第75話 少年アルスの貯金箱
初めて自分の仕事で得た報酬――五百ゴル。
その翌朝。
アルスは自室の机の前で、難しい顔をしていた。
「うーん……」
机の上には革袋。
その横には、家令ライムからもらった小さな帳簿。
革袋の中身は――。
銀貨五枚。
一枚百ゴル。
合計五百ゴルだ。
「何に使おう……」
前世なら、五百円程度に感じてしまいそうな数字だ。
しかし、この世界では違う。
パンなら一つ二ゴルほど。
串焼きなら三ゴル。
庶民向けの宿でも一泊五十ゴルほど。
五百ゴルという金額は、五歳の子どもが自由に使うには十分すぎる大金だった。
「欲しい物……」
アルスは腕を組んだ。
だが。
「……特にないな」
伯爵家の子どもなので、衣食住には困っていない。
本なら屋敷の図書室にある。
鍛冶道具はゴルンの工房にある。
剣術用の木剣も持っている。
魔法の練習にも、今のところ特別な道具はいらない。
(だからって、全部そのまま置いておくのもなぁ)
せっかく父から、
「仕事の対価として受け取った金だ」
と言われたのだ。
ならば。
使い方も自分で考えてみたい。
◇◇◇
「ライムさん」
朝食後。
アルスは家令ライムを捕まえた。
「少しいいですか?」
「もちろんでございます」
「お金って、どうやって管理するんですか?」
「お金の管理、ですか」
ライムは少し意外そうな顔をした。
「はい」
「五百ゴルをもらいましたけど、全部一緒にしておくと使いすぎそうで」
「なるほど」
ライムは少し考え――。
「では、三つに分けてはいかがでしょう」
「三つ?」
◇◇◇
ライムは紙を一枚取り出した。
そこへ三つの枠を書く。
「まず――使うためのお金」
「はい」
「次に――将来のために残すお金」
「はい」
「そして最後に――自分を成長させるためのお金です」
「自分を成長?」
「本を買う」
「道具を買う」
「誰かから技術を学ぶ」
「そうした支出ですね」
アルスの目が輝いた。
「なるほど……!」
前世でいう自己投資だ。
◇◇◇
「ではアルス様」
「五百ゴルをどう分けますか?」
「僕が決めるんですか?」
「アルス様のお金ですから」
「…………」
急に難しくなった。
アルスはしばらく考える。
「使うお金……百ゴル」
「はい」
「勉強に使うお金……二百ゴル」
「そして」
残りは二百ゴル。
銀貨二枚。
アルスは少しだけ笑った。
「貯めるお金、二百ゴル」
「承知しました」
◇◇◇
ライムは帳簿へ書く方法を教えてくれた。
収入 五百ゴル
そこから。
生活・自由費 百ゴル
学習・道具費 二百ゴル
貯蓄 二百ゴル
「こうして目的を分けておけば」
ライムが説明する。
「何のためのお金だったのか分からなくなることを防げます」
「なるほど」
「ただし」
「?」
「必要なら途中で変更しても構いません」
「一度決めたから絶対ではない?」
「はい」
「状況に応じて考えることも、お金の管理では大切です」
アルスはしっかり覚えておく。
◇◇◇
「ところで」
ライムが尋ねた。
「貯蓄二百ゴルには、何か目的があるのですか?」
「え?」
アルスは一瞬固まった。
「その……」
銀貨二枚。
冒険者ギルドの初回登録料。
以前、資料で読んだ金額と同じだった。
「秘密です」
「おや」
「まだ秘密です」
ライムは微笑む。
「では、聞かないことにいたしましょう」
◇◇◇
問題は保管場所だった。
「革袋に全部入れておくのもなぁ」
アルスは自室を見回す。
机。
本棚。
衣装棚。
引き出し。
(……貯金箱を作ろう)
前世では子どもの頃に使ったことがある。
硬貨を入れる箱。
しかし。
「普通の箱だと簡単に開けちゃうな」
