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『伯爵家次男に転生した俺は、前世の知識で世界を変えていく』  作者: バモス
第一章 幼少期編

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第72話 初めての包丁

 料理長ベンたちの意見を聞きながら改良した、新しい包丁の柄。


 楕円形で刃の向きが手の感覚だけでも分かりやすい。


 表面には浅い溝を入れ、濡れた手でも滑りにくくした。


 さらに刃側へ手が滑らないよう、柄の前側を少し太くしている。


「柄は、これでいいでしょうか?」


 厨房。


 アルスが差し出した試作品を、ベンが握る。


「……ええ」


 右手。


 左手。


 さらに水で手を濡らして握り直す。


「以前よりずっと安心して使えそうです」


「やった!」


 アルスが笑顔になる。


 しかし――。


「喜ぶのはまだ早いぞ、坊ちゃん」


 背後から聞き慣れた声がした。


「ゴルンさん?」


「包丁ってのは柄だけじゃ野菜一本切れねぇ」


「分かってます!」


「なら次だ」


 ゴルンは親指で鍛冶場の方角を示した。


「刃を作るぞ」


「はい!」


     ◇◇◇


 鍛冶場へ戻ると、作業台の上には数本の鉄材が置かれていた。


 アルスは首を傾げる。


「全部同じ鉄ですか?」


「少し違う」


 ゴルンが二本を手に取った。


「こっちは比較的柔らかい」


「こっちは炭素を多く含んでいて硬くできる」


「炭素……」


 アルスには聞き覚えがある。


 前世でいう鉄と鋼。


 鉄に含まれる炭素量によって、性質は大きく変化する。


(この世界でも基本は同じなんだ)


 魔法や魔物が存在しても。


 鉄は鉄。


 少なくとも、今扱っている普通の金属については前世の知識が通用するらしい。


「硬い方が包丁にはいいんですか?」


「そう思うか?」


「切れ味を保つなら……」


 アルスは少し考える。


「硬い方?」


「じゃあ、硬ければ硬いほどいいのか?」


「…………」


 前にも似た話をした。


 薄ければ切れる。


 だが薄すぎれば壊れる。


 なら――。


「硬すぎると、欠ける?」


「正解だ」


     ◇◇◇


 ゴルンは古い刃物を一本持ってきた。


 刃先の一部が小さく欠けている。


「こいつは硬くしすぎた失敗作だ」


「ゴルンさんにも失敗作があるんですね」


「当たり前だ」


 ゴルンは即答した。


「失敗しねぇ職人なんざいねぇよ」


「……そうなんですか?」


「いるとしたら、何も作ってねぇ奴だけだ」


 アルスは少しだけ目を見開いた。


 ゴルンは欠けた刃物を作業台へ置く。


「作る」


「失敗する」


「原因を考える」


「作り直す」


「それを何十回、何百回と繰り返すんだ」


「そうやって職人は腕を上げる」


 アルスは二号鍬を思い出した。


 一号鍬が失敗したからこそ、二号鍬が生まれた。


 ベルナード領で問題が見つかったから、三号刃が生まれた。


「失敗って……悪いことじゃないんですね」


「同じ失敗を何度も考えなしに繰り返すのは悪い」


 ゴルンは笑う。


「だが、次につなげる失敗なら授業料だ」


     ◇◇◇


「じゃあ、包丁を作るぞ」


「はい!」


「まず形だ」


 熱した鉄を炉から取り出す。


 真っ赤に輝く鉄。


 ゴルンが槌を振り下ろした。


 カァン!


 カン!


 カァン!


 鉄が少しずつ延びていく。


 農具とは違う。


 もっと薄く。


 もっと細かく。


 刃先へ向かって厚みを変える。


「坊ちゃん」


「はい!」


「こっちを叩いてみろ」


「僕が?」


「俺が見てる」


 アルスは小さな槌を握った。


 深呼吸。


 身体操作。


 足裏で地面を捉える。


 腰。


 背中。


 肩。


 肘。


 手首。


 力任せに振らない。


 全身をつなげる。


 カン!


「強すぎる」


「はい!」


 カン!


「今度は弱い」


「難しい……」


「だから練習するんだ」


 カン!


 カン!


 カン!


