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隣暮において、形見とは魂魄を保つよすがを示す。パンゲア幻界群を出れば、混沌の海パンサラサはごく近い。己を己たらしめるものがあった方が、輪廻を見失わず輪郭を保ちやすいから、このようなものができたのだろうと言われている。
形見は物質でないため、持ち主にしか触れられない。知覚もできない。だがカロンの行う形見分けの儀は、例外的に他人の形見への干渉を可能にする。持ち主が輪廻路を歩く間、形見の写しを共有し、持ち主である転生者の状態を把握できるようになるのだ。
ネルソンはこの形見分けの儀を得意としていた。対象が輪廻路にいて、その名さえ分かれば、魂の緒の描いた軌跡を追って前世の形見を見つけることができる。これこそが、さして愛想の良いわけでもないネルソンが迎え番にとどめられている理由だった。
春ノ郷は、四領の中でもっとも開放的な土地である。輪廻路を挟んで並ぶ温泉宿に限らず、どこへでも立ち入ることが許されている。天ツ民であろうと葦原民であろうと関係ない。さすがに領民の居住地への無断立ち入りは許されないが、住まいの持ち主の許可を得てしまえばいいらしい。ネルソンはこの郷へ下りてくる度、輪廻路を行く者と天ツ民が一夜限りの宴を愉しんでいるさまを、幾度となく見かけていた。
民家の軒先。柳の下。屋形船の上。そこかしこで機嫌よく笑い合う民草から遠ざかり、ネルソンとモリジは人気のない森の路地へ入っていく。路地は地面に突き刺した板を並べた壁でできていて、幅が狭く、入り組んでいる。おまけに比丘尼蔦が壁にも天上にも這っているから、壁を乗り越えていくこともできない。風雨の辛さを知らぬ木壁の明るい顔色や青々とした蔦から、天ツ民には洒脱な景観を楽しむだけの空虚な道として知られている路地だが、実は随所に絡繰りが仕掛けられており、歩く者によって行く先が変わるよう定められている。ネルソンとて例外ではない。モリジがいなければ、今日の目的地にすら辿り着かせてもらえないのだ。
モリジは定められた道を辿り、袋小路の壁に手をかざす。壁を成していた木板がずるずると下がり、門戸となる。くぐった先には、輪廻路からも眺めることのできる、古めかしい大きな社殿がそびえていた。
春ノ郷の鎮守、春本殿である。郷のすべてを取り仕切っていると聞く。ネルソンも訪れるのは初めてだった。
モリジは勝手知ったる足取りで正面の大扉をくぐる。扉を固める守衛は、異種の来訪者二人組をさして気にしていないようだった。天ツ民のせわしなく行きかう廊下をすり抜け、階をのぼる。二つ三つとのぼり、他と様子の違う緑青色をした観音開きの扉を叩く。
「どうぞ」
扉がひとりでに開く。そこは広い執務室だった。よく磨いてある板間の左右にはずらりと箪笥や書棚が並んでいる。奥に文机を置く畳敷の間があり、板間との境には薄手の御簾が吊るされている。
御簾に人影が一つ浮かんでいる。文机を拭いているようだ。立ち上がり、御簾の端より姿を現わしたのは、切れ長の目元の涼しい、精悍な男だった。七対三に分けて後ろへ流した短い前髪、襷で絞った唐桟縞の袖から伸びる引き締まった前腕、無駄のない立ち振る舞いに勤勉さが滲み出ている。
「こんにちは。モリジさん」
「やあ。高砂は?」
「郷長様は回診中です」
「回診か。弱ったな。火急の用なんだが」
男はネルソンに恭しく礼をする。
「初めまして。私は春ノ郷長である高砂様に仕えております、番頭のウツロギと申します」
ウツロギは春本殿使用人の生活、教殿と湯殿の運営や設備維持などの一切合切を任されているという。
「俺はネルソン。迎え番です」
「川中で寄生鬼が出た。厳重な警戒と、侵入経路を特定するための協力を頼みたい」
モリジが細かな経緯を説明する。ウツロギは笑みを引っ込め、真剣な面持ちになった。
「すぐに警邏の人員を増やしましょう。多少の配置変更でしたら、私にもできますから」
ウツロギは執務室外にいる衛士たちに二三声をかけた。片方が頷き、いずこかへと駆けていく。
「今、郷長のもとへ使いを出しました。じきに戻ってくるでしょう」
モリジとウツロギは顔を見合わせる。どちらも険しい色を浮かべている。
「現状、客に不審な動きはないのか」
「ありません。しかし、相手は寄生鬼ですから、すでに入り込まれている可能性は十分にあります」
「その通りだ。川中で前例のないことだ。これから忙しくなるぞ」
幸い、寄生鬼は自らの手だけでは隣暮に干渉できない。何者かに寄生しなければ、比較的害の少ない非力な虚神である。よって、対抗策を三つに絞ることができる。
一つ、寄生前の姿を探して捕まえる。
二つ、浄玻璃の鏡で寄生された者を炙り出す。
三つ、今以上の侵入を塞ぐため、侵入経路を探り出す。
ネルソンの見かけた寄生前の個体は、現在他の渡守が追跡しているはずだ。寄生された者の炙り出し、侵入経路の封鎖はウツロギが春ノ衛士たちに既に指示した。
残るは、塞ぐわけにはいかない路を通じての侵略の警戒。すなわち、輪廻路を行く転生者たちの追跡と安否確認である。
