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カロンに言われた通り、ワダチは森の道を歩き続けた。明るく平穏な道だった。太陽があるわけではないようだが、空の明るさは故郷に似ており、梢から溢れる青い輝きが目に馴染むのは早かった。柔らかな風と鳥の囀りが心地よい。
森を抜けた途端、木造りの建物が居並ぶ道に出た。
道の先の方に、人の集団が見えた。老若男女が塊になって、先頭にいる誰かの話に耳を傾けている。彼らの後方には、先ほどワダチを送り出した少年と同じ、白布に吊り下げズボン姿の三人の子どもが佇んでいる。ズボンを釣る紐に黄色の花飾りをつけた少年、丸っこい眉を持つ穏やかそうな少年、やや筋肉質で大柄な少年。
近づくにつれ、声が聞こえてきた。人混みの向こうからでもよく響く、中性的な声だ。
「ここは春ノ郷。穏やかな気候で自然豊か、パンサラサよりやってきた湧き水を温泉として活用しています。四領民はもちろん、ここを訪れた多くの葦原民にも温泉郷として親しまれていると聞いています」
三人の子どもがワダチに気づき、手を振る。そのうちのひとり、花飾りの少年が話しかけてきた。
「いらっしゃい。輪廻講へようこそ。お迎えの者から話は聞いているよ。僕は渡守案内役の一人。君たち葦原民の輪廻路を助けるものだ」
「君たちは、俺たちと違う生き物なのか」
人間ではないのかと、ワダチはこぼした。
彼の頭には、もしかして自分は人知を超えた土地にいるのではないかという考えが浮かんでいた。最初に見た丸い生物、どこからともなく降り注ぐ花弁、そして今前にしている人だかりの中に見える、人のようで人と違う容姿をした者たち。腕が四本多く生えていたり、頭に牛の角が生えていたりする者らが当たり前に闊歩する光景を目にして、ここは己の常識の通らない場所らしいと気づき始めていた。
眼前の子どもたちは、一見ただの人の子どもに思える。だが、話し方や物腰に、河原で出会ったカロン少年と同じ、年頃らしからぬ落ち着きがあった。加えて、彼らは体格の小ささの割に、僅かずつだが両性の特徴をそなえているように見えた。花飾りの少年のしなやかな束ね髪は女性のものに思えるが、顔つきの凛々しさは男性的この上ない。眉が太い少年は、素朴な低い声で柔らかく話す。筋肉の付き方から男として認識しやすい少年も、顔の造作は丸みを帯びており、たおやかなのだ。
もっとも、彼らの性別や年頃など、ワダチには関係のないことだ。しかし未知の環境に適応しようとして生まれた警戒心が、出会った者の正体を探ろうとし、普段の彼なら気にかけないどうでもいいことを気にさせた。
花飾りの少年は連れ二人と顔を見合わせた。不快がるというより、また聞かれたか、と言いたげな、面白がる色があった。
「僕らが灯共──僕らは君たちの言う人間をこう呼ぶ、だって明かりが好きだろう?──であるかないかと聞かれたら、まず違うね。僕らは渡守という生き物だ。君たちのように時と共に体が変化することはなく、種を残す機能もない。僕らは輪廻転生を滞りなくするために生きる、君ら灯共の友だよ。君らが健やかに輪廻を続ける限りはね」
人だかりがぞろぞろと動き出し、木造の家々の隙間へ吸い込まれていく。花飾りの少年は彼らを示した。
「君はこれから輪廻路を歩く。彼らも君と同じ、輪廻路を歩く者たちだ。それぞれこれまでいた世界が違うから、気が向いたらそこも含めて楽しむといい。交流は義務ではないよ」
路を守護する四つの領域は、長旅の疲れを癒せる場所のはずだ。のんびりしていくといい。
花飾りの少年は、携えた籠から花を一つ取り出し、ワダチの肩に乗せた。それだけなのに、花は乗せられた箇所にぴたりと止まる。風に揺られても落ちそうなそぶりがない。
「お祝いの印だよ。君も彼らに続いて、春ノ郷を楽しんでくるといい」
大きな道から路地へ逸れてみる。不意に、声をかけられた。
「あんた、もしかしてワダチさんじゃないか?」
人だかりはもう先に行ったものと思っていたが、独りだけに路地に残っていた男がいた。顔を見て、驚いた。
「二つ隣の部屋に住んでいた」
名前が出てこない。ごま塩頭と無精ひげ。暮らしていたアパートの駐車場から、四輪駆動車に乗って出かけていく横顔ばかりが思い出される。
「四駆の」
