第96話 まだ売れません
朝の鍛冶場。
行商人マルクは、作業台の上へ並べられた鋼片を興味深そうに眺めていた。
黒い粗鋼塊。
そこから切り分けられた鋼片。
そして少し離れた場所には、《砂鉄鋼小刀・試作一号》と《試作二号》が置かれている。
もちろん刃物は勝手に触れないよう、ゴルンが目を光らせていた。
マルク「なるほど……これが噂の新しい鉄ですか」
アルス「新しい鉄というより、まだ実験中の鋼です」
マルク「鋼……」
マルクの目が鋭くなる。
完全に商人の顔だった。
マルク「通常の鉄とは違うのですか?」
アルス「違いはあります」
ゴルン「だが、まだ詳しく話す段階じゃねぇ」
マルク「おっと」
ゴルンの低い声に、マルクは両手を上げる。
マルク「別に秘密を盗もうというつもりではありませんよ」
ゴルン「商人が新商品を前にして『興味ありません』って顔する方が信用できねぇ」
マルク「ははは。これは一本取られました」
マルクは楽しそうに笑う。
そして改めて試作二号を見ると、少し身を乗り出した。
マルク「それで、販売の予定は?」
アルス「まだ売れません」
マルク「即答ですね」
アルス「はい」
マルク「一本だけでも?」
アルス「駄目です」
マルク「試験販売なら?」
アルス「まだ駄目です」
マルク「予約は?」
アルス「それもまだです」
ゴルン「諦めろ」
マルクは残念そうに肩を落とした。
しかし本気で落ち込んでいるわけではない。
むしろ、アルスの反応を楽しんでいるようにも見えた。
マルク「以前のアルス様なら、新しい物ができたと聞けばすぐ誰かに使ってもらいたがったような気がしますが」
アルス「今も使ってほしいですよ」
マルク「ではなぜ?」
アルスは試作一号と二号を見る。
アルス「まだ、同じ品質の物を何本も作れるか分からないからです」
試作一号は切れ味こそ良かったものの、刃先の一部に小さな欠けが生じた。
そこで粗鋼の中から良質な部分を選別して試作二号を作ると、今度は欠けにくさと刃持ちの両方が改善した。
しかし。
それでもまだ二本。
成功例が少なすぎる。
アルス「二号が良かったからって、三号も同じになるとは限りません」
マルク「確かに」
アルス「それに、長く使った時どうなるかも調べてる途中です」
マルク「錆や耐久性ですか」
アルス「はい」
マルクはしばらく黙ってから、小さく笑った。
マルク「以前より商売相手として手強くなりましたね」
アルス「僕、商人じゃありませんよ?」
マルク「だから困るんですよ」
ゴルン「どういう意味だ?」
マルク「売り急がない人ほど、商人には手強いのです」
アルスは首を傾げた。
そこへ。
カイン「その通りだろうな」
鍛冶場の入口から声がした。
アルス「お父様」
マルク「これはシュゲール伯爵様」
マルクはすぐ姿勢を正し、深く頭を下げる。
カイン「楽にしてくれ。アルスの新しい鋼の噂を聞いたそうだな」
マルク「はい。とは申しましても、詳しい製法までは何も聞いておりません」
カイン「どこで聞いた?」
マルク「鉱山へ出入りする運送商人です。黒い砂を集めている、変わった炉を使っている、新しい送風装置ができた――その程度です」
カインはゴルンを見る。
ゴルン「完全に隠してたわけじゃありませんからな」
鉱山。
炭焼き場。
木工工房。
鍛冶場。
今回の実験には多くの人が関わっている。
誰にも話すなと命令していたわけでもない。
それなら、多少の噂が外へ流れるのは当然だった。
カイン「分かった。マルク殿、少し時間はあるか?」
マルク「もちろんです」
カイン「では屋敷で話そう。アルスも来なさい」
アルス「僕も?」
カイン「お前が関わっている技術だ。聞いておくべきだろう」
アルス「はい」
ゴルンも呼ばれ、四人は屋敷へ移動した。
応接室にはライムも同席する。
机の上へ茶が置かれ。
全員が席についたところで、カインが口を開いた。
