第71話 農具だけじゃない
二号鍬、そして粘土質の畑に対応した三号刃。
アルスとゴルンが始めた小さな農具改良は、少しずつシュゲール伯爵領の外へまで知られるようになっていた。
ベルナード伯爵。
そして、まだ直接会ったことはないもののハルバート侯爵。
五歳の伯爵家次男が農民の話を聞きながら農具を改良している――。
そんな噂が、商人や貴族たちの間で静かに広がり始めている。
しかし。
当の本人はというと――。
「お腹すいた……」
そんなことを考えながら、屋敷の廊下を歩いていた。
◇◇◇
今日は朝から剣術の稽古。
その後は魔法の練習。
さらに家庭教師から読み書きと算術を教わり、昼前にはすっかり腹が減っていた。
(今日のお昼、なんだろう?)
食堂へ向かおうとして――。
トントントン。
聞き慣れた音が耳へ入る。
「ん?」
厨房だ。
少しだけ覗いてみる。
「失礼します」
「あら、アルス様」
料理長のベンが振り返った。
四十代半ばほどの大柄な男性で、シュゲール伯爵家の厨房を長年任されている人物だ。
「もう少しで昼食ができますよ」
「今日は何ですか?」
「鶏肉と野菜の煮込みです」
「おお……」
聞いただけでお腹が鳴りそうだった。
だが。
アルスの視線は別の場所へ向いた。
シャッ。
シャッ。
シャッ。
一人の料理人が、包丁を砥石へ滑らせている。
「包丁を研いでるんですか?」
「はい」
料理人が答えた。
「切れ味が落ちてきましたので」
「よく研ぐんですか?」
「そうですねぇ」
料理人は苦笑する。
「毎日使いますから」
◇◇◇
アルスは料理人の手元を見る。
使い込まれた包丁。
刃は何度も研がれたため、購入した頃より細くなっているという。
「これ、どれくらい使ってるんですか?」
「三年ほどでしょうか」
「三年……」
「良い物ならもっと使えますが、これはそろそろ交換ですね」
料理長ベンも自分の包丁を見せてくれた。
「私のは七年目です」
「七年!?」
「手入れ次第ですよ」
ベンは少し誇らしげだった。
アルスは二本を見比べる。
同じ包丁でも、形が少し違う。
「これ、刃の形が違いますね」
「用途が違いますから」
「用途?」
「こちらは肉」
「こちらは野菜」
「小さい物は果物や細かな作業に使います」
「へぇ……」
アルスの目が輝いた。
◇◇◇
(農具と同じだ)
一種類ですべてを済ませるのではない。
仕事によって道具を使い分ける。
しかも厨房では毎日大量の食材を切る。
農民にとって鍬が重要なように。
料理人にとって包丁は重要な仕事道具なのだ。
「ベンさん」
「はい?」
「包丁で困ることってありますか?」
「……はい?」
料理長が首を傾げた。
「使いにくいところとか」
「アルス様」
ベンの目が細くなる。
「まさか……」
「え?」
「今度は包丁を改良なさるおつもりですか?」
「まだ決めてません!」
アルスは慌てて答えた。
「ただ聞いてみたいだけです!」
「その言葉、ゴルン殿が聞いたら警戒しそうですな」
「どうして!?」
◇◇◇
とはいえ、ベンは真面目に答えてくれた。
「そうですね……」
まず切れ味。
当然ながら、よく切れる方がいい。
だが、切れ味だけを求めて刃を薄くすると欠けやすくなる。
「また同じだ……」
「何がです?」
「農具でも同じ問題があったんです」
薄い。
よく切れる。
しかし壊れやすい。
厚い。
丈夫。
しかし切れ味や扱いやすさが落ちる。
(刃物って難しいな)
◇◇◇
「他には?」
「重さでしょうか」
ベンは包丁を持つ。
「重すぎれば疲れます」
「しかし軽すぎても、肉などを切る時に使いづらい」
「柄も大切ですね」
「滑ると危険です」
アルスは紙を借り、書き始める。
切れ味。
刃持ち。
欠けにくさ。
重さ。
柄の握りやすさ。
そして――。
安全。
最後の言葉を見て、アルスの表情が少し変わった。
◇◇◇
「安全……」
鍬も危険な道具ではある。
しかし包丁は、それ以上に刃を鋭くすることを目的としている。
(よく切れる包丁を作ったとして……)
使う人が怪我をしてしまったら?
便利にするつもりで作った物が、危険を増やしてしまったら?
