第76話 王都へ向かう報告書
シュゲール伯爵領から一台の馬車が出発した。
積まれているのは、穀物でも農具でもない。
厳重に封をされた書類の束。
各地の領主が定期的に提出する――領政報告書である。
人口。
税収。
農作物の収穫量。
街道や橋の状態。
魔物による被害。
治安。
そして、その年に行われた領内政策。
普段なら、数多くある地方報告の一つに過ぎない。
だが今回のシュゲール伯爵領の報告には、少し変わった内容が含まれていた。
『農具改良による農作業効率の向上』
『交換部品の規格統一による修繕費削減』
『他領との共同実地試験』
そして――。
その開発者の欄には。
アルス・シュゲール。
伯爵家次男。
五歳。
そう記されていた。
◇◇◇
もちろん。
そんなことを本人は知らない。
「アルス! 足が止まっているぞ!」
「はい!」
朝。
シュゲール伯爵邸の訓練場。
兄アレックスの木剣が迫る。
ヒュッ!
「っ!」
アルスは身体を半歩ずらした。
真正面から受けない。
木剣を斜めに合わせる。
カッ!
兄の一撃が横へ流れた。
「よし!」
しかし。
「でも――」
「え?」
アレックスの身体が回転する。
「そこで安心するな!」
「うわっ!?」
コツン。
次の瞬間。
木剣がアルスの頭へ軽く触れていた。
「……負けました」
「一撃を防いで終わりじゃない」
「相手は次も動く」
「はい……」
アルスは頭をさする。
◇◇◇
「でも、前よりかなり良くなったぞ」
「本当ですか?」
「ああ」
アレックスが木剣を肩へ乗せる。
「力で受ける癖が減ってきた」
アルスは嬉しそうに笑った。
前世の身体操作。
剣道。
合気道。
その経験は記憶として残っている。
だが。
今の身体は五歳。
筋力。
体格。
反応速度。
すべてが前世とは違う。
(前世でできたからって、今もできるわけじゃない)
それも最近よく分かってきた。
だからこそ。
一から身体へ覚え込ませる。
「もう一本お願いします!」
「いいぞ!」
◇◇◇
剣術の次は魔法だった。
屋敷の裏に設けられた訓練場所。
アルスは掌を前へ向ける。
(魔力を集める)
体内を巡る魔力。
それを無理に押し出さず。
流れを意識する。
「《ウォーターボール》」
ポンッ。
掌の前へ水球が生まれる。
「維持……」
一秒。
二秒。
三秒。
以前なら形が崩れていた。
しかし今は違う。
水球は綺麗な球形を保っている。
「よし」
アルスはゆっくり魔力供給を止めた。
バシャッ。
水球が桶の中へ落ちる。
◇◇◇
「次は風……」
水。
風。
火。
土。
アルスには転生時に与えられた全属性への適性がある。
しかし父カインからは、
『使えることと、使いこなせることは違う』
と何度も言われていた。
だから派手な魔法には進まない。
小さな火を作る。
一定量の水を生み出す。
風を一定方向へ流す。
土を少しだけ動かす。
地味。
ひたすら地味。
だが――。
(鍛冶と同じだ)
基礎ができなければ、その先には進めない。
◇◇◇
その頃。
アルスの名前を書いた報告書は、シュゲール領からいくつもの中継地を通過していた。
地方行政庁。
そこで最初の確認が行われる。
「シュゲール伯爵領……」
一人の役人が書類をめくる。
「収穫量、前年比微増」
「税収……問題なし」
「治安……安定」
ここまでは普通だった。
だが。
「ん?」
手が止まる。
農具改良。
「作業時間が減少?」
さらに読む。
「交換式……?」
役人の眉が上がった。
◇◇◇
従来の農具は、刃が壊れれば鍛冶師へ持ち込み。
柄が折れれば木工職人へ持ち込む。
場合によっては丸ごと買い直す。
ところがシュゲール領では。
刃と柄の接続部分を一定寸法へ統一。
壊れた部分だけ交換できる。
「……面白いな」
派手な魔道具ではない。
新兵器でもない。
しかし。
農民が毎日使う道具だ。
領民の大部分が農業へ関わるこの国では、その影響は決して小さくない。
「しかも他領でも試験中?」
ベルナード伯爵領での実地試験。
粘土質用交換刃。
土質に応じた改良。
役人は報告書へ印を付けた。
中央送付――参考資料。
◇◇◇
さらに数日。
報告書は街道を進む。
村を越え。
町を越え。
関所を越え。
少しずつ――。
王都へ近づいていった。
◇◇◇
一方。
「できました!」
シュゲール伯爵家の鍛冶場。
アルスは嬉しそうに一本の釘を掲げた。
ゴルンが受け取る。
「……まあまあだな」
「またまあまあですか?」
「前より良いまあまあだ」
「分かりにくいですよ!」
ゴルンが笑う。
「でもな」
何本か並べる。
「見てみろ」
「?」
以前アルスが作った釘。
今日作った釘。
「……あ」
明らかに違う。
長さ。
太さ。
頭の大きさ。
最近作った物の方が揃っている。
「上手くなってる……」
「毎日やってるからな」
ゴルンは当然のように言った。
◇◇◇
「坊ちゃん」
「はい?」
「職人ってのは、突然上手くなるんじゃねぇ」
「昨日より少しマシになる」
「それを何年も積み重ねるんだ」
「何年も……」
「ああ」
アルスは自分の小さな手を見る。
まだ五歳。
なら。
(時間ならいっぱいある)
焦る必要はない。
「明日もお願いします!」
「おう」
