1-3
翌日の夜、ワダチはヨンクと共に春ノ郷を出て講に戻った。
講の先頭に立つ渡守は、丸眼鏡をかけた、つやつやとした濃い褐色の肌の子どもだった。顔周りを流れる髪の色素の薄さのせいか、どんぐりが人間になったように見える。小さい渡守たちの中でも特に小柄で、いつでも驚いたようなまんまるの瞳孔をしていた。
「貴殿とお話しするのは初めてでありますな」
どんぐり小僧は古めかしい話し方をする。響きの良い声が、昨日聞いた説明のものと同じであるとすぐに気づく。
「小生もまた、案内役を仰せつかりました者です。皆さんへのお話は小生が主に行います」
講はまた一本道を辿り始めた。ワダチとヨンクは集団の中でも先頭の辺りにいたため、どんぐり小僧の話をよく聞くことができた。
「次の夏ノ谷まで、そう時間はかかりません。皆さんの幻界群での睡眠時間相当で到着します」
「寝る時間って、人によって差があるよな」
ヨンクがこっそり言う。すると、どんぐりが補う。
「隣暮では、幻界群ほど時が平等ではございません。過ごす者次第で、同じ一時間を五十分に感じたり一時間二十分に感じたりします。それでも、パンサラサよりは流れますから、ご安心ください。皆さんがたをここに置き去りにせず、確かにどこかへ連れて行ってくれますよ」
務めなのだろうが、それ以前に彼は話し好きのようだった。ヨンクの言葉に応える形になったのをきっかけに、彼らは目的地を目指す間、しばしば会話をした。
「なんで歩いて向かうんだ。ここにも乗り物くらいあるだろう」
「乗り物はあります。しかし、講というのは歩くことに意義があるのであります」
「不便だな」
「便利は手助けでありますが、欠落でもあります。移動の時間は、渡守がその気になれば、消し去ることも可能であります。一瞬で目的地に辿り着けるのです。しかしそうなりましたら、小生らが語らう時間は存在しません」
春の夜の道。花弁が舞う美しい光景。心の温まる光景は、その時間がなければ見ることができなかった。
「無論、早急に次の生をお望みでしたら叶えることもできますが。これまでの生を再度思い返して慈しみ、次の生に思いを馳せる時間が多少あってもよいのではないか。小生はそう考えるのであります」
「ここで考えたことは覚えていられるのか」
「大抵は、いいえ。しかし無駄にはなりません。パンサラサの水が、皆さんの物思いを預かっておいてくれますから」
「何度も聞くけど、よく分からねえな。そのパンサラサだとか、水だとかいうのは何なんだ」
「パンサラサは混沌の海であります」
この世はかつて、ゴンドワナという全き一つの超幻界だった。
しかしある時、突如ゴンドワナは崩壊し、数多の幻界と、広漠とした虚ろの海とに分けられた。これがパンゲア幻界群と混沌の海パンサラサの誕生である。
「パンサラサはもともとパンゲア幻界群と隣暮と不可分、すなわち一緒であったと聞きます。パンサラサを満たす水は何でも受け入れますゆえ、母なる海とも言われますが、同時にその包容力ゆえに、包みこんだもの輪郭を押し流してしまうのだとか」
「輪郭ってなんだい」
「そのものが自分として生活するために欠かせないもの。認知機能であったり、理性であったりが倒錯すると聞いております」
それは、自分たちにとって毒なのではないだろうか。
ワダチたちの血の気が引く。昨日一昨日と存分に湯に浸かった体から、みるみる温もりが奪われていく気がした。
「隣暮で川や温泉となったものに触れる分には、何ら問題ありません。毒薬変じて薬となる、であります。この地は守られています。皆さんが形見を手放さなければ、押し流され、虚に飲まれることもありますまい」
どんぐりの言うことを聞き、ワダチたちは胸を撫で下ろす。
「それに、パンサラサの水は他の幻界へ移動するための呼水ともなるのですよ。つまり、葦原民の皆さんの転化を助ける、大切なものでもあるのであります」
「転化ってなんだ」