「そうだよ。あんたと同じアパートに住んでたモンだ。俺の名前がわからないんだろ? いいよ、気にしないでくれ。俺自身、自分の名前を思い出せないんだ。乗ってた車の名前は全部言えるんだけどな」
愛車たちにちなんで、ヨンクとでも呼んでくれ。名前を忘れているとは思えない、明るい口調だった。ワダチの横に並び、路地の先を指差す。
「あんた、途中から来たからさっきの案内を全部聞けなかっただろ。風呂でも入りながら話そうぜ。なに、親切ぶりたいわけじゃねえ。さっきの集団は、あまりにも俺と違いすぎる環境で暮らしてる人間が多かったみたいで、話が分からなくてな。まあ、あれだ。ちっとばかし、心許なかったんだよ」
なにも講の間ずっと一緒にいなくてもいいから、と男は言う。構わないと答えた。ワダチ自身、のんびりしろと言われたものの、状況がよく分からなくてくつろぐどころではないと感じていたのだ。
ヨンクはワダチを連れて温泉宿へ向かいながら、聞き逃した内容を話した。
自分たちのいる土地は隣暮という。ここには物語を終えた者たちがやってきて、輪廻路という一本道を歩き、身を清める習わしがある。身を清め終えたら、また別の世界へ旅立つ。実のところ、自分たちはこのある世界での生活と輪廻路での浄化を繰り返しているらしい。隣暮の住民は、自分たちを葦原民と呼んでいる。ワダチも先ほど通ってきた、隣暮の外れにある黄金の葦の生え揃った草原からやって来ることにちなんでいるそうだ。
「俺もお前も、きっとこの道を歩くのは初めてじゃないんだろうな」
「前の俺の記憶は思い出せないのか」
「さあ。さっきの案内係の坊主が言うには、必要ならば思い出すらしい。だが、せいぜい所属していた世界が違うくらいで、おおよそはいつの俺たちも変わらないんだそうだ」
輪廻路は四つの領域に跨っている。四領域は春ノ郷、夏ノ谷、秋ノ市、冬ノ島といい、まったく異なる景観や風物を持つ。訪れた先々で名勝や名物を楽しむのも禊になる。
「それで、この春ノ郷の名物の温泉を楽しむといいって話になったんだ」
輪廻講は全行程七日で行われる。うち、春ノ郷、夏ノ谷、秋ノ市に二日ずつ滞在する。冬ノ島の滞在だけは一日の予定である。しかしこの日程もそう厳格なものではないようで、それより短い期間、もしくは長い間滞在してもいいということだった。
春ノ郷は心和む美しい場所だった。家々の軒先、垣根、川べり。共有の広場であろうと私有地であろうと、どこも緑と花で満たされている。暮らしと緑がはっきりと分かれているところもあれば、家屋の一部に生きた花木が溶け込んでいるものもある。大木に巻きつく長いスロープの上、蔓薔薇が幹と建材とを結わえて家を作っているのを見つけた時は、思わず声が漏れた。どのような人が暮らしているのだろうと眺める。住人の姿は見えず、代わりに窓ガラスを覆うレースのカーテンを押しのけた三つ目の猫と目が合った。
温泉は、どこも宿が管理していた。玄関に出された看板や暖簾を見つけるより先に、垣根より立ち上る湯気でそれと知る。そこかしこに白く微かな煙突がたなびく光景が郷愁を呼び起こす。
「どこを目指しているんだ」
「さっきの案内の坊主が教えてくれた宿さ。出身地によって、宿にも向き不向きがあるんだそうだ。個性で乗り越えられることもあるって言ってたが、ここに慣れないうちはあんまり突飛すぎない場所がいいんじゃないかな」
ワダチは賛同した。
ヨンクが導いたのは、確かに見覚えのある作りの宿だった。格子模様の引き戸を開けた先、足元に敷かれた石の模様や大きな下駄箱や、玄関正面の受付に着物姿の女性のいる景色は、己の知る温泉宿のイメージそのものである。受付を済ませて歩く廊下に、たまに奇妙な置き物があるが、景観を壊すほどのものではない。いつか見た夢の中を歩いているような、浮ついた安らぎを覚える。
湯は室内になく、露天風呂のみだった。ぬめりけのない清潔な洗い場に、足の裏が喜ぶ。丸く、大小形さまざまの石を組んでできた湯舟には、どういう仕組みか隣接する石灯籠から湯が流れこんでいる。竹の垣根に遮られ、遠方を眺めることこそできないものの、湯舟と竹垣の間にある庭の見事な意匠、花の降る良い天気のおかげで不満はなかった。こじんまりとした、心地の良い露天だった。
それぞれの塩梅で湯に浸かり、温かさに気持ちが緩む。自然と、ここへ至った経緯の話になる。
「ワダチはどうやってここに来たんだ」
「よく覚えてない。多分、風邪をこじらせたんじゃないかな。君はどうなんだ」
