1-4
夏ノ谷を発ち、秋ノ市に入る前のことだった。
どれ一つとして同じ形のものがない、不揃いな岩場に拓かれた道を歩いていると、妙な音がした。音は、大勢の人間がどっと沸いた時の声に似ていた。しかし耳にした瞬間、胃のせり上がるような感覚を覚え、落ち着かなくなった。
──誰か、このあたりで宴会をしているのか。
音の出所が気になるのはワダチだけではないようだった。講の旅人たちもまた、そわそわと他の顔を見たり岩の向こうを覗いたりしている。渡守たちは硬い顔をして空を見上げていた。
「全員その場から動かないで。僕たちの輪から出ないこと」
また、あの音がした。今度は沸いた中に、空気を殺す強い衝撃が混じっていた。潰す音だ、とワダチは気づく。何か重く質量のあるものを振り下ろして当て、繊維を砕き、空気を抜く。肉や魚を膾にする時に聞くのに似ていると気づき、不安が募る。
花飾りとどんぐりが旅人たちを背中合わせに挟む。丸眉と大柄が宙に浮き上がった。
渡守たちは周辺を満遍なく睨む。大柄な少年以外は櫂を握りしめていた。いつ手にしたのか。怪しい音に気を取られていて気づかなかった。
おっとり顔の渡守が、ある方向へ向かって素早く櫂を構え直した。他の者たちがならうのにつられて、ワダチもそれを見つける。
岩のうちの一つ、ひときわ大きな影に、笑顔が覗いていた。瓢箪を逆さにしたような体型をしている。顔の位置はワダチよりも上体一つ分ほど高い。目も口も糸のように細まったまま動かず、じっとこちらを見つめている。動きのない笑顔の不気味さも気になったが、それよりも目を奪われたのは両腕だった。頭と一体化した肩より垂れ下がったそれはとてつもなく太く、先が槌の形状をしている。
大岩の反対側に同じ笑顔が覗く。また別の岩の影からも現われる。一つ、二つ。そうして、五つの笑顔が彼らを取り囲んだ。
不穏な気配に黙りこむワダチの隣で、ヨンクが喉仏を上下させる。
「あれはなんだ」
「万歳鬼です」と彼らの前にいるどんぐりが答える。「出会ったものをぺしゃんこに打ちのめすまで手を振り下ろし続けます。単純ながら面倒な虚神です」
「虚神ってなんだよ」
「混沌の塊。普段はパンサラサの海に棲み、たまにこうして我々を狙い、混沌を侵食させに来るのであります。あの腕に触れた葦原民は情動が不安定になり、深刻な場合には気が触れます」
「余計な説明をするな」
花飾りの少年の叱責が飛んできた。
「僕らがいる限り、君たちに手を触れさせはしない。だから全員下がっていろ。腕に覚えがある者もだ」
昨日同じ車に乗った男と女が前に出ようとしていた。花飾りに止められ、二人は迷った末に引き下がる。
万歳鬼は岩影から身を滑らせ、こちらへ歩み寄ってくる。足取りはたどたどしく、体が不安定に揺れる。上体の重さに耐えきれていないのではないかと思ったのは束の間だった。万歳鬼は目にも止まらぬ速さで両腕を上げ、下ろした。腕の先の大きな槌が空を切り、大地を抉る。
──これだ。
あの、宴の歓声と潰える音は、この虚なものが腕を振り回して立てた音だったのだ。重い腕の落ちた先、歪な槌の烙印を押された大地を見て、ワダチの胸に焦燥感が込み上げる。
上体を左右に揺らめかせ、万歳鬼が来る。その前に、空にいた渡守二人が立ちはだかる。間もなく交戦が始まった。丸眉は手の中でくるくると櫂を回し、巧みに複数体を同時にいなす。柔和な面差しからは想像できない、機敏な身のこなしだ。一方、大柄な少年は万歳鬼と肉薄した戦いを繰り広げる。取っ組み合い、腕を掴んで振り回し、地面に叩きつける。少年も万歳鬼も飛ぶ。飛ばされたかどちらかが時たま旅人たちの頭上をすり抜けていくので、その度に悲鳴が上がる。