「転化生態です。ああ。皆さんにとっては、転生の方が耳馴染みがいいようでありますな」
「同じものなのか」
「おおまかなところは。貴殿ら葦原民は世界を渡るのであります」
ある幻界での一生を終えたら、次の幻界へ渡りまた別の一生を始める。それを繰り返す。
「世界を息づかせ、より鮮やかに彩る貴い仕事でありますから、せめてこの隣暮では心穏やかに過ごしてくださればと」
「君たちは転生しないのか」
「ええ。輪廻路は単純な道のりです。常駐の案内役など必要ないのではないかとよく言われますが、この地には一見には察しきれない厳しい掟が多いのであります。たとえば、我々は葦原民が七日を過ぎてこの地に滞在することをおすすめしていません。一日二日程度なら、構いません。灯共によってはもっといることもできます。しかし、いつか必ず、転化生態に障りが出ます」
「それでも、こんなに穏やかで綺麗な場所なら、いられる限りいてみたいものだが」
「今が穏やかであるだけです。いつ、崩れ花の大暴流のような悲劇がまた起こるとも限りません」
「ほら」
後方よりやって来た花飾りの渡守が、どんぐり小僧を小突いた。
「もう夏ノ谷に着くよ。案内をしてくれないと」
「申し訳ありません」
お喋りの渡守はしょげた。
朝がやってきたらしい。濃い色の暗幕が失せ、代わりに透き通る緑の光が辺りを照らしている。いつの間にか木の道が石畳に変わっていた。左右に並ぶ木の割合が減り、景色が岩がちになっていく。肌周りが暑い。それでも、不快になるほどの汗はかかない。
行く手に高い岩壁が見えてきた。どんぐり坊主が声を張り上げる。
「これより、夏ノ谷に入ります」
輪廻路と岩壁の交わるところに隧道があった。壁に火が規則的に並び、壁と天井の細かな凹凸を際立たせている。隧道をくぐる時間は長かったように思う。しかし濃い褐色を帯びた黒い岩壁が、次第に燃え立つような赤い岩肌に変わっていく様に目を奪われ、正確なことは分からなかった。
行く手に光の扉が見えた。その先が夏ノ谷だった。地面は赤く乾き、短い草がまばらに生えている。大地は緩やかに長く上っており、目を凝らせばその向こうにも剥き出しの岩山がそびえているのが見えた。通り過ぎてきた岩壁には、格子状に組み合わされた鉄骨が寄り添う。ふもとには大量の手押し車と土嚢が置いてある。
「静かだな」
ヨンクの言う通り、住人の声が聞こえなかった。それどころか人気が一切ない。どこからか規則的な鳴動が届き、ワダチたちの足下を震わせる。
「もう少し前進しましょう」
路を進むほど鳴動が大きくなっていく。振動の正体は、丘を登った途端に知れた。
広い荒野に、大勢の人間が集まっていた。男は筋骨隆々、女ももれなく体格がいい。全員が同じリズムで体を揺すり、腕や足を振り回す。丘の下まで届いていた鳴動は、彼らの体操によってもたらされたものだったのだ。
丘の上の、視界の端から端までを人が埋め尽くしていた。果てのない人の群れに、講の参加者たちは呆気に取られる。
「これが夏ノ谷名物、朝の踊りです。採掘作業前の準備運動であります。夏ノ谷は四領唯一にして一大採掘地であります。ロスト・ゴンドワナでの秩序ある暮らしを助けるための根源的な活動を行う者たちが集まり、採掘に励んでいます」
肉体がないのに準備運動をする意味はあるのだろうか。
ワダチが疑問を思い浮かべたのと同時に、どんぐりが言う。
「こういった仕事は心の準備が肝要なのであります。なにせこれはただの作業ではなく、マツリゴトでありますから」
広場の人々が、体を動かしながら歌い始めた。
我らは火を待つ炭である
掘るぞ掘るぞヨイサッサ
止まるなけして倦んだら眠れ
右のものは左へやれ
左のものは右へ移せ
絶えず揺らせよその秤
彩雲明るく燃える限り
「彩雲というのは頭上にある光の模様です」
どんぐりが指さしたのは、ワダチがずっとオーロラに似ていると思っていた光の帯だった。
