと、目の前に人影が現れた。
現れたのはスイリアだった。
「芦名殿……!」
駆け寄ろうとするが、足元の霧が絡みつくように動きを阻む。
しかしもう恐れはない。
自分の“弱さ”と向き合ったばかりのスイリアは、ぎゅっと拳を握りしめて駆け出した。
白いもやを蹴散らし、一気にその人影へ近づく。
「スイリア……!」
芦名がこちらに気づき、手を差し伸べる。 その手を掴んだ瞬間、ふわりと暖かな気配が全身を包み込んだ。 先ほどの孤独や悲しみが、嘘のように薄れていく。
「……会えてよかった」
スイリアの瞳からは安堵の涙がにじみそうになるが、必死にこらえる。
互いに相手を見つめ合い、過酷な幻影を乗り越えたという実感をかみしめるのだった。
深い森の冷気は相変わらずだが、先ほどのような視界を奪う霧は消えかけている。芦名とスイリアは、お互いの姿を確認し合いながら、少し荒い呼吸を整えていた。
「幻……見せられたよな、互いに……」
芦名が呟く。ビスマルク海での地獄絵図から、まだ心の中がざわついているのだろう。
額にはうっすら汗がにじみ、表情はどこか脆さを帯びている。
普段の凛々しさの中に、一瞬だけ覗く弱さに、スイリアは胸を打たれたように見つめた。
スイリアも自分の胸元を押さえつつ、小さく頷いた。銀紫色の髪が風に揺れ、その瞳には先ほどの恐怖がまだ残っている。
「はい……あの頃の嫌な記憶が全部出てきて、正直、息が苦しかった。でも……」
言いかけて、彼女は少し恥ずかしそうに微笑む。頬に僅かな紅潮が差し、その姿は神秘的な輝きを帯びていた。
「でも、芦名殿の声が聞こえて……自分の意地みたいなものが奮い立った気がします。逃げてばかりじゃ、きっと何も変わらないから」
その言葉に、芦名の頬がわずかに緩む。彼も同じように、過去の後悔を振り切ったばかりなのだ。想像よりも早く立ち直った彼女の強さに、少しだけ感心していた。
「俺も……自分が背負っているものを捨てられない。むしろ、そういう宿命があるなら、それをバネにして前に進むしかないって思った」
二人は視線を交わし合う。試練を乗り越えた者同士——そこに確かな連帯感が生まれていた。言葉以上の何かが、二人の間で静かに共鳴しているようだった。
視線を上げると、霧の向こうに小さな社の影が見えた。
苔むした鳥居の奥に、木製の祠。そこから冷たい水音がかすかに漏れ聞こえる。
どうやら、これが本当に"天狗の冷泉"の入口らしい。
足を踏み入れると、森の空気がさらに冷ややかに変化する。
それは単なる温度だけでなく、何か神聖なものが存在する場の雰囲気だった。
社の前には岩の割れ目から湧き出る水路があり、そこが冷泉の源流らしい。
しかし、その水には触れられないように守護者が待ち受けているはず——。
「よくぞ来たな……人の子よ」
思った通り、鳥居の上にかかるようにして、一人の天狗が姿を見せた。
大きな羽団扇に、長い鼻。鋭い眼光がこちらを射抜く。
その姿は妖怪というよりも、厳格な山伏のような威厳を放っていた。
「余はサネカゼ。ここを訪れる者に幻を見せ、試すのが役目。そなた、まだ"迷い"が残っていると見えるが……それでも泉の力を望むか?」
迷いはある。だが引き返すわけにはいかない。俺は真っ直ぐに天狗を見上げた。
陽菜の苦しむ姿が脳裏をよぎり、決意を新たにする。
「望む。この水がないと、俺はまた誰かを失ってしまうからな」
その答えに、天狗は満足げに鼻を鳴らす。微かな笑みを浮かべたその顔は、どこか芦名を試しているような鋭さを残していた。
「いいだろう。ならば、そなたの心の奥底に潜む恐怖をもう一度晒すがいい。それを振り払ってこそ、冷泉は答える……」
そう言い放つや否や、社の扉がぎい、と開き、闇がこちらを招き入れるようにうごめいた。
吸い込まれるような暗闇に、息を呑む思いだったが、もう躊躇している余裕はない。覚悟を決めて、俺はその扉をくぐる。
扉の内側は想像以上に広い空間。床や壁が濡れて光っているが、どこから光が差しているのか見当たらない。
中心には黒い煙のような塊が渦巻き、それが俺の方へ向かって蠢く。まるで生きているかのように、呼吸するように膨張と収縮を繰り返している。
「お前は守れない……守れはしない…… また沈む……また死ぬ……」