「アルス様?」
「ありがとうございます」
アルスは紙を折り畳む。
「ゴルンさんにも聞いてきます」
「やはり作るおつもりなのでは?」
「まだ調べるだけです!」
ベンは楽しそうに笑った。
◇◇◇
「包丁?」
昼食後。
鍛冶場へやってきたアルスから話を聞いたゴルンは、露骨に嫌そうな顔をした。
「今度は厨房か」
「その言い方やめてください」
「農具だけで十分忙しいんだぞ」
「まだ作るって言ってません!」
「その紙持って来てる時点で作る気満々だろ」
「…………」
「図星か」
◇◇◇
ゴルンはため息をつきながらも、一本の包丁を取り出した。
「まあ、いい」
「刃物の勉強にはなる」
「本当ですか?」
「ああ」
ゴルンはアルスの前へ包丁を置く。
「坊ちゃん」
「良い包丁って何だと思う?」
「よく切れる包丁です」
「半分正解」
「半分?」
ゴルンは包丁を持ち上げる。
「よく切れる」
「刃が長持ちする」
「欠けにくい」
「錆びにくい」
「研ぎやすい」
「持ちやすい」
「使う奴に合ってる」
次々と条件が出てくる。
「こんなに……」
「そして一番忘れちゃならねぇのが――」
ゴルンの表情が真剣になる。
「安全に使えることだ」
◇◇◇
「切れる刃物ほど危険だ」
「……はい」
「切れ味を良くしました」
「はい完成」
「そんな単純な話じゃねぇ」
ゴルンはアルスの目を見る。
「坊ちゃんが作った物を使って、誰かが怪我するかもしれない」
「だから作る側は、使う奴のことを考える」
アルスは北の村で学んだことを思い出した。
道具は使う人のために作る。
その中には当然――。
使う人を傷つけないよう考えることも含まれる。
「分かりました」
アルスは真剣に頷いた。
◇◇◇
「なら」
ゴルンは二本の包丁を出した。
「比べてみろ」
一方はよく使い込まれた包丁。
もう一方は比較的新しい包丁。
アルスは刃へ直接触れないよう注意しながら観察する。
「こっちは柄が細いですね」
「そうだ」
「こっちは……刃の根元まで手が近い」
「よく見てる」
アルスは考える。
(握った手が刃へ滑りにくい形にできないかな)
前世で見た包丁を思い出す。
柄。
口金。
刃と柄の境目。
ただし、前世の物をそのまま再現する必要はない。
「ゴルンさん」
「なんだ?」
「まず刃じゃなくて、柄から考えてもいいですか?」
ゴルンが少し意外そうな顔をした。
◇◇◇
「切れ味から始めると思ってたぞ」
「僕も最初はそう思いました」
アルスは包丁を指差す。
「でも、切れるようにする前に安全に持てる方が大事かなって」
数秒。
ゴルンは黙ってアルスを見る。
やがて――。
「合格だ」
「え?」
「職人としては、まだまだだけどな」
「そこは言わなくてもいいじゃないですか」
「はっはっは!」
◇◇◇
まず現在の包丁の柄を調べる。
木材を削った単純な形。
長時間使うと、手のひらへ負担が掛かる。
水や油が付けば滑ることもある。
「少し丸くして……」
「丸すぎたら回るぞ」
「あ」
「包丁は刃の向きが分からなくなったら危ねぇ」
「じゃあ楕円?」
「試してみろ」
アルスは木片を削る。
もちろん五歳なので、刃物を使う作業は職人が付き添っている。
少しずつ。
少しずつ。
握りやすい形へ。
◇◇◇
さらにアルスは、柄の表面へ浅い溝を入れてみた。
「これは?」
「滑り止めです」
ゴルンが握ってみる。
「悪くねぇ」
「でも――」
今度は料理長ベンにも試してもらう。
「少し溝が深いですね」
「え?」
「長時間握ると、手が痛くなりそうです」
「あ……」
また一つ問題が見つかった。
「浅くします」
「それがよろしいかと」
◇◇◇
二度。
三度。
形を変える。
厨房で握ってもらう。
水で濡らして試す。
油が少し付いた状態でも確認する。
そして数日後。
「これなら」
ベンが試作品の柄を握る。
「かなり持ちやすいです」
「本当ですか?」
「はい」
楕円形で刃の向きが分かりやすい。
表面にはごく浅い滑り止め。
さらに刃の根元へ手が滑りにくいよう、柄の前側を少し太くしてある。
「よし!」
アルスは嬉しそうに拳を握った。
◇◇◇
だが。
「まだ柄だけだぞ」
ゴルンが言う。
「分かってます」
「次は刃だ」
アルスの目が輝く。
「はい!」
「ただし」
「?」
「包丁の刃を作るなら、農具よりずっと細かく鉄を見る必要がある」
「温度」
「硬さ」
「粘り」
「研ぎ」
「焼き入れ」
アルスの表情が変わる。
焼き入れ。
その言葉には、前世の記憶が強く反応した。
(刀……)
前世で知っていた日本刀。
玉鋼。
鍛錬。
焼き入れ。
まだ今の自分には遠い世界。
しかし――。
鍛冶を続けていけば。
いつか。
◇◇◇
「坊ちゃん?」
「すみません」
「ぼーっとするな」
「はい!」
ゴルンは一本の鉄材を作業台へ置いた。
「まずは普通の鉄からだ」
「いきなり特別な物を作ろうとするな」
「基礎を覚えろ」
「はい」
アルスは素直に頷いた。
釘から始まった鍛冶。
農具へ進み。
今度は刃物。
一歩ずつ。
焦らず。
学んでいく。
◇◇◇
その夜。
アルスは部屋の机へ向かっていた。
二号鍬。
三号刃。
そして今日考えた包丁の柄。
手帳を開く。
今日の言葉を書く。
『べんりと あんぜんは いっしょに かんがえる』
「よし」
アルスは満足そうに頷いた。
前世の知識があれば、便利な物はいくつも思いつく。
だが。
作れるから作る。
便利だから広める。
それだけでは駄目だ。
使う人。
作る人。
直す人。
そして――。
安全に使えること。
(考えること、本当にいっぱいあるな)
それでも。
アルスは楽しかった。
◇◇◇
農具だけではない。
厨房。
洗濯場。
馬小屋。
工房。
村の家々。
人が生活する場所には、必ず道具がある。
そして道具があるということは――。
そこには改善できる何かがあるかもしれない。
アルス・シュゲール。
五歳。
伯爵家の次男。
彼の小さな領地改革は、畑から始まり――。
今。
人々の日常生活そのものへと、静かに広がり始めていた。




