第16話 領地のお散歩
アルスが二歳になって間もないある日の朝。
いつものように朝食を終えると、父カインが優しい笑みを浮かべて声を掛けた。
「アルス。」
「今日は父さんと一緒に出掛けてみるか。」
アルスは目を丸くした。
「おでかけ?」
「ああ。」
「領地の村を見に行く。」
その言葉に母エリザが少し心配そうな表情を浮かべる。
「まだ二歳ですよ?」
「大丈夫だ。」
「遠くへ行くわけではない。」
「一番近い村まで馬車で行き、少し見て回るだけだ。」
父の言葉に、母も安心したように微笑んだ。
「それなら安心ですね。」
「アルス、ちゃんとお父様のお話を聞くのですよ。」
「うん!」
◇◇◇
一時間後。
シュゲール伯爵家の馬車は屋敷を出発した。
御者の隣には私兵が二名。
後方にも護衛の騎馬隊が続いている。
領主の視察とはいえ、大げさではない護衛体制だった。
馬車の窓から外を見るアルス。
広大な畑。
風に揺れる麦。
果樹園。
牧場。
(すごい……。)
屋敷の中からでは見えなかった景色が広がっている。
「どうだ?」
父が微笑む。
「これがシュゲール伯爵領だ。」
「みんなが毎日、一生懸命働いてくれている。」
アルスは静かに頷いた。
◇◇◇
やがて馬車は、小さな村へ到着した。
「伯爵様だ!」
「おはようございます!」
村人たちが次々と頭を下げる。
父は一人ひとりに笑顔で応えた。
「今年の麦はどうだ?」
「はい!」
「順調です!」
「困ったことはないか?」
「今のところはありません。」
父は急ぎ足ではなく、一軒一軒の話へ耳を傾けていく。
村人たちも安心した表情で話していた。
(ちゃんと話を聞いてる……。)
ただ命令を出すだけではない。
領民の声を聞き、自分の目で確かめる。
それが父のやり方なのだ。
◇◇◇
「坊ちゃん!」
一人の少年がアルスへ近付いてきた。
アルスと同じくらいの年齢だろう。
少し人見知りしているようだった。
「こんにちは。」
アルスが笑顔で挨拶すると、少年も照れながら頭を下げた。
「こんにちは。」
二人はしばらく見つめ合う。
言葉は少ない。
それでも、お互い笑顔だった。
「仲良くなれそうですね。」
専属メイドが微笑む。
◇◇◇
父は村の井戸へ向かった。
数人の女性たちが水を汲んでいる。
「重そうだな。」
「ええ。」
一人の女性が苦笑した。
「毎日何度も往復しています。」
アルスはその様子をじっと見つめた。
(井戸から家まで何往復も……。)
前世では蛇口をひねれば水が出た。
だが、この世界では違う。
水を運ぶだけでも重労働なのだ。
その時、小さな少女が水桶を持ち上げようとして、ふらついた。
「危ない!」
近くにいた女性が慌てて支える。
幸い、水桶は落ちなかった。
(……。)
アルスは何も言わず、その光景を胸へ刻み込んだ。
◇◇◇
帰りの馬車。
父が静かに話し始める。
「アルス。」
「今日、何を見た?」
アルスは少し考えてから答えた。
「みんな。」
「うん。」
「がんばってた。」
父は優しく微笑む。
「ああ。」
「領民は毎日努力して暮らしている。」
「だからこそ、私たち貴族はその暮らしを守らなければならない。」
その言葉は、まだ二歳のアルスには難しい内容だった。
それでも、その意味はしっかりと伝わった。
(暮らしを守る……。)
前世の知識。
鍛冶。
魔法。
それらは、自分が強くなるためだけのものではない。
人々の生活を少しでも楽にするために使いたい。
そんな思いが、アルスの胸の中で少しずつ形になっていく。
◇◇◇
屋敷へ戻ると、母エリザが笑顔で迎えてくれた。
「おかえりなさい。」
「楽しかった?」
「うん!」
アルスは元気よく返事をした。
「むら!」
「ひと!」
「いっぱい!」
その言葉に、家族みんなが笑顔になる。
「良い経験になったようですね。」
母がそう言うと、父も頷いた。
「ああ。」
「アルスは、よく見ていた。」
「きっと、この子は優しい領主になれる。」
その言葉にアルスは少し照れながらも、心の中で静かに誓う。
(もっと勉強しよう。)
(もっと技術を身につけよう。)
(そして、みんなが笑顔で暮らせる領地を作ろう。)
その小さな決意は、まだ幼い少年だけの秘密だった。
しかし、その思いこそが、未来のセレンを変える大きな一歩となっていくのだった。