講の面々が巻き込まれないよう、花飾りの少年とどんぐりが臨機応変に立ち回る。投げ飛ばされた万歳鬼を、櫂を押し当てて他所へやったり、彼らの攻防に応じて人々を下がらせたりと、せわしない。特に大柄な渡守の戦いぶりが豪快なので、彼にまつわる仕事が絶えなかった。花飾りの方はそつなくこなしていたが、どんぐりはそのマッチ棒のような体を折り、櫂に寄りかかって苦しげな顔をしていた。
「渡守は平和の使徒であります! 拳を交わすなら言葉の礫にしましょう。小生がお相手つかまつります」
ぜえぜえという息の合間に、彼は万歳鬼に拳を振り上げて主張した。
「平和の使徒が求めるのは言葉での交渉だろう。これで正義鬼が釣られて出てきたら、お前に全部任せて逃げるから」
「班長殿。そこは同じ蓮座を分かつ班員同士、一蓮托生でお頼みしますよ」
「僕らは全員生まれた蓮座がバラバラだろうが」
大柄な渡守が咆哮し、組み合った万歳鬼の首を地に叩きつけた。それから間もなく、丸眉の櫂が一体を切り裂く。やっとのことで二体減る。減ったはずだった。
叩きつけられた方も切り裂かれた方も、体がばらけた。ばらけた部分が変形し、新たな万歳鬼になる。体躯は元のものより小さいが、両腕を振り回されると倍耳障りだった。
班長が胸元の花飾りに手を当て、小声で何か言う。一番近くに居合わせたワダチは、耳を澄ませて声を拾う。
「こちらは輪廻講六班だ。秋ノ市を目前にして変異的大型万歳鬼の襲撃を受けている。御用聞き二組以上、応援を頼みたい」
花の辺りから、別の声が聞こえる。空いてる子を確認してまた連絡するねと言ったように思う。会話はそれで切れた。
丸眉と大柄の二人は虚神との戦いを続けている。どんぐりがこちらへ接近する万歳鬼を弾き返しては大きく息を吐く。
花飾りの少年は左手首に提げた光の環を一つ外し、天へ放る。光の環が大きく広がり、ワダチたち葦原民の一団を囲う光の霞となる。ちょうどそこへ大柄な少年の殴りつけた万歳鬼が飛んできた。霞に触れた途端、触れた部分の身体が溶け、旅人たちに触れることはなかった。
昨日の魔女が囁く。
「この子たち、戦いが得意でないのかも。ねえ、本当にあたしたちが手を出しちゃいけないと思う?」
戦士は答えず、じっと戦況を見つめている。ヨンクはせわしなく両手を擦り合わせている。
「なあ、俺たち大丈夫なんだよな」
どんぐりが花飾りの少年のもとへ駆け戻ってきた。
「班長殿。秋ノ市か夏ノ街に強行移動するのはダメでありましょうか」
「ここは二つの領域のちょうど境だ。葦原民は僕らほどここでの移動に慣れていない。遅れる者やはぐれる者が出た時、庇いきれない」
班長は硬い表情で答えた。
「しかし、これ以上万歳鬼が増えたらまずいのでは」
「応援要請を出した。持ち堪える」
「御用聞きにでありますか。御用聞きは自由に動くことのできる数が少なく、我らの拠点からここまでは距離があります。どれほど待つのでありましょうか」
「何とかするさ。僕が守る間、君は少し休むといい」
どんぐりは唇を噛む。再び口を開こうとした時、班長の胸元の花からまた別の声がした。
「二色のお花の子が一人行くよ。ちょっと待ってね」
「一人? 二組と言っただろ」
「ちゃんと二組分だよ」
「まあ、来ないよりはマシか。本当にちょっとで着くんだろうな。どの方向から来る?」
「聞いてみるね」と声が途切れ、すぐに「もう秋ノ市だって」
「なに?」
班長が振り向いた。視線を追いかけたワダチも、彼の目が捉えたものを見た。
彼らが向かおうとしていた先、上空に僅かな光が走った。そこから黒い点が一つ放たれ、みるみる大きくなる。近づく姿、まとう衣類で、正体は即座に分かった。渡守だ。白の上衣を靡かせ、光を足場に飛んでくる。
ものの一分も経たないうちに、その渡守は彼らの頭上へたどり着いた。これまた明らかに人でないと分かる少年だった。眉の辺りで切りそろえられた癖のない黒髪。石膏の肌が細身の体を覆い、程よい大きさの部品でできた顔はゆかしい。どの時代の流行りの顔とも違う、何とも形容しがたい懐かしさを感じる容姿だった。胸元に飾る、見たことのない青黒二色の入り混じった花が、彼の神秘的な印象を増幅させている。
