第39話 初めての領主の仕事
春も深まり、若葉が風に揺れる頃。
その日の朝食を終えた後、父カインはアルスへ優しく声を掛けた。
「アルス。」
「今日は父さんの仕事を見てみるか?」
アルスは目を輝かせた。
「お仕事ですか?」
「ああ。」
「領主がどんな仕事をしているのか、少しだけ見学してみよう。」
「はい!」
アルスは嬉しそうに返事をした。
◇◇◇
執務室の扉が静かに開く。
部屋には大きな机と、本棚、そして地図が広げられた長机が置かれていた。
家令ライムが一礼する。
「おはようございます、旦那様。」
「おはようございます、アルス様。」
「おはようございます。」
アルスも丁寧に頭を下げる。
その姿を見て、ライムは穏やかに微笑んだ。
「礼儀も立派になられましたね。」
◇◇◇
机の上には、たくさんの書類が積まれていた。
「こんなに……。」
アルスは思わず声を漏らす。
父は苦笑しながら一枚の書類を手に取った。
「これは春に植える麦の種の配布記録。」
「こちらは橋の修繕費。」
「そして、これは新しい井戸を掘るための計画書だ。」
一枚一枚が、領民の暮らしに関わる大切な書類だった。
(領主の仕事って、こんなにたくさんあるんだ。)
◇◇◇
そこへ、一人の村長が部屋へ入ってきた。
「失礼いたします。」
「おお、来てくれたか。」
父は笑顔で迎える。
「今年の畑の様子はいかがですか?」
「順調です。」
「ですが、北の畑は水はけが少し悪くなっております。」
父は地図を広げた。
「では、水路を点検しよう。」
「必要なら補修を手配する。」
「ありがとうございます。」
村長は安心したように頭を下げた。
アルスはそのやり取りを静かに見つめていた。
◇◇◇
村長が帰った後、アルスは父へ尋ねる。
「お父様。」
「どうして、すぐ決められるの?」
父は微笑んだ。
「決めるためには、まず話を聞くことだ。」
「困っていること。」
「必要なこと。」
「それを知らなければ、正しい判断はできない。」
アルスは真剣に頷く。
(まず聞くこと……。)
前世でも、良い職人は使う人の話をよく聞いていた。
領主も同じなのだ。
◇◇◇
昼前になると、今度は商人が訪ねてきた。
「伯爵様。」
「南の街から塩を運んできました。」
「ご苦労だった。」
父は荷物の量や品質を確認する。
「予定どおりですね。」
「はい。」
「街道も問題ありませんでした。」
父は代金を支払い、今度は商人へ尋ねた。
「旅の途中で困ったことは?」
「一か所、橋が少し傷んでいました。」
「分かった。」
「確認しておこう。」
商人は安心したように笑った。
「いつもありがとうございます。」
◇◇◇
アルスは改めて思う。
(父さんは、ただ命令するだけじゃない。)
農民の話も。
商人の話も。
誰の話もきちんと聞いている。
だから皆、安心して相談に来るのだ。
◇◇◇
午後。
執務室で一息ついた父は、アルスへ温かいお茶を注いだ。
「今日はどうだった?」
「びっくりしました。」
「お仕事が、たくさん。」
父は静かに笑う。
「領主は偉い人ではない。」
「領民が安心して暮らせるように働く人だ。」
「だから、休みの日より仕事の日の方が多い。」
アルスは父の顔を見つめた。
疲れた様子は見せない。
それでも、毎日多くの責任を背負っていることが分かった。
◇◇◇
夕方。
執務室を出る時、ライムがアルスへ声を掛けた。
「アルス様。」
「今日は最後まで静かに見学してくださいました。」
「ありがとうございます。」
「いえ。」
「ぼくも勉強になりました。」
ライムは嬉しそうに目を細めた。
「そのお気持ちを、どうかいつまでも忘れないでください。」
「はい。」
◇◇◇
夜。
自室へ戻ったアルスは、いつものように魔力操作を始める。
今日見た書類。
村長との話。
商人との話。
どれも剣や魔法とは違う。
それでも、人々を守るためには欠かせない仕事だった。
(強さって、戦うことだけじゃない。)
(話を聞くことも。)
(考えることも。)
(決断することも。)
全部が、人を守る力になる。
アルスは新しい手帳を開き、今日の学びを書き記した。
『まず ひとの はなしを きく』
その言葉を見つめながら、小さく微笑む。
いつか自分も、人々から信頼される領主になりたい。
そして、鍛冶や魔法の力で、この領地をもっと豊かにしたい。
その夢を胸に抱きながら、アルスは静かに眠りにつくのだった。