「彼らはこの地において松明の手と呼ばれる特殊な修験者です。四領において彼らのみが夏ノ谷での採掘を許されています。採掘の地は定期的に行われる谷長の託宣によって決まり、次の託宣までの間、指定されなかった土地には決して触れてはならないとされています」
歌と踊りが止んだ。修験者たちは沈黙し、前方にそびえ立つ鉄塔を見上げている。目を凝らすと、頂上に一人の男が現れたのが見えた。黒の長髪をたっぷりと蓄え、赤銅に焼けた上裸を剥き出しにした逞しい男である。遠すぎて顔かたちがはっきりと分からないものの、彼の堂々たる立ち姿はその場に居並ぶ誰よりも活力に溢れていた。
「おはよう、松明の手諸君」
傍に佇む照明に括りつけてある巻き貝の中から、男の声が響いてきた。谷長の声だと案内役が言う。
「今朝、彩雲の相が転じた。諸君らが向かうのは狛犬座と大蛇座の間、常盤山脈である。一心に作務に励み、星を持ち帰りたまえ」
松明の手たちは威勢のいい返事をし、左手奥を目指して歩き始めた。人の群れを外れた者もちらほらいたが、採掘に必要な道具を取ってまた群れに加わったり、荷を積んだ大小さまざまの車──それは光のぐるぐると飛び回る透明な円形管をかかげ、うっすらと宙に浮いている荷台だった。姿は車というよりバルーンのない気球に近いが、歩く人を余裕で置き去りにする速度といい、荷台の後部に付属する席に座る人間が手を掲げて操縦しているらしいことといい、台にたくさんの荷が積まれていることといい、自分たちの知る車の代替物としか思えなかった──を転がして群れの先へと消えて行ったり、結局のところ目指す方向は同じであるようだった。
「なかなか面白そうな場所じゃねえか」
ヨンクは興奮しきりだった。
「あれはこの世界の車か? どうやって飛んでいるんだろう。あの管と荷台は繋がっていないのに一緒に移動できている。おまけに動力になりそうなものもない。いや、あの光の玉がぐるぐる回ってる輪っかがそれなのか」
「その通りであります。星遊環というものです。松明の手の掘り出した星を使っているのでありますよ」
「なんだと」
「採掘の様子を見学しに行きましょう」
ワダチたちは、どやどやと賑やかしく会話する修験者たちに続く。旅人たちの四方を、付き従う四人の渡守が囲う。どんぐりと丸い眉の少年が右へ、大柄な少年が先頭へ、花飾りの少年が最後尾へつく。花飾りの渡守が声を張る。
「僕らの囲いから出ないよう気をつけて。松明の手の足跡は君たちの足を速めてくれるけれど、うっかり飛ばしかねないから」
歩きはじめてみると、言われた通りだった。彼らの後を追うだけで、先ほどまでとは段違いに速く移動できる。景色が流されて目まぐるしく変わっていく。みるみるうちに辺りの灼岩に山吹の縞模様が混ざるようになり、夕焼け色の丘陵に移る。さまざまな明るさ、濃さの橙に染まった岩や丘が並ぶ、独特の景観だ。時折きらりと光るものも見える。
速く歩けるのはいい。風を切る感覚が快適である。だが、景観を十分に楽しめなくて名残惜しい。
ワダチは過ぎた方を見返しながら歩く。黄金の渓谷を過ぎ、暗い緑の山に差し掛かったところで修験者たちは歩みを止めた。脇見しつつ歩いていたワダチは、勢いを殺しきれず前にいた渡守に衝突する。予期していたのか、大柄な少年はすでに足を止めてこちらに向き直っていた。真正面から受け止めてくれた腕に、いささか驚く。
大柄とは言っても、それは渡守の中での話だ。背は自分より低い。それでも、彼の腕は難なくワダチを押し留めていた。
「どこか痛めてないか。止まる頃を見計らって予告をしておけばよかったな」
大柄な渡守はワダチを気遣う。いたたまれず、恐縮して頭を下げた。
後ろから来た面々も次々止まっていく。ワダチ同様に不慣れな移動法によろけた者も数人いた。渡守たちは彼らを見逃さず、すかさず支えにいった。