少年が腕を一振りすると、その手先に櫂が現れた。両端に光の環が一つずつ下がったそれを構え、彼は告げた。
「目を瞑ってください」
自分に言われたのかという逡巡すら抱かず、ワダチの瞼は自然と下りた。
瞼の裏が白く染まる。明滅が五、六回ほどあって、また暗闇に戻る。もういいよと声がして、目を開けると、すでに異形の姿はなかった。彼らがいたはずの地面の上には、五人の渡守が立っていた。
講の参加者の誰かが、ばらりと掌を鳴らした。それを皮切りに手を合わせる者がちらほらと出て、穏やかな拍手がさざ波のように場を揺らした。戦士と魔女、ヨンク、もちろんワダチもその波に加わっていた。
渡守たちも、新たに現れた一人に感心しているようだった。大柄はめいっぱい拍手をし、どんぐりは大きな目を丸くして、丸眉は流石だなあと息を吐く。班長は彼のもとへ赴き、手を差し出した。
「感謝する。おかげで助かった」
「気にしないでください。務めですから」
新参の少年は緩い笑みを唇にのぼらせた。
「私も秋ノ市まで同行します」
輪廻講が再開される。彼らの行く手には、間もなく新たな街並みの影が現れようとしていた。
新たに訪れた土地、秋ノ市の既視感は強かった。秋ノ市はワダチの出身幻界でいうところのオフィス街だった。背の高い立方体や円筒が、碁盤のマス目に収まるよう行儀よく並んでいる。直線の道、その左右を不自然な秩序で固める街路樹は、車窓から散々眺めてきたものだった。道を行く顔が多種多様でなければ、自分のいた幻界の見知らぬ土地だと錯覚していただろう。
「秋ノ市は約束の地です。これまでの約束、これからの約束のためのチャンスがここかしこに転がっています。転生商人たちと契約を交わすも良し、このまま自然に任せて冬ノ島に行くも良しであります」
次に行く冬ノ島での禊を最後に、旅人たちは新たな命として幻界へ発つことになる。これまでとまったく異なる幻界へ行くのか、それとも同じ幻界にまた宿るのか。選択をしたいならば、この秋ノ市で自分に合う転生商人を探す必要がある。転生商人は、契約者と特定の世界とを結びつけてくれる。契約は原則一人生間において有効であり、対価は都度求められる。
「渡守は皆さんの選択を妨げません。保証もしません。それだけはお忘れなきよう」
ワダチはヨンクと話をする。
「次の人生の選択なんてできるのか。どうするよ」
「どんな選択があるのか、見るだけ見てみるか」
二人は街を歩いた。コバルトのショーウィンドウには、衣類、装飾品、家具など、建物ごとに種類の統一された商品たちが展示されている。値札はない。代わりに、気軽にお立ち寄りください、という文言がどこかしらに掲げてある。
試しに一つ、巻き物を多く扱っている店に入ってみる。店内は整然としており、仕立て屋に似ていた。入って正面にカウンターがあり、愛想の良さそうなスーツの男が上体を折った。
「いらっしゃいませ。お好みの来世一つ、いかがでしょう。今のおすすめは資産家と暮らす犬になる枠ですよ」
「そりゃあいいな」とヨンクは言い、「しかしタダでというわけにはいかないんだろう?」
「もちろん。代わりにあなたの寿命と自由に出かける権利をいただきます。また、毛は必ずバリカンで剃ります」
「やめておく」
次の店に入ってみる。今度は花屋だ。エプロンをつけた女がひとり、花に水をやる手を止めてこちらに微笑みかける。
「こんにちは。世にも美しい樹木の葉っぱになってみない? あくせく働く必要もなし、移動することもなし。引き換えに足をもらうよ」