 鍛冶場へ小さな槌音が響いた。


     ◇◇◇


 しばらくして。


「……曲がりました」


 アルスが悲しそうに言った。


 見事に刃が歪んでいる。


「曲がったな」


「失敗です」


「じゃあどうする?」


「……直します」


「よし」


 再び熱する。


 叩く。


 確認する。


 また叩く。


 少しずつ修正する。


 だが――。


「今度は薄くしすぎました」


「作り直しだ」


「はい……」


     ◇◇◇


 一本目。


 失敗。


 二本目。


 厚みが揃わず失敗。


 三本目。


 形は良かったが、刃先を薄くしすぎた。


 もちろんアルス一人で全工程を行っているわけではない。


 危険な作業はゴルンが担当する。


 それでもアルスは悔しかった。


「包丁って難しい……」


「農具より精度が必要だからな」


 ゴルンは平然としている。


「坊ちゃんは五歳だ」


「むしろ三本程度でまともに作れると思うな」


「……はい」


 確かにその通りだった。


     ◇◇◇


 四本目。


 ゴルンの補助を受けながら、ようやく形が整った。


「おお……!」


 まだ包丁ではない。


 包丁の形をした鉄。


 それでもアルスには嬉しかった。


「次は研ぐんですか?」


「まだだ」


「?」


「焼き入れだ」


 ゴルンの表情が変わった。


「ここからが刃物作りの重要なところだ」


     ◇◇◇


「焼き入れ……」


 前世でも知っている。


 鋼を適切な温度まで加熱し、急冷することで硬くする処理。


 だが知識として知っていることと、実際に行うことはまったく違う。


 ゴルンは包丁になる鉄を炉へ入れた。


「坊ちゃん」


「色を見ろ」


「はい」


「温度計なんて便利なもんはここにはねぇ」


 鉄の色。


 炎。


 火花。


 職人はそれらを見て温度を判断する。


 暗い赤。


 赤。


 明るい赤。


 橙。


「色を覚えろ」


「はい」


 アルスは瞬きするのも惜しいほど集中した。


     ◇◇◇


「今だ」


 ゴルンが鉄を取り出す。


 そして――。


 ジュウウウウウッ!!