なら。
簡単には取り出せないようにする。
◇◇◇
「今度は何を作るんだ?」
木工工房。
アルスがやってくるなり、職人バルトが苦笑した。
「貯金箱です」
「ちょきんばこ?」
「お金を入れておく箱です」
「普通の箱じゃ駄目なのか?」
「簡単に取り出せたら使っちゃいそうなので」
「…………」
バルトは五歳児を見つめた。
「アルス様」
「はい?」
「五歳ですよね?」
「そうですけど?」
「いえ……」
バルトは遠い目をした。
◇◇◇
アルスが考えた貯金箱は単純だった。
小さな木箱。
上部には硬貨が通る細長い穴。
蓋には簡単な鍵。
さらに中を三つに仕切る。
「三つ?」
「使うお金」
「勉強のお金」
「貯めるお金です」
「それなら三つの箱を作った方が早くないですか?」
「…………」
アルスは固まった。
「確かに」
「でしょう?」
「でも一つにしたいです」
「そこは譲らないんですね」
◇◇◇
結局。
三つの投入口を持つ、小さな木箱を作ることになった。
左。
つかう
中央。
まなぶ
右。
ためる
まだ幼い字で、アルス自身が札を書く。
「できた!」
アルスは嬉しそうだった。
「なかなか面白い箱ですね」
バルトも笑う。
「ありがとうございます!」
◇◇◇
自室へ戻る。
アルスは五枚の銀貨を並べた。
まず一枚。
チャリン。
つかう――百ゴル。
次に二枚。
チャリン。
チャリン。
まなぶ――二百ゴル。
そして最後。
銀貨二枚。
アルスは手のひらへ乗せたまま、少し眺める。
(冒険者ギルド)
いつか。
少年期に入ったら。
父と母の許可をもらって。
自分の足で冒険者ギルドへ行く。
そして――。
この銀貨を受付へ出す。
自分で稼いだお金で。
「……よし」
チャリン。
チャリン。
ためる――二百ゴル。
◇◇◇
その日の午後。
剣術訓練場。
「アルス」
「はい!」
兄アレックスの木剣が迫る。
アルスは横へ避ける。
ヒュッ!
「遅い!」
「っ!」
追撃。
アルスは木剣で受ける。
カン!
小さな身体が押される。
「まだ力で受けすぎだ」
「はい!」
「お前は俺より小さいんだ」
「まともに力比べするな」
「相手の力を流せ」
その言葉に。
アルスの前世の記憶が反応する。
(力を流す)
剣道。
身体操作。
そして、前世で学んだ武術の考え方。
真正面からぶつからない。
◇◇◇
再び兄が打ち込んでくる。
今度は――。
足を半歩ずらす。
腰を回す。
剣を正面から受け止めず、斜めへ。
カッ!
「お?」
アレックスの木剣が流れる。
アルスはすぐ距離を取った。
「今のは良かった」
「本当ですか?」
「ああ」
「もう一度だ」
「はい!」
◇◇◇
訓練後。
汗だくになったアルスへ、アレックスが水を渡してくれた。
「最近、鍛冶ばかりしていると思ったが」
「剣もちゃんと練習してるな」
「もちろんです」
「魔法は?」
「毎日やってます」
「勉強は?」
「リーナ先生にいっぱい出されます……」
「ははは!」
兄が笑う。
「忙しいな、アルス」
「楽しいです」
「ならいい」
◇◇◇
アレックスは少しだけ真面目な顔になる。
「でも、無理するなよ」
「はい?」
「お前、夢中になると止まらないから」
「……そんなことないですよ?」
「ある」
「お父様も言ってたぞ」
「お母様も心配してる」
「お姉様は?」
「エルゼは『アルスが疲れたら私が抱っこして寝かせる!』って」
「…………」
想像できた。
「お姉様らしいです」
「だな」
二人は笑った。
◇◇◇
夕方。
北の村から荷物が届いた。
「僕に?」
中には小さな籠。
そして手紙。
まだ字を書けない少女の代わりに、父親が書いたらしい。