一方、松明の手たちは採掘を始めようとしているようだった。ようだった、というのは彼らの様子を曖昧にしか捉えられないせいである。この辺りは大地も樹々も何もかも、漆黒に近いくすんだ深緑の結晶でできていた。相当色が濃いのか、天に近い樹々の縁が葉の形に透けこそすれ、浴びた光が下まで染み渡っていかない。一帯は闇に浸り、樹々の隙間をすり抜けて僅かに届いた光で、修験者たちが大小の班を作り持ち場に移る様を見ることしか許さなかった。
「さて、それではこの地で行われる採掘について、少しだけ説明します」
またどんぐりが先頭へ戻ってきた。
「松明の手の採掘は彼らに与えられた夏ノ力、通称火導力によって行われるのであります。あちらをご覧ください」
近くに、木立へ向けて手をかざす小グループがいた。彼らの掌がぼんやりと緋に煌めくと、樹幹の中心から同じ煌めきが生まれ、明滅する。とろ火に似た優しい光は木より離れ、かざした掌に移る。
「火導力は外にあるものに眠る通力を燃え上がらせ、活動状態にします。夏ノ谷の土壌に松明の手が触れて形成された結晶、これを星と呼びます。星は然るべきカラクリに仕込めば、通力や導力を持たない者でも重い物を持ち上げたり、速く走ることができるのであります」
松明の手は手に収まった星を腰に提げた大きなランタンに次々収めていく。空の光の届かない秘された森の姿が、とろ火の群れに朦朧と炙り出される。樹々は星の炎に照らされると、夏の盛りの陽射しを照り返す、目にも鮮やかな翡翠に輝いた。少し前の陰気な森の印象からは想像のできなかった景色に、ワダチたちは息を忘れて見入る。松明の手たちもほとんど口を利かない。必要に応じてたまにぼそぼそと漏らす呟きが、森の静寂を際立たせる。
しばらく見物して、ワダチたちは帰ることになった。帰路は松明の手の導きがないため、車を貸してもらうことになる。往路に見た、バルーンのない気球に似た例の車だった。
花飾りの少年が車たちを指差す。
「五人前後一組で乗るように。運転は希望者同士、譲り合ってどうぞ。まずできないだろうけど、無理に勝手な方向へ舵を切らないようにしてね。僕らの足が松明の手より速いってことを確かめるのと引き換えに謹慎になるからね。グルメで有名な常夏常祭に行けないのは損だよ」
旅人たちは乗りやすそうな車を探し、わらわらと駆けていく。ワダチはいち早くヨンクと同じ車に乗った。後から、髪の代わりに長い葉を垂らした女、男女二人組が乗車する。植物女が尋ねる。
「誰が運転するよ。この形の乗り物を運転したことがある人はいる?」
二人連れの男の方が答える。
「僕らは生き物にしか乗ったことがないよ」
「俺たちはこれに似たものの操縦が趣味だが、この形のものはいじったことがねえ」
ヨンクが言う。植物女は肩をすくめた。
「あたしはこの通りの頭だから、下手をすると舵に髪が絡んで暴走させるかもしれない。おっさんたち二人のどっちかが先陣を切ってくれないか」
「ワダチ、お前に任せた」
運転のプロだろ、とヨンクが肩を叩く。
「俺の運転も趣味なんじゃなかったのか」
「言葉の綾だ。さあさあ」
運転してみたい気持ちがないわけでもなかったので、ワダチは籠後方の操舵席についた。ボタン二つに舵ひとつという極めて簡易な作りをしている。
渡守たちは、飛び回って説明している。ワダチたちのところにもおっとり顔のカロンがやって来て、ワダチの手元を覗きこみ、ひとつひとつ指をさして確認する。
「まずはボタンを押して。青い方だよ。星遊管が光り始めたらハンドルを握るんだ」
言われた通りにする。
車はスムーズに走り始めた。飛んでいる。同乗者たちが喜ぶ。
「さすがだな。やるじゃないか」
「風が気持ちいいな」
「悪くないわ」
「おっさん、そのままよろしく」
なかなか爽快だった。見慣れぬ美しい大地を、よく知らない人々と知らない機械に乗って駆ける。不確定なことだらけなのに楽しかった。
夏ノ谷に夜が訪れた。中心地紅台地には、労働を終えた者たちのための店が寄り集まる区域がある。常夏常祭と呼ばれるそこで、夏ノ谷の住人は疲れを癒し、輪廻講の参加者は自由に遊ぶ。
