第9話 父の執務室
アルスが一歳三か月を迎えた頃。
家庭教師リーナとの勉強は、毎日の楽しみになっていた。
文字は少しずつ読めるようになり、数字にも慣れてきた。
もちろん、すべてを理解している素振りは見せない。
年齢相応の成長を心掛けることも、大切な"演技"だった。
◇◇◇
その日の午後。
専属メイドに抱かれた俺は、父カインの執務室へ向かっていた。
「旦那様、お茶をお持ちしました。」
「ありがとう。」
父は大量の書類に目を通していた。
机の上には羊皮紙が何枚も広げられ、地図や帳簿が積み重なっている。
俺は思わず目を輝かせた。
(これが伯爵の仕事か。)
前世では会社員ではなかったが、帳簿や書類には多少触れたことがある。
しかし、異世界の領地経営を見るのは初めてだった。
「アルスも来たのか。」
父は仕事の手を止め、優しく笑う。
「書類が珍しいのかな?」
「あぅ!」
俺は机の上へ身を乗り出した。
◇◇◇
父は一枚の大きな地図を広げた。
「これはシュゲール伯爵領だ。」
色分けされた土地。
大きな川。
森。
畑。
小さな村々。
そして中央には伯爵邸のある領都。
(広い……。)
思っていた以上だった。
父は地図を指差しながら説明する。
「この辺りは麦畑。」
「こちらは果樹園。」
「北には鉄鉱山がある。」
(鉄鉱山!)
その言葉に俺の心が反応した。
鍛冶師を目指すなら鉱山は欠かせない。
だが、それ以上に気になることがあった。
(砂鉄は……。)
地図には川も描かれている。
前世の知識では、砂鉄は川や海辺で採取できる。
この世界では、まだ誰も価値に気付いていない。
(いつか調べてみたいな。)
そんな考えが頭をよぎる。
◇◇◇
「旦那様。」
執事レイムが部屋へ入ってきた。
「巡回していた私兵より報告です。」
「南の村で柵が一部壊れているとのことです。」
「分かった。」
父はすぐに返事をする。
「修繕用の木材を運ばせよう。」
「費用はこちらで持つ。」
「かしこまりました。」
レイムは一礼して部屋を後にする。
(領主って大変なんだな。)
ただ偉そうに命令するだけではない。
村人が安心して暮らせるよう、細かなことまで考えている。
だからこそ領民から慕われるのだろう。
◇◇◇
夕方。
母エリザも執務室へやって来た。
「あなた、少し休憩しませんか?」
「ああ、そうだな。」
母がお茶を注ぐ。
二人は自然に微笑み合った。
「最近は収穫も順調ですね。」
「今年は天候にも恵まれた。」
「領民たちの努力のおかげだ。」
父はそう言って笑う。
(全部自分の手柄にしないんだ。)
前世でも、良い上司とは部下の努力を認める人だった。
父はまさにそんな人物だった。
◇◇◇
「アルスー!」
静かな執務室へ元気な声が響く。
エルゼだった。
「ここにいた!」
後ろからアレックスも歩いてくる。
「姉さん、執務室では静かに。」
「あっ……。」
慌てて口を押さえるエルゼ。
父は苦笑した。
「構わない。」
「アルスも退屈していた頃だろう。」
「やった!」
エルゼは俺を抱き上げる。
「お外に行こう!」
「今日は庭でお花がたくさん咲いてるよ!」
兄妹に囲まれながら庭へ向かう。
花壇では庭師が丁寧に花を育てていた。
色とりどりの花が風に揺れている。
その美しい景色を眺めながら、俺は改めて思った。
(この景色を守りたい。)
(この人たちの笑顔を守りたい。)
世界を変える。
それは決して戦うことだけではない。
家族や領民が毎日笑って暮らせるようにすること。
それもまた、大きな意味で世界を変えることなのだ。
◇◇◇
その夜。
ベッドの中で魔力を巡らせながら、俺は今日見た領地の地図を思い返していた。
鉄鉱山。
川。
畑。
村。
すべてが一本の線でつながっている。
鍛冶だけでは領地は豊かにならない。
農業も、物流も、人々の暮らしも大切だ。
(もっと勉強しよう。)
(もっとこの領地を知ろう。)
いつか父のように、人々から信頼される人になれるように。
そんな小さな決意を胸に、アルスは静かに眠りについた。




