第73話 一か月後の包丁
試作包丁を料理長ベンへ預けてから、一か月。
その日の午後。
アルスが鍛冶場で小さな鉄板を叩いていると、厨房からベンが姿を見せた。
「アルス様」
「ベンさん?」
その手には、見覚えのある一本の包丁。
「一か月、使わせていただきました」
アルスの手が止まる。
「どうでした?」
ベンは少し笑う。
「良いところも」
「悪いところも」
「どちらもありました」
「……やっぱり」
アルスは槌を置いた。
「見せてもらってもいいですか?」
「もちろんです」
◇◇◇
作業台へ置かれた試作包丁。
一か月前。
完成した時は、それなりに綺麗だった。
しかし今は――。
「……刃が欠けてる」
刃先の一部に、小さな刃こぼれがある。
「ここです」
ベンが指差す。
「硬い骨の近くを切った時に欠けました」
「やっぱり硬すぎたのかな……」
さらに。
「ここも」
刃の根元付近には、うっすら赤茶色の錆。
「錆まで……」
「毎日洗って乾かしていましたが」
「水気が残りやすい部分ですね」
そして最後に。
ベンが柄を軽く握る。
カタ。
「……動いた?」
「ほんの少しですが」
柄がわずかに緩んでいた。
「一か月で……」
アルスの肩が少し落ちる。
◇◇◇
「失敗ですかね……」
ぽつり。
そう呟いたアルスに、ベンは首を横に振った。
「それは違います」
「え?」
「私は、この一か月」
ベンは試作包丁を持ち上げた。
「以前より仕事が楽になりました」
アルスが顔を上げる。
「柄はとても握りやすいです」
「濡れていても滑りにくい」
「長時間使っても手が痛くなりにくい」
「切れ味も、最初の二週間ほどは非常に良かった」
「……本当ですか?」
「ええ」
◇◇◇
「問題がある」
「だから全部駄目」
「そういうものではありません」
ベンは穏やかに続ける。
「良いところは残す」
「悪いところは直す」
「そうして良くなっていくのでは?」
アルスは目を瞬いた。
(また同じだ)
一号鍬。
二号鍬。
三号刃。
全部そうだった。
完璧な一回なんてない。
「ありがとうございます」
アルスは深く頭を下げた。
「もっと良くします」
◇◇◇
そこへゴルンが戻ってきた。
「結果出たか?」
「はい」
アルスは包丁を見せる。
「刃こぼれ」
「錆」
「柄の緩み」
ゴルンは一本ずつ確認する。
「まあ、出ると思ってた」
「分かってたんですか!?」
「全部じゃねぇ」
「でも初物なんてこんなもんだ」
アルスは少し頬を膨らませた。
「じゃあ先に教えてくださいよ」
「自分で見つけた方が身につくだろ」
「うぅ……」
◇◇◇
「まず刃こぼれ」
ゴルンが刃を軽く叩く。
「焼き入れが少し強かった可能性がある」
「硬すぎた?」
「ああ」
「焼き戻しをもう少し調整する」
アルスは紙へ書き込む。
焼き戻し温度を少し上げる。
粘りを増やす。
「次」
「錆」
ゴルンは刃の根元を見る。
「水が残りやすい形だ」
「だったら、ここを少し丸くして水が流れるようにする?」
「悪くねぇ」
「あと、油を塗る手入れも必要だ」
ベンも頷く。
「使用後に薄く油を引く方法なら、厨房でもできます」
◇◇◇
「柄は?」
アルスが尋ねる。
ゴルンは柄を外す。
「木が乾燥して縮んだな」
「あ……」
木は鉄と違う。
水分を吸う。
乾く。
膨らむ。
縮む。
木工職人バルトから学んだことを思い出す。
「じゃあ、最初からもっと乾燥した木を使う」
「それだけじゃ足りねぇ」
ゴルンは接続部分を指差す。
「ここに楔を入れる」
「くさび?」
「柄へ差し込んだ後、広げて固定する」
アルスの目が輝く。
「それなら緩みにくい!」
「そういうことだ」
◇◇◇
その日の夕方。
アルスはバルトの木工工房も訪れた。
「包丁の柄が緩んだ?」
「はい」
バルトは試作柄を手に取る。
「これは木が悪いというより」
「乾燥期間が足りなかったな」
「もっと長く乾かすんですか?」
「ああ」
「それと木材も選ぶ」
「硬くて、水に強い木が向いている」
アルスは感心しながら聞いていた。
鉄だけ見ていては分からない。
包丁は――。
鉄と木。
二つの素材でできている。
◇◇◇
「じゃあ、二号包丁を作ります」
翌日。
アルスは鍛冶場で宣言した。
「名前そのまんまだな」
「分かりやすいでしょう?」
「まあな」
二号包丁の改良点は三つ。
一つ。
焼き戻しを調整して、刃に少し粘りを持たせる。
二つ。
刃の根元を水が残りにくい形へ変更。
三つ。
十分に乾燥させた木材を使い、楔で柄を固定する。