車に同乗した縁で、ワダチたち五人は同じ食卓を囲むことになった。意気投合したわけではない。常夏常祭入り口の大看板前で下車し、渡守に自由行動を告げられた直後、植物女が行ってみたい店があるから一軒だけ付き合わないかと声をかけてきたのだ。
「うちの幻界は、隣暮の話がちょこっとだけ伝わってるの。夏ノ谷で行くといい店のことも聞いててさ。その店に行くなら複数人いた方がいいらしくて、誰でもいいから一緒に行って欲しいんだよね」
ワダチは頷いた。ずらりと並ぶおびただしい店の種類に気圧されていたからだ。一人で考えれば、きっと決めきれず長いこと迷うことになる。いい店を知っているという者が居合わせたのだから、乗ってみるのも悪くない。
ヨンクはあまり気乗りしなさそうだった。
「本当にいい店なんだろうな」
「違ったとしても、後で自分の本当にいい店を見つけるための経験になるでしょ。夜は長いんだから、ここは流されようよ」
「どんな提案のしかただよ」
「私たちもご一緒させてもらおうかな」
二人連れも異論ないらしく、男の方がにこやかに応じる。ヨンクは分かったよと言った。
植物女はペトリエと名乗った。流れで、二人連れの男の方はスレイ、女の方はシャンヌと呼べばいいらしいと知る。
ペトリエは屋台の乱雑に並ぶ通りをすいすいと歩いていく。狭い路地は子どもが悪戯に線を書きこんだあみだくじさながらの様相で、少し歩くだけで新たな路地が現れる。そして、呼びこみに励む店員の数も増えていく。
「肉料理ならウチがいいよ。品数が違うよ」
日焼けしたタンクトップの男が、虹色の大きな骨を振り上げて言う。
「搾りたての果汁は? 金木犀の煙草もあるけどどうだい」
エプロンをつけた、二本足で歩くウサギがワダチたちの前に立ちふさがった。身長はワダチより高い。蹴られたらひとたまりもなさそうだ。
ワダチがまごついていると、ペトリエが戻ってきてウサギの肩を軽く叩いた。
「ごめんね、また後でね!」
彼女は器用に呼びこみをかわし続けた。そうしてたどり着いたのは、木造のバルコニーの張り出した長細いバーだった。西部劇でよく見るサルーンに似ている。
腰の高さにあるスイングドアを開け放ち、ペトリエは目の合った店員──人型、瞼が下から出てくる──に五人ねと明るく言うと、窓際の席を陣取った。ワダチたちも同じ卓につく。メニュー表はバーカウンターの上に掲げてあった。大きな文字で、こう記されている。
《本日のメニュー》
旅人の心惹かれる飲み物
腹満ちる盛り合わせ
幻界食べ・飲み比べ
艱難辛苦珍味セット
お口直し
「メニューはあれだけ?」
シャンヌが眉を上げる。ペトリエは頷いた。
「そう。分かりやすくていいでしょ。確実に食べられるものが出てくるって分かる」
「食べられないものが出ることもあるのか」
「それはお客次第らしい」
スレイはしきりに目を瞬かせていた。
ワダチたちは相談して、飲み物を一つずつと腹満ちる盛り合わせ、幻界食べ・飲み比べを注文した。店員はにっこりして、カウンターの向こうへ引っこんだ。
店は鰻の寝床というやつで、間口の狭さに対して奥に長かった。壁、床、カウンターから円卓まで、すべて古びた木材でできている。夜と言ってもまだ夕方に近い時刻だからか、客席には余裕がある。今いる客はワダチたちも含めて三組だけだ。中心のテーブルでは黄金に煌めく肌を持つ男達が酒を酌み交わし、カウンターには錦鯉の怪人が独り腰かけている。魚の口が珈琲を啜っては茶色のシャボンを吐く、非現実的な景色を眺めている間に、最初の注文が到着した。
まずやって来たのは飲み物である。盆に乗る姿に、ワダチたちは目を奪われた。明らかに飲み物に見えるものと見えないものが混在している。
「こちら愛用の栄養剤」
店員が小さなボトルをペトリエの前に置く。ラベルには植物の絵があり、見慣れない文字のようなものが書いてある。
「素朴なマグ、ポーション」
白いマグがスレイに、銀細工の水差しとカップがシャンヌに渡る。