「御用のものをお出しします」
ウツロギは文机の抽斗を探り、麻紐で括った一冊の帳簿を持ち出した。めくると、灯共の顔や氏名を含む様々な個人のこと、所属していた幻界や春ノ郷へ入る時に辿った経路などが記してあるページが続く。直近の転生者をまとめたものだった。
「出没時刻と場所から考えるに、確認すべきはこのあたりでしょうか」
帳簿から抜き取られた十数枚がモリジの手へ渡る。短く太い眉が寄る。
「形見を持たない者はいないな」
寄生鬼の寄生には形見の喪失を伴う。形見を持っているならば、少なくとも川を渡った段階では無事だったということだ。
「急がなくてもしばらく大丈夫なんじゃねえの」
「断言するには早い。頼んだぞ、ネルソン」
部下の推測をモリジは一蹴し、紙の束を渡す。ネルソンは大きく息を吐き、ウツロギを窺った。
「形見分けをやります。座敷をお借りしても?」
ウツロギは、執務室に隣接する一室にカロンたちを案内した。書院造の八畳一間には飾り物の一つもなく、儀式にちょうどいい静けさだった。
ネルソンは部屋の中央に胡坐をかいた。片腕の環を畳に置き、もう片方の環がある手に書類を持つ。
「くれぐれも覗いたり片付けたりしないように頼みますよ」
「分かっている」
大きく息を吸う。最初の一枚を手に取り、読み上げる。
「アンドレア・フラー・フレミング」
ネルソンの姿が掻き消えた。
ロスト・ゴンドワナを系統立てて説明できる者など誰一人いない。大崩壊以降、ロスト・ゴンドワナは刻一刻と姿を変え続けている。ゆえに、隣暮の住人たちは触れた具体を道標代わりに、手探りで法則性を見出そうとしている。
現在、幻界には住民の取る行動の法則性に基づいて大きな二つの世界属性があると言われている。律属と絶属である。律属界は社会秩序に基づく活動を良しとする傾向にあり、絶属界は個の秩序が強い。隣暮にやって来る魂魄はほとんど律属界のものだ。
ネルソンが魂の緒を辿ってやって来たアンドレア・フラー・フレミングのいた幻界も、その傾向から外れていないようだった。光環の道より降り立って見た景色は、城砦の一室だった。火山より来たのだろうきめ細かい肌の灰色の石を積み上げた一室には、暖色系の織物が満遍なく飾ってある。暗い窓の外には雪が舞っていた。重厚感のある木棚には肖像画が三枚。少女と将校の見合いの絵。そこに三人の子の増えた団欒の絵。年老いた女が肘掛けで微笑む絵。
片手の光環から一筋の糸が伸びている。光り輝くそれは、棚に置いてある鼈甲の櫛に繋がっていた。
「失礼しますよ」
ぞんざいに声をかけ、櫛を光環の中へ通す。櫛は環を通った瞬間に消える。
片手に携えたままの紙をめくり、次のページに目を落とす。
「久留目暢夫」
少年の姿が消える。それから間もなく、居室の扉を開けて幼女と母親が入ってきた。
「こんな寒い日は、高山羊の毛布が一番なの。おばあちゃまがあなた用に編んでくれたものがあったはずだから、持って行きましょうね」
母親はどのあたりにしまったかなと呟きながら箪笥を探す。幼女は母親の手が離れた隙に、木棚に近づく。肖像画を眺めていた彼女は、ふと、額縁の傍に置いてあったはずの櫛がないことに気がつく。
「ママ。おばあちゃまの櫛が見つからないわ」
「あら、本当」
毛布を持った母親がやって来て、目を丸くする。
「良いお櫛だから大きくなったら使ってねって、おばあちゃまが取っておいてくれたのに」
「妖精さんの仕業かもね」
「もらわれちゃったの?」
「ううん。妖精さんは物の嫌がることはしないのよ。きっとそのうち、帰ってくるわ」
母親は小さな手に毛布を握らせる。
「これに毎晩くるまって、雪が解けるのを待ちましょう。その頃にはおばあちゃまの櫛も帰ってくるわ」
幼女は毛布を持ち上げる。柔らかな編み目は、丸い頬にほつれた毛糸の一本も刺さない。幼女は目を瞑り、遠い祖母の抱擁に包まれる。
ネルソンは山中に降り立った。夜である。起伏をつけながら広がる森のただなかに、コンクリートで固まった地面がこじんまりとある。その片隅に光環の糸は繋がっていた。
四輪駆動の自動車である。風雨にさらされて車体全体が白く煤けているが、傷は見当たらない。在りし日の主人の熱心さが窺える。
「自動車かよ」
持ち帰るのに気合いがいる。
ぶつくさ文句を言いながら、ネルソンは懐から小袋を出す。袋を開けて口を車へ向けた。
「そこのやつ、心に還れ」
車は宙へ浮かび上がり、ネルソンのもとへ駆け出した。突っ込もうとした頭が小袋に触れた途端、みるみる小さくなる。しまいには頑丈なタイヤの一つも残さず、少年の持つ袋にすっぽりと収まってしまった。
ネルソンはまた、次の客の名を唱えて移動する。
実はこの時、駐車場の様子を見ていた者がいた。偶然通りかかった近隣住民である。駐車場脇を通る小道を軽トラックで走っていた彼は、駐車場のそばへ差しかかった瞬間、ちょうど空を飛ぶ謎の発光体を目撃した。通り過ぎてから車を路傍に停め、駐車場の様子を見に戻った。しかし、そこにはもう何もなかった。
昼間の労働を頑張りすぎたのかもしれない。
住人は眉間を揉み、自身の愛車のもとへと戻っていった。