ワダチたちはいくつか店を巡った。これぞ、という品にはなかなか巡り合わない。迷って足と頭を駆使するうち、だんだん面倒臭くなってきた。
「こういうのは、置かれた環境でその都度それなりにやるのがいいんじゃないのか」
「場合によってはとんでもなく暮らしにくいところに生まれることもあるだろ。そういうのを避けたいならここで選択した方がいいんじゃないか」
「だが、どれも帯に短しタスキに長しで困ったもんだ」
「もう選ばなくていい気がしてきた」
どうとでもなれという気分である。二人は適当な論を交わして諦めることを決めた。
様子のおかしい二人組を見かけたのは、ちょうどその結論を出した後だった。
イチョウに囲まれた円形の広場があって、そこに先日同じ車に乗った二人組、スレイとシャンヌがいた。うずくまるスレイに、シャンヌが必死に声をかけている。顔が真っ青だった。
「どうしたんだ」
駆け寄り、ヨンクが尋ねた。シャンヌは途方に暮れる顔を上げた。
「分からない。来迎屋を見て回ってたのよ。そしたら彼が急に」
しゃがみ込んで様子を見たワダチは、ぎょっとした。
スレイの表情は脱力しきっていた。目も口も半開きで、視線が合わない。そのくせ妙に安堵しきった、微睡むような様相であった。不気味で、ただごとではないというのが察せられた。
「渡守を呼んだ方がいいんじゃないか」
ヨンクが言う。シャンヌはためらっていた。
「でも」
「俺たちだけでどうにかできることか?」
「俺が行ってくるよ」
「その必要はありません。ここにいますから」
噴水のへりに、渡守がひとり腰かけていた。後から駆けつけた、青黒二色の花を身につける少年だ。どことなく哀しげな眸をしている。
ヨンクが聞く。
「いつからそこに」
「あなた方が輪廻路でそれをつけて呼ぶ限り、私たちは駆けつけます」
彼はワダチたちが肩につけた花を指差した。
別の路地から、長髪の渡守が飛んでくるのが見えた。班長と呼ばれていた者だ。
彼はワダチたちを見、うずくまる男に気づくと、目を伏せた。憐憫が浮かんでいた。
「ああ、やはりこうなったか」
「万歳鬼にあてられたのでしょうか」
「いや、万歳鬼の適性は極めて少なかったはずだ。ここに来て、様々な選択を見て、自分の望みに気づいてしまったんだろう」
二人の渡守はひそやかに話をする。ワダチは待ちきれなくて尋ねた。
「これはいったい、何が起こっているんです」
「彼は選択をしたんだ。君たちが選べない選択を」
「彼は誰とも契約していないわ」
魔女が言う。二色の花の渡守が首を振る。
「この選択は、商人がいなくとも特殊な条件下でなされてしまうものなのです。絶望と憧憬の大きすぎる者は、たとえ遠い所にいてもパンサラサの波の音を聞いてしまう」
「彼は虚神になる」
班長は宣告した。
うずくまる男が息を吐いた。シャンヌが慌ててしゃがみ、声をかけるが、聞こえている風はない。色のない唇から、微かな声が漏れる。
「父上。あなたの息子スレイ・アームは、ご遺志を敬い最善を尽くしました。もう、よろしいでしょうか。私には、振れる剣がございません」
一瞬、顔が力を取り戻した。ヘーゼルの虹彩に、青ざめた女の顔が映る。
「君には感謝している……ごめんね」
背中に、一直線のヒビが入った。左右に割れ、裂け目から若草色の何かが輝く。それは隆起し、男の抜け殻をひっくり返して立ち上がった。
生まれ出たのは、異形だった。蜥蜴に似たしなやかな体躯を、棘の生えて角ばった外殻が守っている。顔には二つの複眼がついており、ワダチたち取り囲む人間の姿が大群のように膨れ上がって映りこんでいた。
彼は薄い羽根をはためかせ、飛び立った。振り返らずに彩雲の向こうへ消えていく。ワダチたちは言葉を忘れ、かつての青年を見送った。
シャンヌが鼻をすする。
「やっぱり、渡守でも彼を止められなかった」
「僕たちは選択を妨げられない。輪廻の中で君たちの選択を重んじるよう、役割を定められているから」