『アルス様へ。娘が渡してほしいと言いました』
籠の中には――。
乾燥させた花。
そして小さな木の実。
「これ……」
北の村の少女からだった。
◇◇◇
アルスは嬉しくなった。
以前から何度も花をもらっている。
けれど今回は。
自分が村へ行った時ではない。
わざわざ届けてくれた。
(何かお返ししたいな)
アルスは貯金箱を見る。
つかう――百ゴル。
「…………」
少し考える。
そして笑った。
「これだ」
◇◇◇
翌日。
アルスは初めて、自分で稼いだお金を使った。
購入したのは――。
小さな赤い髪飾り。
価格は十五ゴル。
派手な物ではない。
庶民でも買える程度の簡素な品。
でも。
栗色の髪には似合いそうだった。
「北の村へ届けてもらえますか?」
ライムへ頼む。
「もちろんでございます」
「あと」
アルスは短い手紙も添えた。
『いつも おはなを ありがとう』
◇◇◇
帳簿へ記入する。
髪飾り 十五ゴル
自由費残高 八十五ゴル
「初めて使った……」
不思議な気分だった。
自分で稼いで。
自分で考えて。
誰かのために使った。
たった十五ゴル。
それでも。
アルスにとっては、とても大きな十五ゴルだった。
◇◇◇
数日後。
北の村。
「わぁぁぁ!」
少女は父親から赤い髪飾りを受け取り、目を輝かせた。
「アルスから!?」
「ああ」
「これも手紙だ」
少女は父に読んでもらう。
『いつも おはなを ありがとう』
読み終わると――。
「つけて!」
「今?」
「今!」
父親が苦笑しながら髪へ付ける。
「どう?」
「似合ってるよ」
「ほんと!?」
少女は満面の笑みを浮かべた。
そして。
「次、もっといっぱいお花あげる!」
「アルス様が困るんじゃないか?」
「なんで!?」
父親は笑った。
◇◇◇
その夜。
アルスは自室で手帳を開いていた。
今日の言葉。
『おかねは つかいかたで いみがかわる』
もう一つ。
『ためるのも つかうのも たいせつ』
アルスは貯金箱を見る。
つかう。
まなぶ。
ためる。
まだ小さな木箱。
けれど。
その右側には。
銀貨二枚が眠っている。
いつの日か。
冒険者ギルドへ向かうための銀貨。
そして中央には。
自分がもっと多くのことを学ぶための資金。
「次は何を勉強しようかな」
鍛冶。
魔法。
剣術。
農業。
商売。
まだまだ知らないことばかりだ。
◇◇◇
一方。
アルスがそんな未来を考えていた頃。
父カインの執務室では、一通の報告が届いていた。
「旦那様」
ライムの表情が、いつもよりわずかに硬い。
「どうした?」
「先日の領政報告ですが――」
「中央へ送付されることが正式に決まりました」
カインの手が止まった。
「王都か」
「はい」
報告書には。
農具改良。
農作業時間の短縮。
交換部品方式による修繕費の低下。
職人たちによる分業。
他領との共同試験。
いくつもの成果が記されている。
もちろん。
アルス・シュゲール
その名も。
◇◇◇
「本人には?」
「まだ言わなくていい」
カインは静かに答えた。
「今知らせれば、余計なことを考える」
「承知しました」
「それに」
父は苦笑する。
「本人は今、貯金箱の方が大切だろう」
「確かに」
ライムも小さく笑った。
◇◇◇
五歳のアルスはまだ知らない。
自分が貯めた銀貨二枚が。
やがて冒険者として外の世界へ踏み出す、小さな第一歩になることを。
そして。
北の村から始まった自分の仕事が。
今度は紙の上で街道を走り――。
ついに王都へ向かい始めたことを。
幼い少年の世界は。
家族。
屋敷。
鍛冶場。
北の村。
そこから少しずつ。
確実に――。
広がり続けていた。




