第83話 父の決断
その日の夜。
シュゲール伯爵家の執務室には、いつもとは少し違う顔ぶれが集まっていた。
当主カイン。
伯爵夫人エリザ。
家令ライム。
家庭教師リーナ。
そして、少し遅れて鍛冶師ゴルンも呼ばれている。
議題は一つ。
――アルス・シュゲール。
五歳になったばかりの、伯爵家次男についてだった。
◇◇◇
「それで?」
エリザが夫を見る。
「こんな時間に皆を集めて、アルスについて何を話したいのです?」
声は穏やかだった。
しかし母親として、息子に何かあったのではないかと心配しているのが分かる。
「まず、これを見てほしい」
カインは机の上へ数枚の紙を置いた。
アルスが作った魔法訓練表。
そして詠唱短縮実験の記録だった。
エリザが目を通す。
「これは……アルスが?」
「ああ」
「リーナ」
カインが視線を向ける。
「説明してくれ」
◇◇◇
「はい」
リーナは少し姿勢を正した。
「アルス様は、アレックス様へ魔力操作を教えるため、訓練内容を段階化されました」
魔力を感じる。
集める。
動かす。
維持する。
魔法へ接続する。
さらにそこから。
通常詠唱。
短縮詠唱。
魔法名のみ。
無詠唱。
それぞれを比較し始めている。
「無詠唱まで?」
エリザの表情が変わる。
「はい」
「アルスはできるのか?」
「……できます」
リーナは正直に答えた。
◇◇◇
「どの程度だ?」
ゴルンが尋ねる。
「初級火魔法であれば、ほぼ通常詠唱と同程度の安定性で」
「五歳で?」
「はい」
「…………」
ゴルンが腕を組んだまま黙り込む。
普段なら豪快に笑うところだが、今回は笑わなかった。
「それだけではない」
カインは続ける。
「農具」
「工房規格」
「治具」
「包丁」
「そして魔法」
「アルスは、何か一つが得意という段階ではない」
◇◇◇
「私は最初」
カインは静かに語る。
「少し頭の良い子なのだと思っていた」
「本が好きで」
「鍛冶が好きで」
「魔法にも才能がある」
「それだけだと」
エリザが夫を見る。
「今は違うと?」
「ああ」
カインは訓練表を指で軽く叩いた。
「アルスは――」
「仕組みそのものを見る」
◇◇◇
鍬が重い。
なら軽くする。
そこで終わらない。
なぜ重いのか。
どこへ重量を残すべきか。
使う人によって柄を変えるべきではないか。
壊れた時に部品だけ交換できないか。
誰が作っても同じ寸法になるようにできないか。
そして。
その方法を別の職人へ伝えるにはどうするか。
「一つの問題から」
「次の問題を見つけ」
「それを仕組みに変えていく」
カインの言葉に、ゴルンが頷く。
「鍛冶場でもそうですな」
◇◇◇
「坊ちゃんは、俺が感覚でやってることを聞いてきます」
「なんでその温度なんだ」
「なんでそこを叩くんだ」
「なんでその順番なんだ」
「最初は面倒くせぇ坊ちゃんだと思ってましたが」
「ゴルンさん?」
エリザの視線が少し冷たくなる。
「今のは最初の話です!」
ゴルンは慌てて両手を振る。
「今は?」
カインが少し笑う。
「……筋がいいと思ってます」
◇◇◇
「ただ」
ゴルンは真面目な表情へ戻った。
「怖いところもあります」
「怖い?」
エリザが尋ねる。
「坊ちゃん自身じゃありません」
「周りです」
部屋が静かになった。
「五歳の子どもが新しい農具を考えた」
「それだけでも噂になってる」
「これで魔法まで知られたら?」
誰もすぐには答えなかった。
◇◇◇
「利用しようとする者が出ます」
ライムが静かに言った。
「貴族」
「商人」
「軍関係者」
「魔法研究者」
「場合によっては、王家も」
エリザの表情が強張る。
「アルスを道具にするということ?」
「可能性の話です」
「でも――」
母親としては、それだけで十分だった。
「私は嫌です」
エリザははっきりと言った。
「アルスはまだ五歳なのですよ」
◇◇◇
「分かっている」
カインもすぐ頷く。
「私も父親としては、できるだけ静かに育てたい」
「なら――」
「だが」
カインは言葉を続ける。
「隠し続けることも、アルスのためにならない」
エリザが黙る。
「アルスは知りたがっている」
「領地の外を」
「他の土地を」
「違う職人の技術を」
「王都を」
「そして、いつか冒険者にもなりたいのだろう」
◇◇◇
「冒険者?」
エリザの眉が動いた。
「聞いていないわよ?」
「あ」
カインが止まる。
「あなた?」