その声は複数が合わさったような不気味な音響で、ビスマルク海の亡霊たちの嘆きが混ざっている気がした。身体が自然に震え、あの時の後悔と自責が押し寄せる。喉元まで恐怖が上ってくるが、もう後には引けない。
「いや……違う。俺はもう決めたんだ! 仲間を救うために、この異世界で力を尽くすって……!」
相手が実体を持たない闇でも、構わず軍刀を引き抜いて構える。刃先が小さく光を反射し、闇へまっすぐ向けられる。刀身に宿った魔力が青く輝き、周囲の暗闇をかき分けるようだ。
「……俺は、二度と同じことを繰り返さない……!!」
気迫を込めて一気に踏み込み、闇の塊へ斬撃を放つ。感触は柔らかい泥を裂くように、じわりと刃が飲み込まれ、次の瞬間スパッと霧散する。
亡霊の悲鳴めいた音が反響し、闇は消えていった。まるで朝霧が晴れるように、空間が一気に明るさを取り戻していく。
それと同時に、祠の奥から湧き出す水が青白く輝き始める。水面の波紋が緩やかに広がり、冷気の中にも神秘的な温もりを感じた。水面からは小さな光の粒子が舞い上がり、幻想的な光景が広がる。
「見事だ。その刀が"償いの刃"かどうか、余は見極めさせてもらった」
いつの間にか扉の外に立っていた天狗が、扇を打ち合わせて拍手のような仕草をとる。その表情は、どこか誇らしげだ。羽衣を翻し、威厳ある姿で俺たちを見下ろす。
「これで、試練は終わりか?」
「そうだ。そなたらを苦しめた幻は、己が封じてきた悔恨や恐怖。それを直視してなお歩む意志を示したこと、余は評価する」
澄んだ低声が森に響く。天狗の面差しは厳かだが、どこか誇らしげにも見えた。彼の瞳には人間を超えた古の知恵が宿っているようだ。
「あなたが……天狗の冷泉を守る方、ですか?」
スイリアが一歩前に出て問う。彼女の視線には少しの畏れと共に、強い意志が宿っていた。天狗は無表情のまま頷き、背中の団扇を軽く振った。
すると、水面が小さく波紋を描き、奇妙な反響音が生まれる。
「ここに来る者には皆、己の弱き心を映す幻を見せてきた。そなたらほど明確な"救い"を求める者は久しぶりよ」
そして、団扇からふわりと桃色の光が散り、泉の中央へ吸い込まれていく。水面は一層明るく輝き、何かの祝福を受けたかのように静かに脈動し始めた。
「泉の水を持ち帰るがよい。ただし……この先、さらに深い試練が待ち受けているぞ。この"幻影の試練"はいわば入り口に過ぎぬ……」
「……わかりました。私たちは、毒に苦しむ仲間を救うためにも、どうしてもこの水が必要なんです」
スイリアの眼差しは揺るぎなく天狗を見据える。彼女の姿に凛とした威厳が漂い、その瞳には王族としての気高さが宿っていた。
天狗は小さく鼻を鳴らし、そのまま後ろへと飛び去っていく。
縦横無尽に空を舞い、瞬く間に森の向こうへと消えていった。残されたのは澄みきった泉だけだった。
二人は静かに水筒へ水を汲む。傷ついた仲間を救うための希少な冷泉の力が、さらさらと水筒の中へ注がれていく。水はわずかに光を帯び、通常の水よりも少し重さを感じた。
「ようやく、ここまで来たな」
芦名が小さく呟き、遠くを見つめる。その視線の先にはスイリアがあり、彼女も満足げな表情で頷いた。
冷泉を探す旅の緊張から解放され、やっと肩の力が抜けていくようだった。
二人は最後にもう一度、泉のほとりを振り返る。
その水面は無数の光の粒を映し出し、揺らぎの向こうに何か不思議な影が浮かんで消えたようにも見えた。まるで誰かが見守っているかのような、不思議な安心感が漂っていた。
「さあ、陽菜のところへ戻ろう」
芦名の言葉に、スイリアは静かに頷いた。彼らの帰路は、さっきまでよりもずっと明るく見えた。
第31話をお読みいただき、ありがとうございます!
今回は、芦名とスイリアが天狗の冷泉にたどり着き、守護者サネカゼとの対峙を描きました。
二人が幻影の試練を乗り越え、互いに理解を深める姿、そして守護者に認められて冷泉の水を手に入れる感動的な場面をお届けしました。
スイリアの試練は、後日女子SIDEのほうに上げる予定です。
次回、彼らは手に入れた冷泉の水で陽菜を救うことができるのでしょうか?
そして、天狗が予言した「さらに深い試練」とは一体何なのか?
物語はさらなる展開を見せます。次回もぜひお楽しみに!
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