「あと」
アルスが付け加える。
「手入れの方法も一緒に伝えたいです」
「ほう?」
「良い包丁でも、手入れしなければ駄目になります」
ベンが笑う。
「それは料理人にも必要ですね」
◇◇◇
アルスは小さな紙へ書き始めた。
使ったら洗う。
水気を拭く。
長く使わない時は薄く油を塗る。
定期的に研ぐ。
「説明書みたいだな」
ゴルンが笑う。
「せつめいしょ?」
「使い方を書く紙だ」
「それ、いいですね」
アルスはすぐ採用した。
◇◇◇
数日後。
二号包丁が完成した。
見た目は一号と大きく変わらない。
しかし中身は確実に違う。
「今度はどうでしょう」
ベンが握る。
トン。
トン。
トン。
野菜を切る。
「切れ味は十分です」
肉を切る。
「こちらも問題ありません」
少し硬い食材でも試す。
「前より刃が粘る感じがありますね」
「本当ですか?」
「ええ」
アルスの顔が明るくなる。
「でも」
すぐに自分から言う。
「また一か月使ってください」
ベンは笑った。
「承知しました」
◇◇◇
その夜。
父カインへ結果を報告する。
「一号は問題が三つ見つかりました」
「そして二号を作ったと」
「はい」
カインは机の上の簡単な説明書を見る。
「これは?」
「包丁のお手入れです」
「使う人にも覚えてもらおうと思って」
父は少し驚いた。
「道具そのものだけではなく」
「使い方まで考えたか」
「はい」
「危ない物ですから」
カインは静かに微笑む。
「良い成長だ」
◇◇◇
「アルス」
「はい?」
「技術というのは」
「物だけではない」
「それを使う知識も含めて技術だ」
「使う知識……」
「どれほど優れた道具でも」
「扱い方を知らなければ、本来の力は出せない」
「場合によっては危険になる」
「はい」
アルスはしっかり頷いた。
◇◇◇
そして数日後。
シュゲール伯爵家の執務室では、父カインとライムが一冊の報告書をまとめていた。
「北の村の農具改良」
「二号鍬の導入状況」
「ベルナード領での試験」
「三号刃」
「そして厨房用品の試作」
ライムがページを確認する。
「ずいぶん増えましたね」
「ああ」
カインは苦笑した。
「本人は好きで物を作っているだけなのだろうが」
「領地への影響は無視できなくなってきた」
「税収にも?」
「少しずつな」
農作業の効率向上。
修理費の減少。
職人への新しい仕事。
小さな変化が積み重なっている。
◇◇◇
「この報告書は?」
ライムが尋ねる。
「通常通り、領政報告として上へ回す」
「王都まで届く可能性もありますが」
「正式な報告なのだから隠す理由もない」
カインは窓の外を見る。
「ただし」
「アルス一人の功績として書くな」
「承知しております」
「農民」
「ゴルン」
「木工職人」
「厨房」
「関係した者たち全員の成果だ」
「はい」
◇◇◇
書類は領内の役所へ。
そこから地方行政を通じ。
さらに必要な情報だけが整理されていく。
まだ王都へ直接届いたわけではない。
だが。
『シュゲール伯爵領における農具改善による作業効率向上』
『交換部品方式による農具修繕費削減』
『新たな工房規格による品質安定化』
そんな文字が、公的な報告へ初めて記され始めていた。
◇◇◇
一方。
そんなことなど知らないアルスは。
夜。
自室でいつもの手帳を開いていた。
今日の言葉。
『ながく つかって はじめて わかることがある』
そして。
もう一行。
『どうぐと つかいかたは ひとつ』
「よし」
手帳を閉じる。
机には、一号包丁の刃。
二号包丁の設計。
一本の釘。
北の村の少女からもらった押し花。
どれもアルスにとって大切な学びの証だった。
(次は何を学ぼうかな)
農具。
包丁。
まだまだ領地には不便な物がある。
しかし。
アルスは急がない。
作る。
使ってもらう。
待つ。
問題を聞く。
直す。
それを繰り返す。
それが今の自分にできることだから。
◇◇◇
だが――。
アルスの知らない場所では。
農具から始まった小さな改革は。
噂だけではなく。
正式な領政上の成果として、少しずつ記録され始めていた。
侯爵領へ届いた噂。
商人たちの話。
そして公的な報告。
それぞれ別々だった道は。
少しずつ、一つの場所へ向かい始めている。
――王都。
もちろん。
王都が五歳の伯爵家次男に注目する日は、まだ先のこと。
だが、その名前が初めて王都の書類に記される日は――。
もう、それほど遠くないのかもしれなかった。




