第54話 領地の畑
初夏の柔らかな日差しが、大地を優しく照らしていた。
朝食を終えたアルスは、父カインとともに馬車へ乗り込む。
「今日は領地の畑を見に行こう。」
「はい、お父様。」
馬車は屋敷を出発し、広大な麦畑が広がる村へ向かった。
窓から吹き込む風は土の匂いを運び、鳥たちが空高く舞っている。
アルスはその景色を静かに眺めていた。
(本当に平和な領地だ。)
前世では、スーパーへ行けば当たり前のように食べ物が並んでいた。
だが、その当たり前は、多くの人々の努力によって支えられている。
この世界も同じなのだと、アルスは少しずつ理解し始めていた。
◇◇◇
畑へ到着すると、農民たちが一斉に頭を下げた。
「伯爵様、おはようございます!」
「おはよう。」
父は笑顔で応える。
「皆、作業の手を止めなくていい。」
「今年の作物の様子を見せてもらいに来た。」
アルスも小さく頭を下げる。
「よろしくお願いします。」
農民たちは穏やかな笑顔を浮かべた。
「アルス様も、ようこそ。」
◇◇◇
一人の年配の農夫が近づいてきた。
「私はこの村で畑を任されております、トーマスと申します。」
「よろしくお願いします。」
「今日は麦畑をご案内いたします。」
トーマスはゆっくりと畑の中を歩き始めた。
風に揺れる若い麦は、一面を緑色に染めている。
「綺麗……。」
アルスは思わず呟いた。
「ええ。」
「この景色を見るたび、今年も頑張ろうと思えるんですよ。」
◇◇◇
「アルス様。」
「麦が育つために、一番大切なものは何だと思いますか?」
突然の質問だった。
アルスは少し考える。
「お水?」
「もちろん水も大切です。」
トーマスは優しく頷いた。
「ですが、一番大切なのは毎日世話をすることです。」
「草を抜き。」
「土を耕し。」
「害虫がいないか確認する。」
「収穫の日まで、一日も気を抜けません。」
アルスは真剣な表情で話を聞いていた。
(毎日……。)
またその言葉だった。
剣術も。
鍛冶も。
魔法も。
農業も。
結局、一番大切なのは毎日の積み重ねなのだ。
◇◇◇
畑の端には、小さな畑があった。
「こちらでは野菜を育てています。」
ニンジン。
玉ねぎ。
豆。
葉物野菜。
さまざまな野菜が元気に育っていた。
アルスはしゃがみ込み、土を優しく触る。
柔らかく、温かい。
(いい土だ。)
前世の知識が自然と頭に浮かぶ。
(堆肥があれば、もっと土は豊かになるかもしれない。)
(でも、まだ早い。)
今は知識を蓄え、この世界をもっと知ることが先だ。
◇◇◇
その時、一人の少年が畑を走ってきた。
「父ちゃん!」
トーマスの息子らしい。
アルスと同じくらいの年齢だった。
「こんにちは。」
「こんにちは!」
二人は少し照れながら挨拶を交わす。
「アルス様も畑が好きなの?」
「うん。」
「みんなが頑張って育ててるから。」
少年は嬉しそうに笑った。
「収穫できたら、すごく嬉しいんだ!」
その笑顔を見て、アルスも自然と笑顔になる。
◇◇◇
昼頃。
父カインは農民たちへ声を掛けた。
「何か困っていることはありませんか?」
トーマスは少し考えた後、答えた。
「今年は大丈夫ですが、雨が少ない年は水不足になります。」
父は真剣な表情で頷く。
「分かった。」
「新しい井戸や用水路についても検討しよう。」
「ありがとうございます。」
農民たちは安心したように頭を下げた。
アルスは父の姿を見つめる。
領主とは命令する人ではない。
人々の声を聞き、暮らしを守る人なのだ。
◇◇◇
帰りの馬車。
アルスは窓から広がる畑を見つめていた。
風に揺れる麦。
働く農民。
楽しそうに走る子どもたち。
(いつか。)
(この人たちがもっと楽に農業ができるようにしたい。)
前世には便利な農具がたくさんあった。
丈夫な鍬。
鋭い鎌。
効率よく耕せる道具。
鍛冶師になれば、自分にも作れるかもしれない。
そんな未来が少しずつ形になり始めていた。
◇◇◇
夜。
部屋へ戻ったアルスは、魔力操作を終えると手帳を開いた。
今日の言葉を書く。
『たべものは みんなの がんばりで できている』
一粒の麦にも。
一つの野菜にも。
そこには多くの人の汗と努力が込められている。
その努力に応えられる鍛冶師に。
その努力を支えられる領主に。
そして、この世界を少しでも豊かにできる人間になろう。
そう心へ誓いながら、アルスは静かに目を閉じた。
初夏の夜風が窓から吹き込み、麦畑を渡る風のように、少年の新たな夢を優しく包み込むのだった。