そう言いながら沈んでいる班長に、彼女は眉を下げて微笑みかけた。
「あなた方を責めるなんてしません。何よりも輪廻転生を守ろうとするその心中、お察ししますわ。あたしたちも、似たような立場だったから」
いいえ、とシャンヌの声が自嘲を帯びる。
「あたしたちの方がきっと酷かった。凶兆を取り除き、平和を保つという名目で、たくさんの同胞を殺したのだから。王の命令とはいえ、実行したのはあたしたち。だからこんな最期でも、文句は言えないわね。少しだけ、話を聞いてくださるかしら」
人殺しだったのだ。彼女はそう告白した。
あたしたちの小さい頃、たくさんの人が死ぬ大きな災厄が起きたことがありました。王国の学者たちは、それは天にある凶兆の星を見逃したからで、以来、あの星が出たら必ず原因を取り除くようにと定めたのです。スレイは大災厄で故郷を失い、あたしは家族を亡くしていた。もうそんなことがあってはならないからと、あたしたちは王の命に従って、魔の者も人もたくさん始末しました。
それが正しいのだと信じていました。でも、あたしたちが実際に手を下した凶兆のうち、いったいどれだけが本当に災いをもたらすものだったのかしら。
あたしたちは間違ったのかもしれません。だって、そうじゃなかったら、どうしてあたしたちが守ったはずの人々に謀られて死ぬことになるのでしょう。
長く一緒にいた人のことすら分かっていなかった、いえ、分かりたくないと、この期に及んで望んでしまったあたしが、世界の何を分かっていたんでしょう。
彼の恐れと望みは、薄々感じていました。失った故郷への愛情が彼の原動力だったから、こうならないわけがなかった。私は覆せる自信がなくて、それでも同じ旅路を歩みたくて、見ないふりをしてここまで来ました。
まことを知るというのは、気の狂いそうになるほど恐ろしい。今でもそう思います。けれど、もし時を戻せるなら、私は彼のまことの気持ちと向き合って、受け止めてあげればよかったと思うのです。
「彼はどうなるのでしょうか」
シャンヌは相方の消えていった空を仰ぐ。
班長が答える。
「虚神には、昨日出会した者のように侵蝕を目論んで撃退される者もいれば、ひたすらにパンサラサの海で漂い続けるだけのものもいる。彼らの生態は豊かだ。簡単には死なない」
「なら、彼はずっと混沌の中にいるのでしょうか」
「どうだろう。海で永劫の時を過ごす者もいれば、急に理性を得て転生していく者もいる。間違いないのは、あの海は彼のすべてを受け入れるということだ」
「パンサラサの海は、何もかもを保持します。たとえ自我が融解することがあっても、海のどこかでバラバラに生き続ける。再び輪廻に繰り出す者以外は、あそこで永遠にたゆたうのですから」
二色の花の渡守が言う。
「死は消滅ではありません。抱えたものをここに置いていくだけ。彼も、君の思い出も消えることはありません。冬の島へ行って玄燈の泉につかれば、やがてあなたの抱えたすべては海へ流れこむでしょう」
「そうですか」
シャンヌの眼差しが遠くへ注がれる。
「あたしたちは道を違えてしまった。それでも許されるなら、彼がかの地で達者にしてくれること、そして、いつか私たちの道が再び交差することへの願いを、この地に残していきます」
ワダチとヨンクは、街の中心にある運河の堤防に腰を下ろしていた。すでに自分たちの来世探しは諦め、自然に任せると決めていた。
「大勢の人生を預かるような立場には生まれ変わりたくないなあ」
「生まれた時点でそこまでのものになることは滅多にないだろう。おおよそは選択次第だ」
「俺たちの記憶は、ここに置いておかれるのか」
「らしいな。契約次第では持っていくこともできるようだが」
「どう思う」