カイン「まず確認しておこう。砂鉄から鋼を作る技術は、まだ完成していない」
マルク「承知しています」
カイン「今の段階では商品化もしない」
マルク「それもアルス様から何度も念を押されました」
アルス「何度も聞くからです」
マルク「商人ですので」
アルスは少しだけ頬を膨らませた。
しかし。
カインの次の言葉で表情を戻す。
カイン「問題は、完成した後だ」
アルス「完成した後?」
カイン「ああ」
父はアルスを見る。
カイン「農具の時は、広めることを前提に考えたな」
アルス「はい」
カイン「二号鍬は農民の暮らしを楽にする道具だった。そして構造そのものを隠す必要も小さかった」
アルス「でも鋼は違う?」
カイン「違う」
アルスは黙って続きを待つ。
カイン「良い鋼が安定して作れるようになれば、農具だけではなく、包丁、工具、荷車の部品、建築金具にも使える」
ゴルン「当然、武器にも使えます」
その一言で。
アルスは意味を理解した。
アルス「剣……」
ゴルン「ああ」
カイン「槍もだ」
ライム「さらに鎧や矢尻、騎士団の装備にも影響する可能性がございます」
アルスは目の前の茶を見る。
今まで。
便利な技術。
暮らしを良くする技術。
そういう目でばかり考えていた。
しかし。
鉄や鋼は。
人を守る道具にもなる。
そして。
人を傷つける道具にもなる。
アルス「だから簡単に広めちゃ駄目?」
カイン「少なくとも、農具と同じ感覚では扱えない」
マルクも今回は口を挟まなかった。
商売の話ではなく。
領地。
軍事。
そして貴族としての判断に関わる話だと理解しているのだろう。
アルス「でも」
カイン「何だ?」
アルス「ずっと秘密にするんですか?」
アルスの問いに。
カインはすぐには答えなかった。
少し考えた後。
カイン「それも違うと私は思っている」
アルス「違う?」
カイン「ああ」
父は指を机へ軽く置く。
カイン「技術を隠し続ければ、我が領地だけは利益を得られるかもしれない」
アルス「はい」
カイン「だが国全体で見れば、良い農具や工具が広まらないことになる」
アルス「それも困る……」
カイン「だから『広めるか、隠すか』の二つだけではない」
アルスは顔を上げる。
カイン「いつ広めるのか。誰に見せるのか。どこまで教えるのか。その順番を考える」
アルス「公開する範囲を決める?」
カイン「そういうことだ」
ライムが話を引き継ぐ。
ライム「例えば完成品の鋼や農具は販売しても、炉の構造や木炭の条件までは公開しないという方法もございます」
アルス「作り方は秘密だけど、出来た物は売る」
ライム「はい」
ゴルン「他にも、信用できる鍛冶師だけに教える方法もある」
カイン「王家へ先に報告するという選択肢もある」
王家。
その言葉に。
アルスは少し緊張した。
アルス「王様に?」
カイン「技術が十分な価値を持つ段階まで育てばな」
マルク「それほどのものになる可能性がある、と?」
カインはマルクを見る。
カイン「可能性の話だ」
ゴルン「まだ使える鋼が少しできただけです」
アルス「玉鋼には全然届いてませんし」
部屋が静かになった。
マルク「……たまはがね?」
アルスの身体が固まった。
(しまった)
前世の言葉を。
普通に口へ出してしまった。
カイン「アルス」
アルス「はい……」
カイン「今のは?」
逃げる。
さすがに難しい。
アルス「僕が……目標にしてる鋼の名前です」
カイン「お前が付けた?」
アルス「……そういうことにしておいてください」
カインは数秒、息子を見つめた。
しかし。
追及はしなかった。
以前。
アルスはいつか全部話すと言った。
そして父も、本人が話せる時まで待つと約束している。
カイン「分かった」
アルス「ありがとうございます」
マルクは少し不思議そうだったものの。
伯爵が聞かない以上。
彼も質問しなかった。