「生ジョッキ」
これはヨンクだ。なみなみとビールで満ちた大きなジョッキが机に乗る。
「夏休みの筆洗器です」
中心からカラフルな波紋を描く液体の満ちた大きな茶碗が、自分の前にやって来た。ワダチは唖然とする。卓の全員が立ち上がり、碗の中身を覗きこんだ。
「ワダチ、どういうことだよ。まさか絵の具を飲む趣味があったのか」
「あるわけないだろう」
「飲めないものなんじゃないのか」
「魂ってお腹下すのかしら」
「大丈夫だよ。これはいける」
ペトリエが自信に満ちた顔で頷く。何の根拠があるんだと聞けば、植物と暮らす人間特有の嗅覚だという答えが返ってきた。頭に同居している草は水の香りに敏感らしい。
ワダチは飲むべきか悩んだ。絵具の入った水の見た目をしたものなど、毒に決まっている。だが、白状してしまうと、美味しそうだと思っている自分もいる。今のワダチには肉体がないのだから、肉体が壊れる心配がない以上構わないのではないか。
ええい。ままよ。
ワダチは乾杯の音頭に合わせて碗に口をつけた。爽やかなミントの香りとアルコールが鼻腔を抜ける。口の中でパチパチと弾けるものがある。甘い。これは、カクテルか。
「美味い」
碗を傾けるワダチを見守っていた面々が、安堵の息を吐いた。
「この店では思い出の品を食べられるんだよ」
ペトリエが指先で自分の注文した小瓶を揺らす。
「これは、昔あたしが頭の相棒にやっていたんだものなんだ」
「あんたの、その」ワダチは彼女の頭に目をやって「相棒は、こんなところまで一緒に来てくれるものなのか」
「あたしらはそういう種族だから」
美味い酒にしてもらって気分がいい、と彼女は笑う。
酒を楽しむ間、店に客がぞろぞろと入ってきた。他の講の参加者だろう、おずおずとした様子で席に着く者もいれば、採掘終わりの修験者たちもいた。修験者たちはよく飲みよく食べ、よく踊った。彼らは店の卓の間を練り歩いて自ら歌いながら自由に手をうねらせたり、店の隅にあるステージで一挙手一投足を揃えて舞ったりした。日中見た特殊な能力を駆使した神秘的な労働風景からは想像できないほど、彼らは陽気だった。
次に、腹満ちる盛り合わせと幻界食べ・飲み比べがやってきた。焼きそば、タコライス、緑の蒸し蟹、ルービックキューブに似た食べ物、カップケーキ、酒各種。
食べ慣れたものは食べやすく、慣れていないものは美味しいかは分からないが食べられはする。味比べをしながら、それぞれの生きていた幻界の話をする。面白いほど世界の様子が違う。たとえばワダチたちの幻界では太陽は一つだったが、ペトリエのところには二つあった。
「赤陽と緑陽と呼んでいたよ。交互に地上を照らすんだ。赤い陽は地上をくっきり照らしてくれるが、陽射しが熱くてまともに浴び続けると火傷する。緑陽はあたしたちに優しく、そんなに光が強くない。だからあたしたちは緑陽が出ている時だけ外に出る。ちょっと暗くてもいい。何でもはっきり見たいわけじゃないから、ちょうどいいんだ」
スレイとシャンヌのところには、太陽がなかった。
「太陽という星もあったのかもしれないが、意識したことがない。私たちの空はいつでもたくさんの星が流れていた。そう、あんな風に」
男は外を指差した。店の外、ちょうど窓の向こうで野菜売りが屋台を出している。大きな桶にたっぷりと水を入れ、そこに野菜や果物らしきものを浮かせている。水流に合わせて球体や楕円形がくるくると回る。
「星の名前を気にする者はいなかった。私たちにとって大切なのは宙全体の配列と色合いだ。地上の力模様は星の相に現れる。過去や現在はもちろん、未来のことも」
「昼間も星が出ていたのか」
「ああ。昼も夜もよく見えた。移動していたよ。私たちは一生、凶の星を追いかけて暮らした」
「不吉そうだな」
「そうさ。あの星が現れる時、世界には災いが訪れると言われていた。私たちは凶兆を探し、取り除くことを生業にしていた」