「記憶を置いていくことについてか? まあ、悪くないんじゃないか。覚えておきたいこともないでもないが、忘れたいことも多いからな。預かっておいてもらえるなら助かる」
そこへ、川下から一艘の舟が通りかかった。ここらでは見かけないゴンドラである。数人の客が乗っていて、漕いでいるのは見知らぬ渡守のようだった。
何とはなしにゴンドラを眺めていた二人は声をあげる。客の中に、輪廻講初日に出会った老婦人の姿を見つけたのだ。彼女は手鏡を持ち考えこんでいる風だったが、こちらに気づくと、手をあげた。
「あら。お久しぶりね」
「それは何ですか。どちらへ行くんです」
「夫が待っているそうなの。彼は故郷で信じられていた宗教に熱心だったからか、信心が認められて、ここから少し離れた、別の場所にいるのですって」
婦人ははにかみ、再び手に持つ鏡をのぞく。
「困ったわ。二十年ぶりの再会なの。この姿で会いに行って大丈夫かしら」
ワダチは目をみはった。婦人の姿が徐々に変化していた。頬の柔らかな輪郭が艶を帯び、背筋が伸びていく。ゴンドラが川を上り、別れを告げる背中しか見えなくなる頃は、ブルネットは鮮やかさを増して夕陽のように輝いていた。二人はすっかり呆気に取られていた。
「若返っていなかったか?」
「あんなことも起きるんだ」
「死んでなお会いたいとはねえ。そういう旦那だから、ああいう優しげな人と結ばれて、慕われているのかね」
ヨンクは頭の後ろで腕を組み、草で覆われた坂に寝転がる。ワダチは首を振った。
「所帯持ちの気持ちは、俺には分からん」
「持ってたって、分かるとは限らねえよ。お前の率直さが羨ましいぜ」
ヨンクはしばらく黙っていた。そのうち、独り言のように言った。
「俺は手前勝手だった。妻には悪いことをしたと思ってる。でも、こんなにいい場所が待ってるなら、あいつも救われてくれるんだろうな。俺のことを忘れていくんだから」
秋ノ市から冬ノ島へは、歩いて向かうわけではなかった。市の中心に鳥居型の巨大なビルがあり、その地下にある越冬の間から移動するのだ。
方法は、初めて河原から春ノ郷へ移動した時と似ていた。越冬の間から渡守の力を借りて、光る環で飛ばされるらしい。ただし、今回彼らはついて来ないのだという。
「冬ノ島は転生者でもないと入れない。玄燈の泉にはちゃんと送り届けるから心配しなくていい」
班長はそう言った。どんぐりは敬礼した。
「お疲れ様でありました。またお会いしましょう」
越冬の間は地下とは思えない、黄金の草原だった。最初にいた場所によく似ている。
ワダチたちは光の環に囲まれ、飛び立った。様々な景色が見えた。彩雲たなびく異界の空。彼らは旋風になり、花弁になり、舞い落ちていく。そして、不思議な景色を見た。
花弁の渦として、どこかの洞窟に舞いこんだ。洞窟はほんのりと青い。外の光と似た雰囲気である。それもそのはず、下は地下水が満たしているのだ。澄み切っていて美しく、身を浸したらきっと心地よかろうと思った。
その奥に巨大な女がいる。背は秋ノ市で見たビルと同じか、それ以上だろうか。枯れた柳のような暗い髪が垂れ下がっていて、顔は見えない。異様な風貌だったが、意外にも恐怖は抱かなかった。
ワダチは女の見下ろす泉に落ちた。大きな音も経たず、水飛沫も上げず、静かに着水する。
「じゃあな」
どこからか、ヨンクの声がした。
「縁があったらまた会おう。なければないで、達者でな」
「ああ。お前も元気で」
水は冷たくも温かくもなかった。ただ、心地よい。波に合わせて浮かび、沈み、気持ちがほぐされていく。
沈む、沈んでいく。水に包まれる。どこからか、泣き声がする……。
冬ノ島の秘匿された洞窟へ突風が吹き込み、泉が渦を巻いた。泡と花びらと、両方が収まった頃、水際に花が浮かぶ。旅人たちが肩に宿らせていた、小さな白い花である。
大きな女は、それを黙って見つめていた。