マルク「では私は、その玉鋼というものが完成するまで待つしかありませんな」
アルス「玉鋼が完成しても、すぐ売るとは言ってませんよ?」
マルク「……本当に手強くなりましたね」
マルクがため息をつき。
室内に小さな笑いが起きた。
しかし。
その後。
カインは少し真剣な声へ戻る。
カイン「アルス」
アルス「はい」
カイン「今日から、製鉄関係の記録は扱いを変える」
アルス「扱い?」
カイン「工房に置きっぱなしにしない」
アルスは目を瞬いた。
カイン「実験記録は写しを一部だけ作り、原本は屋敷で保管する」
ライム「保管庫を使用いたします」
カイン「ゴルンの工房には、現在必要な分だけを置く」
アルス「そんなに厳重に?」
カイン「ああ」
父は落ち着いて続ける。
カイン「噂が出始めたからだ」
まだ。
ただの新しい鉄。
そんな程度の噂。
だが。
本当に高品質な鋼ができれば。
話は変わる。
カイン「今のうちから習慣を作っておく」
アルス「技術を守る習慣?」
カイン「そうだ」
アルスは少し考えた。
前世にも。
企業秘密。
特許。
研究資料。
機密情報。
そういうものがあった。
技術は。
ただ広めればいいわけではない。
開発途中の情報が流れれば。
誤った方法が広がるかもしれない。
そして。
悪用される可能性もある。
アルス「分かりました」
カイン「嫌ではないか?」
アルス「少しだけ」
カイン「なぜ?」
アルス「せっかく作ったものなら、みんなに使ってほしいから」
カインは微笑んだ。
カイン「その気持ちは大切にしなさい」
そして。
カイン「だからこそ、使ってよい段階まで育てる」
その言葉に。
アルスはゆっくり頷いた。
アルス「はい」
マルクとの話し合いは。
販売契約など何一つ決まらないまま終わった。
それでも。
帰り際。
マルク「アルス様」
アルス「はい?」
マルク「一つだけお願いしても?」
アルス「内容によります」
マルク「完成して売れる段階になった時」
マルクは笑った。
マルク「最初に商談する機会だけはいただきたい」
アルスは父を見る。
カインは何も言わない。
自分で考えろということらしい。
アルス「約束はできません」
マルク「おや」
アルス「でも」
少し考えてから。
アルス「ちゃんと商品にできたら、声は掛けます」
マルク「それで十分です」
マルクは深く頭を下げた。
マルク「楽しみにしております」
そして。
馬車へ乗り。
シュゲール伯爵邸を後にした。
その日の午後。
鍛冶場。
ゴルンは新しい木箱を用意していた。
蓋には簡単な錠。
アルス「これ何です?」
ゴルン「実験記録用だ」
アルス「鍵付き?」
ゴルン「伯爵様の指示だ」
アルスは少し複雑な気分になった。
昨日までは。
何でも紙へ書き。
机へ置いていた。
誰かが見ても。
特に気にしなかった。
でも。
今日から違う。
ゴルン「変な感じするか?」
アルス「はい」
ゴルン「俺もだ」
ゴルンは笑う。
ゴルン「だがな」
「良い技術ってのは、できた瞬間から面倒事も増える」
アルス「面倒事?」
ゴルン「欲しがる奴」
「真似する奴」
「安く作ろうとして品質落とす奴」
「自分が考えたって言い出す奴」
アルス「……いっぱいいそう」
ゴルン「世の中そんなもんだ」
少し夢のない話だった。
しかし。
だからこそ。
守る必要がある。
アルス「でも、いつかは公開したいです」
ゴルン「好きにしろ」
アルス「いいんですか?」
ゴルン「その頃には坊ちゃんも大きくなってるだろ」
ゴルンは槌を持つ。
ゴルン「自分で考えて決めろ」
その言葉は。
少し先の未来を示していた。
アルスはまだ五歳。
今は。
父。
ゴルン。
ライム。
多くの大人に守られている。
でも。
いつか。
自分の技術を。
どう使うか。
誰へ渡すか。
何を守るか。
自分で決める日が来る。
夕方。
鍛冶場を出たアルスは。