「生業にしていたどころじゃないわ。スレイは引く手数多の災い落としだったのよ」
シャンヌが誇らしげに言う。
「剣の腕、凶兆への観察眼、どちらも一級だった。彼が訪れる場所には必ず長い平和が訪れたわ」
「よしてくれよ」
スレイは苦笑している。
ワダチはと言えば、そういう世界も本当にあるのか、と妙な感嘆を覚えていた。まるで産業革命が起きる前の、冒険の時代の物語だ。ワダチたちにとってそれは、世の万事は自分たちの活動の反映であると固く信じた、人類が世界の中心であると信じてやまなかった頃のことに思えた。
今の自分たちの心は、そこまで世界に結びつかない。彼らのような作りの幻界だったならば違ったのだろうか。
「星の名前も知らないのにその星が災いだなんて、どうやって判断するんだよ」
ヨンクが話題をひっくり返す。スレイは目でシャンヌを示した。
「彼女のような天の魔女たちが、有史以来宙模様を記録している。そういった過去の蓄積から、凶兆を見つけ出す」
「凶兆ねえ。俺たちの世界ではいまいち実感が湧かないな」
ヨンクが同意を求めてきた。そんなもんだろうと返す。
「俺たちとこの人たちとでは、幻界の体質が違うんだろうさ」
「惑星は惑星、人間は人間だったもんな。俺らは物質主義だから」
「それはそれで、即物的に割り切れていいな」
スレイが返事をするも、酔ったヨンクの目は壁に吊るされたランプに移っていた。ガラスの空洞の中で、小さな星が瞬きながら舞っている。
「これも星なんだよな。こんなに小さいなんて、不思議な感じだ。俺らの星はもっと大きいから」
「見たことあるの?」
シャンヌが聞く。
「ないよ。空のずっと遠くにあるから。これよりもっと小さい米粒くらいの大きさで、ちかちかしてるのを見かけるだけ。それすら見えないようなのもあるらしかったな。惑星のある宇宙に俺らみたいなのが行ったら、呼吸ができなくて死んじまう。実際の大きさで惑星を見られるわけがない」
「見たことのないものを、知識のある人の言うことを信じて理解した気でいられるなんて、いい世界ね」
魔女の口調には皮肉な響きがあった。酔っていても気づいたのだろう。ヨンクがむっとする。
「なんだ。他人の見識を信じることの何がいけない」
「他人の噂話を、さも自分の体験したことのように信じて話す。世界はすべて自分の作った物差しで測れると信じている。浅はかだわ」
ワダチは身を乗り出そうとするヨンクの肩を軽く押さえる。スレイが息を吐いた。
「やめろよ。君らしくない」
シャンヌはまだ何か言おうとしたが、スレイが頭を下げるのを見て口を噤んだ。
「すまない。彼女の言葉を正面から受け止めないでほしい。もしかしたら君たちもそうかもしれないが、私たちは予期していなかったタイミングで元の世界を離れることになってしまったばかりでね。少しばかり感傷的になりがちなんだ。そう、自分たちでも自覚している」
「君たちはいくつで亡くなったんだ」
ワダチは尋ねた。
実は、ずっと気になっていたことだった。輪廻講の参加者の多くは成人以上だった。子どもは見当たらず、年老いていると分かる姿の者が多かった。その中での二人は特に若く、しかもここで知り合ったばかりでないように見えたから、どういう経緯でここにいるのかと考えていたのだ。
「僕は今年で十九になる。彼女は二十二だ。僕らの幻界において、人間の平均的な寿命は五十だった。まあまあ短いだろう?」
ワダチは絶句した。
シャンヌは目を伏せ、唇を噛み締めている。一方、スレイは白い歯を零して見せた。
「濃縮された人生だったよ。僕は十分生きた、やれることをやれたと思っている。それでも、この美しい土地にやって来て思うのは、何故か今僕を去っていく故郷のことばかりなんだ」
砂と岩ばかりの土地で快活に働く同胞の姿。皆で歌や踊りに興じた夜。
「ここは素敵なところだ」
スレイは繰り返しそう言った。
「素敵なところだよ、本当に」
店の中では、修験者たちがまだ踊り続けていた。