「山歩きに行ったんだ。見慣れた道を登って頂上について、景色を楽しんだからさあ降りようと思ったら、これだよ。気づいたら見覚えのない景色にいた。いい気分だから、いいけどな」
「家のことは大丈夫なのか。車は置き去りか」
「車にはしばらく乗れていなかった。免許を返納したんだ。山には電車と歩きで来た。妻とは二年前に別れたよ。もう十分なんだとさ」
ヨンクはへりの岩に背を預ける。
「ああ、いい湯だ。落ち着くな。これまでの心許なさが消えていくようだよ」
背負ったものが全部洗われていくみたいだ。
ヨンクは目を瞑っていた。
風呂の後、今後どうするか迷い、隣人とまだ行動を共にすることにした。他に特にあてがなかったのだ。彼は歓迎してくれ、そのままこの温泉宿で部屋を取った。夕食は宿が用意してくれると聞き、空が暗くなるまで各自好きに散歩して過ごす。
ワダチは宿の近辺を歩いてまわった。舞い落ちる花びらを追いかける犬。昔懐かしい、あでやかな一枚布を仕立てた着物をまとい歩く人々。見覚えのあるようで知らない郷の景色、同じ形をしているようで異なる生物たちを眺めるだけで時間が溶けていく。その間、空は恒星の導きがなくとも独りでに色を変えた。青、黄、橙、赤、紫。多彩なグラデーションを醸し出し、色が変わるほど、視界はごく薄い暗幕を重ねて垂らすように暗くなっていった。
──太陽がないのに、日は暮れるのか。
ゆっくりと異なる色同士が混ざり合っていく空、そこになびくとりどりの光の帯を眺めるうち、ワダチは子どもの頃に水彩画用の絵筆を洗うのに使っていた水桶を思い出した。
彼の使っていた水入れは、真っ白な丸い桶だった。たっぷりと満ちた水に、絵の具の染みた筆先を微かに落とすと、その色が波紋となって広がる様がよく見えた。何度も筆を落とすうち、水はその一色に染まってしまうが、その後も落とす色を変えればまた波紋の広がる様を眺めることができる。何度も繰り返し、桶がドブ色に染まる前に水を変えていた記憶がある。 絵を描く趣味も才もなく、自分の描いた絵などまともに覚えていないが、筆洗いのバケツだけはなぜか目に焼きついていた。
日暮れと共に宿へ戻り、食堂に向かった。夕食は懐石料理だった。小鉢に数種、見慣れない野菜が混ざっている他は、知っている食材でできていた。筍の焼いたものに菜の花が添えられ、赤身の刺身まである。しかし何より嬉しかったのは、炊き立ての白米が茶碗で出てきたことだった。
ワダチたちは嬉々として舌鼓を打った。途中、見知らぬ年配の婦人がやって来て、相席になった。白い筋の目立ちづらいブルネットの髪や高い鼻梁は明らかに異国のものに見えたが、どういうわけか言葉は通じた。
婦人は朗らかで優しく、無邪気なところのある人だった。初めて会うはずのワダチたちとも屈託なく話をした。
「ずっと遠出ができなかったから、一度こういうところに来てみたかったの。いっぱい新鮮な体験ができて幸せだわ」
婦人は家にいることが多かったそうだ。住む環境に不満があったわけではないものの、異邦の風や未知の文化への憧れは消しがたく、自由な旅を夢見るのをやめられなかった。
出身地を聞いてみると、まったく聞いたことのない土地の名が返ってきた。それは婦人の方も同じで、ワダチたちが住まいの場所を告げてもしっくりこないという顔をしていた。
「ごめんなさいね。全然聞き覚えがないの。主人が仕事で世界中を旅する人だったから、お土産話を聞いていた私も地名には詳しい方だと自負していたのだけれど」
「まったく重なり合わないところに住んでいたんでしょうね」
ヨンクが言った。
「さっき、輪廻講で聞きました。この世には幻界というのがたくさんあるそうです。混じり合わずに存在する大地がいくつもあって、自分のいる土地以外は幻のように見ることも触れることもできないのだとか」
「ええ、そうなのでしょうね。私、やっと本当に遠くへ来ることができたのだわ」
婦人の声は、少女のように弾んでいた。
婦人とヨンクと別れて部屋へ戻り、窓のそばに椅子を持ってきて外を見る。そこには、一幅の絵画を彷彿とさせる、美しい景色が広がっていた。濃い群青に浸った温泉郷を、等間隔に並んだ提灯がぽつぽつと照らしている。微かな光を映して色づく桜や花海棠。その下に集う人々の輪郭は翳を帯びて柔らかい。
開け放った窓から森閑とした香りが入りこみ、鼻腔を満たす。眠ろうと考える間もなく、意識がまどろんでいく。