◇◇◇
午後。
今日は北の村へ行く日だった。
二号鍬の使用状況を確認するため、父の許可を得てライムや護衛とともに訪れている。
「アルスー!」
村へ到着した途端。
栗色の髪の少女が走ってきた。
その髪には――。
「あ」
赤い髪飾り。
アルスが初めて自分のお金で買った物だった。
「つけてくれてるんだ」
「うん!」
少女は嬉しそうに髪飾りを触る。
「どう?」
「似合ってるよ」
「ほんと!?」
「うん」
「えへへ!」
◇◇◇
少女はアルスの周囲を一周した。
「今日は鍬?」
「そうだよ」
「また新しいの?」
「今日は壊れてないか見るだけ」
「じゃあ終わったら遊べる?」
「少しなら」
「やった!」
少女は両手を上げて喜んだ。
少し離れたところでライムが微笑んでいる。
「ライムさん?」
「いえ」
「何ですか?」
「何でもございません」
絶対何かある。
◇◇◇
農民たちから話を聞く。
「刃の交換はどうですか?」
「助かってますよ」
一人の農民が答える。
「前なら柄まで買い直してたところです」
「こっちはまだ使えるからな」
別の農民が柄を見せる。
「ただアルス様」
「はい?」
「この留め具が緩む時があります」
「留め具……」
アルスはしゃがみ込んで確認する。
また問題が見つかった。
「ゴルンさんに相談してみます」
「お願いします」
アルスは手帳へ記録する。
◇◇◇
仕事が終わると。
「アルス!」
少女が待っていた。
「約束!」
「分かってるよ」
二人は村の外れへ向かった。
もちろん護衛から見える範囲。
小さな花畑がある。
「今日はこれ!」
少女が白い花を一本摘む。
「また?」
「だめ?」
「駄目じゃないけど」
アルスは受け取った。
「ありがとう」
少女は満足そうに笑う。
◇◇◇
「アルス」
「なに?」
「ずっと村にいないの?」
「え?」
「大きくなったら」
アルスは少し考える。
「分からない」
貴族の子。
しかも次男。
将来どうなるのか。
まだ決まっていない。
「でも、いろんな場所には行ってみたい」
「遠いところ?」
「うん」
「王都とか?」
「いつかは」
少女は少しだけ寂しそうな顔をした。
「そっか」
◇◇◇
「でも」
アルスは続ける。
「北の村にはまた来るよ」
「ほんと?」
「うん」
「約束?」
「約束」
少女が小指を出す。
「これなに?」
アルスが聞く。
「約束するとき、お母さんがやるの!」
「へぇ」
アルスも小指を出した。
二本の小さな指が絡む。
「約束!」
「うん。約束」
それは。
子ども同士の、何気ない約束だった。
だが――。
アルスはなぜか。
その小さな温もりを長く覚えているような気がした。
◇◇◇
さらに数日後。
王都。
巨大な城壁の向こう。
多くの人。
馬車。
商店。
貴族の屋敷。
そして中央には王城がそびえている。
地方から集められた大量の書類が、行政機関へ運び込まれていた。
「次」
「西部地方の領政報告です」
「置いてくれ」
ドサッ。
書類の山。
その中に――。
シュゲール伯爵領の報告書もあった。
◇◇◇
数日後。
一人の中央官吏が書類を確認していた。
「シュゲール伯爵領……」
ページをめくる。
最初は淡々と。
しかし。
「交換部品?」
手が止まった。
「規格を統一……」
さらに読む。
「修繕費が低下」
「作業効率も改善」
数字を見る。
劇的ではない。
だが。
実際に結果が出ている。
しかも――。
「ベルナード伯爵領でも試験?」
他領で再現性を確認している。
これは単なる領主の自慢話ではない。
◇◇◇
「開発担当……」
官吏が文字を追う。
そして。
「…………五歳?」
読み間違えたと思った。
もう一度確認する。
アルス・シュゲール。
シュゲール伯爵家次男。
五歳。
「……何かの間違いじゃないのか?」
しかし報告書には、父カインの正式な署名と伯爵家の印章がある。
「五歳の子どもが?」
官吏は少し考え。
書類の端へ小さな印を付けた。
要確認。
まだ。
王へ報告するほどではない。
王族が知る段階でもない。
だが。
この瞬間。
アルス・シュゲールという名前は――。
初めて。
王都の役人の記憶に残った。
◇◇◇
その夜。
遠く離れたシュゲール伯爵領。
アルスはいつものように手帳を書いていた。
北の村でもらった白い花を机へ置く。
今日の言葉。
『まいにち すこしずつ うまくなる』
そして。
もう一つ。
少女との約束を思い出して。
『やくそくは まもる』
「よし」
手帳を閉じる。
王都で自分の名前が読まれたことなど。
当然、知らない。
今のアルスにとって大切なのは。
明日の剣術。
魔法の練習。
釘作り。
二号鍬の留め具の改善。
そして。
次に北の村へ行った時も、あの少女と会うこと。
それだけだった。
◇◇◇
だが。
北の村で交わされた、小さな約束。
王都の机に置かれた、一冊の報告書。
二つはまったく別の場所にある。
それでも。
どちらも確実に――。
アルス・シュゲールの未来へつながり始めていた。
領民の暮らしを良くしたい。
ただ、それだけから始まった小さな改革。
その噂は領境を越え。
侯爵家へ届き。
公的な報告となり。
そしてついに――。
王都へ到達したのだった。