父へ一つお願いをした。
アルス「お父様」
カイン「どうした?」
アルス「近いうちに北の村へ行ってもいいですか?」
カイン「鍛冶の実験は?」
アルス「試作二号の長期試験は時間が掛かります」
「その間に」
アルスは少し笑う。
アルス「二号鍬も見たいし」
「最近行けてないので」
カインは息子の顔を見る。
理由は。
それだけではないのだろう。
カイン「村の少女にも会いたいか?」
アルス「えっ」
一瞬。
アルスが固まった。
アルス「……まあ」
カイン「まあ?」
アルス「お花のお礼も言いたいので!」
妙に声が大きい。
カインは笑った。
カイン「分かった」
アルス「本当ですか?」
カイン「ああ」
「明後日なら護衛を出せる」
アルス「ありがとうございます!」
アルスの顔がぱっと明るくなる。
技術。
鋼。
実験。
王都。
秘密。
考えることは増え続けている。
でも。
アルスはまだ五歳。
北の村へ行き。
農民たちと話し。
そして。
あの少女と遊ぶ時間も。
大切だった。
その夜。
アルスは自室で手帳を開いた。
今日の言葉を書く。
『いいぎじゅつでも すぐにひろめないことがある』
その下へ。
『ひみつにするのは ひとりじめするためだけじゃない』
そして。
少し考えて。
さらに一行。
『つかっていいところまで そだててから とどける』
アルスはペンを置いた。
「技術を育てる……か」
農具なら。
使ってもらい。
意見を聞き。
改良した。
製鉄も。
同じだ。
まだ幼い。
まだ不安定。
だから。
守りながら育てる。
それはまるで。
畑へ植えた種のようだった。
芽が出たからといって。
すぐ収穫できるわけではない。
水を与え。
日を当て。
風から守り。
大きくなるのを待つ。
そうして初めて。
誰かの役に立つものになる。
そして。
机の端には。
北の村から送られてきた花がある。
少しずつ萎れ始めた花を見て。
アルスは笑った。
アルス「明後日か」
久しぶりの北の村。
鍛冶や製鉄とは違う時間。
しかし。
そこには。
アルスがものづくりを始めた。
最初の理由がある。
領民の生活を。
少し楽にしたい。
その原点を。
もう一度見るための時間でもあった。
翌日。
鍛冶場では。
ゴルンが実験炉の前に立っていた。
ゴルン「坊ちゃん」
アルス「はい」
ゴルン「村へ行く前に一回だけ製鉄するぞ」
アルス「良い鋼がどこの場所でできるか調べるんですよね?」
ゴルン「ああ」
アルス「やります!」
ゴルン「終わったらちゃんと休めよ」
アルス「分かってます!」
技術を作る。
試す。
守る。
そして。
人へ届ける時を待つ。
砂鉄から始まった小さな製鉄実験は。
この日初めて。
『技術には、公開する時期と守る時期がある』
という新しい段階へ入った。
そしてアルス自身も。
ただ発明する少年から。
少しずつ。
自分の生み出したものへ責任を持つ者へと。
成長し始めていた。
だが。
その頃。
王都中央行政院では。
以前から《継続確認》となっていた一冊の報告書へ。
新たな一文が加えられようとしていた。
シュゲール伯爵領。
鉱山副産物の黒砂。
利用試験継続中。
新たな鉄素材の研究あり。
詳細――未報告。
まだ。
王都は何も知らない。
だが。
何かが始まっていることだけは。
少しずつ。
気付き始めていた。
次回 第97話「久しぶりの北の村」
製鉄実験を一度休み、アルスは久しぶりに北の村を訪れる。
そこでは二号鍬がすっかり農民たちの日常へ溶け込み、交換式の刃や新しい留め具も当たり前のように使われていた。
そして赤い髪飾りを付けた少女は、アルスの姿を見つけるなり走り出す。
少女「アルス!」
技術を作ることばかり考えていたアルスは、そこで初めて気付く。
自分が本当に変えたかったものは、鉄や農具そのものではない。
それを使う人たちの暮らしだったのだと。