「いや、まだ本人も正式には言っていない」
「ではなぜ?」
「銀貨二枚を別に貯めている」
ライムが小さく咳払いした。
「旦那様、それは――」
「冒険者ギルドの初回登録料と同額だ」
「…………」
エリザが笑顔になった。
非常に綺麗な笑顔だった。
「アルスと、後で少しお話ししましょう」
「母上が一番怖いな……」
扉の外にいないはずのアレックスの声が聞こえた気がした。
◇◇◇
「話を戻そう」
カインは咳払いする。
「私はアルスの才能を隠すことには反対だ」
「だが」
「無制限に見せることにも反対する」
「では、どうされるのです?」
リーナが尋ねた。
カインは少し間を置いた。
「選ぶ」
「選ぶ?」
「見せる力と、まだ伏せる力を分ける」
◇◇◇
農具改良。
生活用品。
鍛冶。
それらは領民の暮らしを良くする。
「これは続けさせる」
カインが言う。
「むしろ可能な範囲で多くの職人や農民と関わらせたい」
ゴルンも頷いた。
「坊ちゃんには現場が必要です」
「本だけ読ませてても駄目です」
「魔法は?」
エリザが尋ねる。
「限定する」
◇◇◇
「無詠唱」
「魔力操作の体系化」
「全属性についても」
カインの声が少し低くなる。
「当面は家族と信頼できる教師の中だけだ」
「賛成です」
リーナは即答した。
「特に無詠唱については、まだ安全性も十分確認できていません」
「アレックスとの訓練は?」
「私の監督下なら続けてもよろしいかと」
「ではそうしよう」
◇◇◇
ライムが尋ねる。
「王都への報告はいかがなさいますか?」
「農具や領政成果は、これまで通り正式報告する」
「アルス様のお名前も?」
「消す必要はない」
「ただし」
カインは強く言った。
「誇張するな」
「アルス一人の成果にもするな」
「関わった者全員の名と役割を残せ」
「承知いたしました」
◇◇◇
「そして」
カインは全員を見渡した。
「もう一つ決めたことがある」
「何でしょう?」
エリザが尋ねる。
「アルスには」
父はゆっくりと言った。
「もっと多くの世界を見せる」
◇◇◇
「これまで屋敷」
「領都」
「北の村」
「隣村」
「それくらいだった」
「だが今後は」
「領内の他の村」
「鉱山」
「森林」
「商人の集まる市場」
「職人工房」
「そして冒険者ギルド」
「冒険者ギルド!?」
エリザの声が少し大きくなった。
「登録させるとは言っていない」
カインがすぐ補足する。
「見学だ」
「……本当に?」
「本当だ」
◇◇◇
「アルスは、実際に見ることで学ぶ子だ」
カインは続ける。
「なら」
「本で世界を教えるだけでは足りない」
「危険のない範囲で」
「現場を見せる」
「人と会わせる」
「話を聞かせる」
「それが、あの子の才能を正しく育てる方法だと思う」
エリザはしばらく黙っていた。
◇◇◇
母として。
危険なことはさせたくない。
できれば屋敷の中で、安全に育ってほしい。
でも。
それが本当にアルスのためなのか。
「……護衛は?」
「必ず付ける」
「危険な場所へは?」
「連れていかない」
「無茶をしたら?」
「私かお前が止める」
「鍛冶場で徹夜しようとしたら?」
「俺が殴ってでも寝かせます」
ゴルンが答えた。
「そこまでしなくていいです」
エリザが苦笑した。
◇◇◇
「分かりました」
エリザはようやく頷いた。
「私も賛成します」
「ただし」
今度はカインが身構える。
「アルスが嫌がることを、才能があるという理由で無理にさせないこと」
「ああ」
「本人が楽しいと思えること」
「本人が学びたいと思うこと」
「それを大切にしてください」
「約束する」
◇◇◇
話し合いはそこで終わった。
だが。
当のアルスは――。
「ふぅ……」
自室で魔力水晶を見つめていた。
もちろん無詠唱の実験ではない。
父との約束通り、夜は魔力操作の基礎だけ。
魔力を指先へ。
戻す。
右手。
左手。
胸。
足。
少量ずつ。
(前よりずっと楽になった)
呼吸をするように魔力を動かせる。
それでも。
アルスは焦らない。
◇◇◇
そして。
「今日はここまで」
自分から訓練を止めた。
以前なら、もう少し続けていたかもしれない。
しかし。
体を休ませるのも訓練。
ゴルン。
父。
兄。
皆から何度も言われている。
「手帳書いて寝よう」
◇◇◇
そこへ。
コンコン。
「はい?」
「アルス」
父の声だった。
「入っていいか?」
