第60話 一本の釘
初めて鉄を打った翌日。
アルスの両腕には、心地よい疲労が残っていた。
「うーん……少し重いな」
朝、ベッドの上で腕を伸ばしながら小さく呟く。
昨日は夢中になって槌を振った。
身体操作のおかげで無茶な動きは避けられたものの、五歳の身体であることに変わりはない。
(今日は無理をしないようにしよう)
前世の知識があっても、身体まで前世と同じではない。
成長には時間が必要なのだ。
◇◇◇
朝食を終え、剣術の稽古も軽めに済ませたアルスは鍛冶場へ向かった。
鍛冶場では、すでにゴルンが炉へ火を入れていた。
ゴォォォ……。
ふいごから送り込まれた空気を受け、木炭が赤く輝いている。
「おはようございます、ゴルンさん」
「おう、坊ちゃん」
ゴルンはアルスの腕を見る。
「昨日の筋肉痛は?」
「少しあります」
「なら今日は無茶するなよ」
「はい」
アルスが素直に返事をすると、ゴルンは満足そうに頷いた。
「自分の身体の状態を知るのも職人の仕事だ」
「怪我して槌を振れなくなったら意味がねぇからな」
◇◇◇
アルスは作業台へ目を向けた。
そこには短い鉄棒が何本か置かれている。
「今日は何をするんですか?」
「初めての完成品を作ってもらう」
「完成品……!」
アルスの瞳が輝く。
昨日作った鉄板は、あくまで練習。
今日は初めて、実際に使える物を作るのだ。
「何を作るんですか?」
「これだ」
ゴルンが指で摘まんだのは――。
「……釘?」
「そうだ」
ごく普通の鉄釘だった。
剣でもない。
包丁でもない。
ましてや鎧でもない。
アルスが少し意外そうな顔をすると、ゴルンはニヤリと笑った。
「なんだ?」
「剣でも作らせてもらえると思ったか?」
「い、いえ!」
「はっはっは!」
豪快な笑い声が鍛冶場へ響く。
「坊ちゃん」
しかし次の瞬間、ゴルンの表情が職人のものへ変わった。
「釘を馬鹿にする鍛冶師は、一流にはなれねぇぞ」
◇◇◇
ゴルンは一本の釘をアルスの手のひらへ乗せる。
「家を建てる」
「家具を作る」
「荷車を直す」
「木箱を作る」
「どれにも釘が使われる」
アルスは小さな釘を見つめる。
「目立たないけど……必要なんですね」
「そういうことだ」
ゴルンは笑う。
「剣一本なくても生活できる奴は多い」
「だが釘がなきゃ困る職人は山ほどいる」
その言葉にアルスはハッとする。
(そうか)
鍛冶師の仕事は武器を作ることだけではない。
むしろ領民の日常を支えているのは、こうした生活用品なのだ。
◇◇◇
「まず見本を見せる」
ゴルンは細い鉄棒を炉へ入れた。
赤。
橙。
鉄の色を確認する。
「今だ」
取り出した鉄棒を鉄床へ置く。
カン!
カン!
カン!
一定のリズムで先端を細くしていく。
反対側を切り離し、頭になる部分を潰す。
数分後。
「ほら」
一本の釘が完成した。
「早い……」
「何十年やってると思ってんだ」
ゴルンは笑った。
「だが、速さは後でいい」
「坊ちゃんは形を揃えることだけ考えろ」
◇◇◇
アルスの番になった。
革手袋を着ける。
小さな槌を握る。
鉄棒を炉へ入れる。
(色を見る)
昨日教わったことを思い出す。
まだ暗い。
もう少し。
赤。
さらに明るくなり――。
(今だ)
「ゴルンさん」
「おう。出していいぞ」
鉄を取り出す。
鉄床へ置く。
「ふっ!」
カン!
一打。
カン!
二打。
カン!
三打。
少しずつ先端が細くなっていく。
「槌を斜めに入れすぎるな」
「はい!」
「鉄を回せ」
「はい!」
言われた通り、鉄棒の向きを変える。
カン!
カン!
カン!
