第57話 剣術の基礎
アルスが五歳になって数日後。
朝日が昇るより少し早い時間。
屋敷の訓練場には、父カインとアルスの二人の姿があった。
冷たい朝の空気が頬を撫でる。
小鳥のさえずりだけが静かに響いていた。
「今日から、本格的な剣術の修行を始める。」
父は木剣を一本手渡した。
五歳のアルスでも扱えるよう、軽く作られた特注品だった。
「ありがとうございます、お父様。」
アルスは両手で受け取り、丁寧に頭を下げる。
その姿を見た父は満足そうに頷いた。
「まずは剣を持つ前に、一礼だ。」
「剣は人を傷つける道具にも、人を守る道具にもなる。」
「だからこそ、常に敬意を忘れてはいけない。」
「はい!」
アルスは木剣を胸の前に構え、深く一礼した。
◇◇◇
「では、構えてみなさい。」
父は正眼の構えを見せる。
無駄のない、美しい姿勢だった。
アルスも見よう見まねで構える。
「足は肩幅。」
「力を入れ過ぎない。」
「腰を落として。」
「視線は相手の胸を見る。」
一つひとつ丁寧に修正してもらう。
神から授かった《身体操作》があるため、正しい姿勢を理解するのは早かった。
しかし、あえてそれを使わず、自分の体で覚えていく。
(努力を積み重ねることが大切だから。)
◇◇◇
「では、素振りを始めよう。」
「はい!」
一。
木剣を振る。
二。
ゆっくりと元へ戻す。
三。
呼吸を整えながら振り下ろす。
父は一本一本を見守っていた。
「焦らなくていい。」
「速さより、正確さだ。」
「はい!」
アルスは真剣な表情で木剣を振り続ける。
額から小さな汗が流れ始めた。
◇◇◇
三十本ほど振ったところで、父は休憩を告げた。
「よく頑張ったな。」
「ありがとうございます。」
アルスは木剣を膝に置き、水を一口飲む。
父は静かに話し始めた。
「アルス。」
「お前は、なぜ剣を学びたいと思う?」
突然の質問だった。
アルスは少し考えてから答えた。
「……大切な人を守りたいからです。」
父は優しく微笑む。
「その気持ちを忘れないことだ。」
「勝つためだけの剣は、いずれ心を曇らせる。」
「だが、守るための剣は、人を強くしてくれる。」
その言葉は、アルスの胸へ深く刻まれた。
◇◇◇
休憩の後は、足運びの練習だった。
「右足から。」
「左足は引きずらない。」
「歩幅は小さく。」
アルスは慎重に動く。
前世で剣道を学んでいた経験はある。
だが、それをそのまま見せれば不自然だ。
五歳の少年らしく、一つひとつ吸収していく。
それでも父は感心していた。
「飲み込みが早いな。」
「リーナ先生からも、普段から姿勢が良いと聞いている。」
「ありがとうございます。」
◇◇◇
訓練が終わる頃には、エルゼとアレックスが見学に来ていた。
「アルス!」
「すごく頑張ってたね!」
エルゼは満面の笑みで駆け寄る。
「ありがとう、お姉様。」
アレックスも優しく頷く。
「父上の教えをしっかり聞いていたね。」
「僕も負けないように頑張らないとな。」
兄弟で笑い合う姿に、父も母も穏やかな表情を浮かべていた。
◇◇◇
午後。
鍛冶場を訪れると、ゴルンが槌を振っていた。
「坊ちゃん。」
「剣術を始めたそうだな。」
「はい!」
「じゃあ、一つだけ覚えておけ。」
ゴルンは鉄を打つ手を止め、アルスを見つめた。
「良い剣は。」
「良い鍛冶師だけじゃ生まれねぇ。」
「良い剣士が大切に使ってくれて、初めて名剣になる。」
アルスは静かに頷いた。
剣を作る人。
剣を使う人。
どちらも大切なのだ。
◇◇◇
夜。
今日も魔力操作と身体操作の鍛錬を終えたアルスは、木剣を丁寧に布で拭いた。
父から贈られた、大切な木剣。
まだ傷一つない。
しかし、これから何千回、何万回と振ることになるだろう。
机へ向かい、手帳を開く。
今日の言葉を書く。
『まもるために つよくなる』
力を誇るためではない。
誰かを傷つけるためでもない。
家族を。
領民を。
仲間を守るために強くなる。
その決意を胸に、アルスは静かに目を閉じた。
五歳になった少年の剣は、まだ始まったばかり。
しかしその一振り一振りは、未来に大きな希望を刻み始めていた。