 白い蒸気が上がった。


 アルスは思わず一歩下がる。


 焼き入れ。


 水の中で鉄が急激に冷えていく。


「これで硬くなったんですか?」


「ああ」


「じゃあ完成?」


「違う」


「え?」


 ゴルンは冷えた刃を確認する。


「このままだと硬すぎる」


「硬くするために焼き入れしたのに?」


「そうだ」


「でも硬すぎると?」


 アルスは考え――。


「あ」


「欠ける」


「そういうことだ」


     ◇◇◇


「そこで焼き戻しをする」


「焼き戻し……」


「もう一度温める」


「せっかく硬くしたのに?」


「必要な硬さまで少し戻すんだ」


 アルスの頭の中で、知識と実際の作業がつながっていく。


 硬さ。


 粘り。


 二つのバランス。


「硬いだけじゃ駄目」


「柔らかいだけでも駄目」


「そうだ」


 ゴルンは頷く。


「刃物ってのはな、相反する性質をどこで折り合わせるかが大事なんだ」


     ◇◇◇


 焼き戻し。


 再び熱を加える。


 ただし焼き入れの時ほど高温にはしない。


 表面の色を確認する。


「ここも色を見るんですか?」


「ああ」


「温度を間違えると?」


「柔らかくなりすぎる」


「難しい……」


「だから面白い」


 ゴルンがニヤリと笑う。


 アルスも思わず笑った。


「それ、ちょっと分かります」


     ◇◇◇


 焼き入れ。


 焼き戻し。


 その後、歪みを確認。


 さらに刃を研ぐ。


 シャッ。


 シャッ。


 シャッ。


 砥石の上を刃が滑る。


 ここでも角度が重要だった。


「寝かせすぎ」


「はい」


「今度は立てすぎ」


「はい……」


 アルスが担当するのは仕上げ前の練習程度。


 最終的な研ぎはゴルンが行う。


 それでもアルスは食い入るように手元を見ていた。


 シャッ。


 シャッ。


 シャッ。


 やがて。


「よし」


 ゴルンが刃を持ち上げた。


「できたぞ」


     ◇◇◇


「これが……」


 アルスの目の前に一本の包丁が置かれる。


 自分が考えた楕円形の柄。


 浅い滑り止め。


 手が刃側へ滑りにくい形状。


 そしてゴルンと一緒に鍛えた鉄の刃。


 決して美しい包丁ではない。


 刃の形も、よく見ると少し不揃い。


 前世で見た高級包丁とは比べものにならない。


 それでも。


「僕が作った包丁……」


「俺が七割くらい作ったけどな」


「そこは言わないでください!」


「事実だろ」


「気分の問題です!」


 ゴルンが豪快に笑った。


     ◇◇◇


「切ってみるか?」


「はい!」


 厨房へ持っていく。


 料理長ベンも興味津々だった。


「完成したのですか?」


「試作品です!」


「では早速」


 まな板の上へジャガイモを置く。


 ベンが包丁を握った。


「柄は……やはりいいですね」


 そして刃を入れる。


 スッ。


「……おお」


 アルスが身を乗り出す。


「どうですか!?」


「よく切れます」


「やった!」


「ですが」


 喜びかけたアルスが止まる。


「まだ少し刃が厚い」


「……あ」


「野菜を薄く切るには、もう少し調整できそうです」


 ベンは続けて玉ねぎを切る。


 トン。


 トン。


 トン。


「ただ」


「?」


「以前の包丁より握りやすい」


「特に濡れた手で扱う時は安心できます」


 アルスの顔が明るくなる。


「本当ですか?」


「ええ」


     ◇◇◇


 だがゴルンは腕を組んだままだった。


「評価するには早い」


「え?」


「新品なら切れて当然だ」


「……あ」


「一週間」


「二週間」


「一か月」


「毎日使って、それでも刃がどうなるかを見る」


 刃持ち。


 欠け。


 錆。


 柄の緩み。


 長く使って初めて分かることがある。


「二号鍬と同じですね」


「そういうことだ」


     ◇◇◇


 試作包丁は、ベンに一か月使ってもらうことになった。


 毎日。


 肉。


 野菜。


 魚。


 さまざまな食材を切る。


 問題があれば記録する。


「よろしくお願いします」


「お任せください」


 ベンは嬉しそうに包丁を握った。


「ただしアルス様」


「はい?」


「これ以上切れ味が良くなるなら、使用人たちへの扱い方の教育も必要でしょうな」


「教育?」


「今までの包丁と同じ力で扱えば、怪我をする可能性があります」


 アルスの表情が引き締まる。


「……そうですね」


     ◇◇◇


 便利な道具を作る。


 それだけではない。


 新しい道具に合わせて、使い方も伝える。


(安全って、道具だけじゃないんだ)


 また一つ学んだ。


     ◇◇◇


 夕方。


 アルスは父カインへ包丁について報告した。


「なるほど」


 父は試作包丁を眺める。


「今度は厨房か」


「ゴルンさんにも同じこと言われました」


「ははは」


「でも、お父様」


「何だ?」


「まだ売ったりしません」


 カインが少し驚く。


「ほう?」


「まず一か月使ってもらいます」


「壊れないか」


「切れ味がどれくらい続くか」


「危なくないか」


「全部確認してからです」


 父は静かに微笑んだ。


「成長したな」


「え?」


「以前のお前なら、完成したその日に北の村へ持って行こうとしただろう」


「…………」


 否定できない。


「たぶん……」


「たぶんではないな」


「はい……」


     ◇◇◇


 父はアルスの頭を優しく撫でた。


「急がなくていい」


「良い技術ほど、広める前に確かめなければならない」


「はい、お父様」


「それに」


 父は包丁を見る。


「農具に続いて生活用品まで改善されれば、領民の暮らしはさらに変わるかもしれないな」


 アルスは嬉しそうに頷いた。


     ◇◇◇


 夜。


 アルスは部屋で手帳を開いた。


 今日覚えた言葉。


 焼き入れ。


 焼き戻し。


 その下へ――。


 『かたいだけでは いいはものにならない』


 さらに少し考える。


 『しっぱいは つぎにすすむための べんきょう』


「よし」


 ペンを置く。


 そしてアルスは、自分の手を見る。


 まだ小さい。


 槌を長時間振ることもできない。


 高温の鉄を一人で扱うこともできない。


 鍛冶師としては、ようやく入口へ立っただけ。


 それでも。


 今日初めて。


 鉄を鍛え。


 熱を入れ。


 硬さと粘りを考え。


 一振りの刃物を形にした。


 その経験は――。


 アルスの中に眠る前世の知識を、さらに強く刺激していた。


(いつか……)


 頭に浮かぶのは、一振りの刀。


 砂鉄。


 木炭。


 たたら炉。


 玉鋼。


 折り返し鍛錬。


 焼き入れ。


 前世で知っていた、日本の刀鍛冶。


 この世界の鉄。


 この世界の魔法。


 そして自分が学んでいる鍛冶。


 それらを組み合わせた時――。


 どんな刀が生まれるのだろう。


「……まだ早いか」


 アルスは苦笑した。


 まずは包丁。


 一歩ずつでいい。


     ◇◇◇


 こうして。


 一本の釘から始まったアルスの鍛冶は。


 鍬へ。


 交換刃へ。


 そして――。


 初めての本格的な刃物へと進んだ。


 この日学んだ焼き入れと焼き戻し。


 硬さと粘りの考え方。


 それは数年後。


 アルス・シュゲールがこの世界で初めて――。


 『玉鋼』


 へ挑戦するための、大切な基礎となるのだった。




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