しかし――。
「あ」
先端が曲がった。
◇◇◇
「失敗です……」
「まだだ」
ゴルンが即座に答えた。
「直せる」
「え?」
「熱が残ってる。反対から軽く叩け」
「はい!」
アルスは慎重に槌を振る。
コン。
コン。
曲がっていた先端が少しずつ真っ直ぐになる。
「おお……」
「鍛冶ってのはな、失敗したら全部捨てる仕事じゃねぇ」
ゴルンはアルスの手元を見ながら言った。
「直せる失敗なら直す」
「材料を無駄にしないのも職人だ」
アルスは大きく頷いた。
「はい!」
◇◇◇
再び加熱する。
叩く。
形を見る。
また加熱する。
叩く。
少し直す。
そして――。
「できた……!」
鉄床の上に、小さな一本の釘が転がった。
少し曲がっている。
頭も完全な円形ではない。
ゴルンの作った釘と並べれば、違いは一目瞭然だった。
それでも。
「完成だ」
ゴルンが言った。
「これが……僕の最初の作品」
アルスは嬉しそうに釘を見つめた。
◇◇◇
「だが坊ちゃん」
「はい?」
ゴルンは先ほど自分が作った釘を横へ並べる。
「次の課題はこれだ」
「同じ釘を十本作れ」
「十本?」
「全部同じ長さ」
「全部同じ太さ」
「全部同じ形」
アルスは二本の釘を見比べた。
「……難しそうです」
「難しいぞ」
ゴルンはあっさり認めた。
「一個だけ良い物を作るのと、同じ品質の物を何個も作るのは別の技術だ」
その言葉にアルスの表情が変わった。
(同じ品質……)
前世でいう品質管理。
寸法。
規格化。
量産。
もし同じ寸法の部品を安定して作れるようになれば――。
(生活用品だけじゃない)
(農具にも応用できる)
鍬。
鎌。
鋤。
包丁。
荷車。
そしていつか、もっと複雑な道具へ。
アルスの頭の中で、いくつもの可能性が広がっていく。
◇◇◇
午後。
アルスはゴルンと一緒に倉庫を見せてもらった。
そこには大量の農具が並んでいた。
鍬。
鎌。
鋤。
斧。
そして交換用の金具。
「これは?」
アルスが一本の鍬を手に取る。
「修理依頼だ」
「刃が欠けてるだろ?」
確かに、鉄製の刃先が大きく摩耗している。
「農民は毎日これを使う」
「だから壊れる」
「直すのも俺たち鍛冶師の仕事だ」
アルスは鍬をじっと見つめた。
第54話で畑を訪れた時のことを思い出す。
農民が一日中、重い鍬を振っていた。
(もっと軽くできないかな)
(それに刃の形も……)
前世の農具が頭へ浮かぶ。
だが、すぐには口にしなかった。
まず、この世界の農具を知らなければならない。
「ゴルンさん」
「なんだ?」
「今度、農具のことも教えてください」
ゴルンは少し意外そうな顔をした。
「剣じゃなくていいのか?」
「はい」
アルスは笑った。
「農具の方が、たくさんの人が使いますから」
数秒。
ゴルンは黙ってアルスを見る。
そして――。
「……そうか」
嬉しそうに笑った。
「なら、みっちり教えてやる」
「はい!」
◇◇◇
夜。
アルスは机へ向かっていた。
今日作った一本の釘が置かれている。
その隣には、初めて作った鉄板。
どちらも不格好だ。
けれど、アルスにとっては大切な宝物だった。
手帳を開く。
今日の言葉を書く。
『ちいさな どうぐも くらしを ささえる』
アルスは釘を指先で転がした。
(まずは釘)
(次は農具)
(それから生活用品)
いきなり世界を変える必要なんてない。
目の前にいる誰かの暮らしを、ほんの少し楽にする。
その積み重ねでいい。
アルスは窓の外へ目を向けた。
遠くには、以前訪れた北の村がある。
畑で働く人々。
そして――自分へ花をくれた少女。
(みんなが笑って暮らせる領地にしたいな)
五歳の少年が作った、たった一本の不格好な釘。
しかしそれは――。
後にシュゲール伯爵領の鍛冶と生活を大きく変えていく、最初の小さな一歩となるのだった。