「はい」
扉が開く。
カインが一人で入ってくる。
「お父様?」
「少し話がある」
アルスは椅子へ座り直した。
「何かしました?」
「なぜ最初に怒られると思うんだ」
「最近いろいろやってるので……」
「自覚はあるのだな」
◇◇◇
父は向かいへ座った。
「アルス」
「はい」
「お前は、この領地の外を見てみたいか?」
アルスの目が大きくなる。
「見たいです」
即答だった。
「どこへ行きたい?」
「えっと……」
突然聞かれて、いくつも浮かぶ。
「鉱山」
「森」
「大きな市場」
「他の鍛冶場」
「魔法使いの工房があるならそこも」
「それから――」
一瞬迷う。
「冒険者ギルド」
カインはやはりという顔をした。
◇◇◇
「登録したいのか?」
「いつかは」
「今すぐ?」
「……できるなら」
「アルス」
「冗談です」
「目が本気だったぞ」
「半分くらいです」
「半分でも駄目だ」
アルスは少し肩を落とした。
「まだ五歳だ」
「はい」
「だが」
父の次の言葉に、アルスが顔を上げる。
「見学なら連れていってやる」
「本当ですか!?」
◇◇◇
「ああ」
「まずは領内からだ」
「農村」
「鉱山」
「林業地」
「職人工房」
「そして領都の冒険者ギルド」
アルスの顔がどんどん明るくなる。
「行きたいです!」
「その代わり」
「はい!」
「護衛の言うことを聞く」
「はい!」
「勝手に離れない」
「はい!」
「危険な物へ手を出さない」
「はい!」
「冒険者登録はまだしない」
「…………はい」
「間があったな」
「気のせいです」
◇◇◇
父は笑った。
「アルス」
「お前には才能がある」
突然の言葉に。
アルスは少しだけ身構えた。
「だが」
「才能があるから偉いわけではない」
「はい」
「才能は、使い方を学ばなければならない」
「そのためには」
「多くの人を見なさい」
「多くの仕事を見なさい」
「多くの失敗を見なさい」
「そして」
「自分と違う考えを持つ人の話を聞きなさい」
◇◇◇
アルスは父の言葉を真剣に聞いていた。
「前世の知識だけで――」
危うく心の中の言葉が口から出そうになる。
(そうだ)
自分が持っている知識は。
別の世界の知識。
便利だ。
強力だ。
でも。
セレンで生きる人々を知らずに使えば。
間違える。
一号鍬のように。
「はい」
アルスは強く頷いた。
「いっぱい見て」
「いっぱい聞きます」
「それでいい」
◇◇◇
「お父様」
「何だ?」
「王都も?」
「気が早い」
「いつか?」
「いつかな」
「本当ですか?」
「ああ」
父は少し笑う。
「もっと成長したら」
「王都も見せてやる」
アルスの頭に。
北の村の少女との約束が浮かぶ。
『帰ってきたら王都のお話を教えて』
「楽しみです」
◇◇◇
「さて」
父が立ち上がる。
「もう寝なさい」
「はい」
「それと」
「?」
「母さんがお前と冒険者ギルドについて話したがっている」
「…………」
アルスの顔が固まった。
「銀貨二枚」
「なぜ知ってるんですか!?」
「父親だからだ」
「それ理由になってません!」
カインは笑いながら部屋を出ていった。
◇◇◇
アルスは貯金箱を見る。
ためる。
その中には銀貨二枚。
「見つかった……」
でも。
捨てろとは言われなかった。
(まだ登録は駄目)
なら。
その日まで取っておけばいい。
「いつか、自分で払おう」
◇◇◇
手帳を開く。
今日の言葉を書く。
『しらない せかいを じぶんの めで みる』
その下へ。
『じぶんと ちがうひとの はなしを きく』
そして。
少しだけ悪戯っぽく。
『ぼうけんしゃ とうろくは まだ』
と書いた。
「まだ、だからね」
いつか。
必ず。
◇◇◇
この夜。
シュゲール伯爵家では、一つの方針が決まった。
アルスの才能を閉じ込めない。
だが、無防備にも晒さない。
暮らしを豊かにする技術は育てる。
危険な魔法技術は慎重に扱う。
そして何より――。
少年自身に、もっと広い世界を見せる。
それは。
屋敷と北の村を中心に育ってきたアルスが。
本当の意味でセレンという世界へ踏み出すための、最初の準備だった。
そしてこの父の決断が。
数年後。
アルスを冒険者ギルドへ。
さらに領外へ。
そして――。
王都へと導いていくことになる。
だが今はまだ。
「明日はどこへ行けるんだろう」
そんなことを考えながら眠る。
五歳の少年に過ぎないのだった。




