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男はぼんやりとした光の満ちる草原を歩いている。空には太陽も月もない。代わりに淡い青や緑や赤、さまざまな色をした光の帯が幾筋も横たわり、ゆらめいて消え、ふとまた現れるのを繰り返している。
ここはどこなのだろう、と男は考える。なぜここに至ったのか分からない。だが不安はなかった。風が優しく顔をなで、草は身を傾けて道を譲ってくれる。男を苛み妨げるものは何一つない。己が不用意に傷つけてしまいそうなものもない。清々しい気分だった。
しばらく歩く。やがて、行く手に大きな川が現れた。淵は浅く、底の白砂の粒までくっきりと見える。岸より遠ざかるほど水面の翠が濃くなり、その上に線のような対岸がうっすらと浮かんでいる。水は衰えを知らず、男の視野の及ばぬ先まで滔々と流れ続けているようだった。
これを渡らなければどこにも行けない。途方に暮れていると、足元の浅瀬が大きく泡立った。川底がひっくり返り、小舟が現れる。ちょうど男ひとり乗れそうな大きさだ。櫂もついている。おそるおそる足を踏み入れてみれば、舟底はまるで岩場のような頼もしさで体を受け止めた。
男は櫂を川へ差し込んだ。少し掻くだけで面白いほどに水面を滑る。さして漕がずともまっすぐ対岸へ向かう。まるで川の流れより男が対岸へ渡ることの方が自然だとでも言うかのような、淀みない運行だった。
対岸へ降りるなり、舟はまた川底へ沈んでいった。男は行く先を見る。川を渡る前と同じような草原が続いている。
どこを見ても、波打つ草ばかり。
──ここには他に動くものがいないのだろうか。
男が疑問に思った時、胡乱なものに気づいた。
草原の隙間に、白い真円が見える。丈は己の背の半ばほどだろうか。表面はのっぺりとして何もない。巨大な団子か、卵に似ていた。どことなく周囲の景色に馴染まない、異質な感じがする。
男が見つめていると、それは横半分に割れた。割れた箇所を口のように動かし、全身を震わせて声を発した。
「誰ですか」
甲高い声である。
男は答えようとし、気づいた。己が何者か分からない。
困惑するこちらに構わず、それはなおも話しかけてくる。
「どこから来たんですか。何してたんですか。何かやっちゃいました?」
やっちゃった、とは何だろう。
もしかして、己は何かをしでかしたために、ここへ来たのだろうか。
急に空気が鉛のような重さでのしかかってきた。生ぬるさがまとわりつき、首筋へ冷えた汗が滲む。ズボンの脛に草の葉が擦れる度、ちくちくと細かな針に苛まれるように痛む。
不快さに喘ぐ間に、それは弾み、跳ね、ゆっくりとこちらへ近寄ってくる。おや、と思う。
──案外大きい。
背は腰ほどまでしかないと思っていた。だが、思いのほか目線を低くせずともそれを見ることができている。どうも、背の高さも横幅も、自分の胸程度まであったようだ。きっと自分が蹲れば、余裕で飲みこまれるに違いない。
男は、俄かにぞっとした。
あとになって思い返すに、この時背筋を駆け抜けた悪寒は危機感に似ていた。つまんだ小さな虫に針があるのを見つけた時。子犬の口に、人の首筋へ食いつくのに十分な牙が生えそろっているのを知った時。そういう時に抱く、生存本能に由来する恐怖心が呼び起こされていた。
一歩後ずさる。踵が川面の裾を踏み、ひたりと音を立てる。
「いやあ、遅くなってすみません」
男でも、眼前のそれでもない、何かが言った。
声のした方を向く。少年がいる。ひょろりとした身体に、かなり大きな白いシャツがかぶさっているようで、余った裾を吊り下げズボンに押しこんでなおだぶつかせている。髪もぼさぼさとしており、どう見ても力強い容姿ではないが、男が渡るのを躊躇した広大な河川の真ん中に立ち、大したことのなさそうな顔をしていた。それどころか、ざぶざぶと水を掻き分けて寄ってくる。
「待ったよね? いやあ、すみませんね。ちょっと寝ぼけていて。仮眠してたんですよ。まあいつも仮眠なんで、もはや普通に睡眠なのかもしれないんですけどね」
男は振り向いた。真円の生物はいなくなっていた。
「どうかしましたか」
「今、そこに白くて丸いものが」
「何かな。落とし物?」
少年は男の背後を覗き見る。
「そこには何もないよ。何かがいることもない。少なくとも、今のあなたが関わって望ましいことになるものは」
男は己の身体が軽くなっていることに気づく。それから急に、何もかも大丈夫だろうという楽観が身をもたげ始めた。
この子はきっと、接しても大丈夫なものだ。
直感的に悟った男は、彼に問う。
「君は誰なんだ」
「俺はカロン。渡守だよ」
カロンは川を指差した。
「君、さっき舟を使っただろう。それは俺の持ち物なんだ」
「勝手に使ってしまった」
「いいんだよ。誰かに使ってもらうために置いてあるものだから」
少年はあっけらかんと言う。本当に気にしている風はなかった。
「ここは外れも外れの場所だから、移動しよっか」
「良くない場所なのかな」
我ながら不安そうな声が出た。カロンは首を傾ける。
「辺境ではあるね。良い場所かは知らない。少なくとも悪い場所ではないよ。目的地までかなり遠いから、たくさん歩ける。そういうのが好きならば余計なことをしないでおくけど、どうする?」
男が首を横に振ると、少年は口角を持ち上げた。文字通り、唇の左右に指を押し入れてやっと作ったような、ぎこちない笑みだった。
「じゃあ、行きますか」
少年は腕環をしていた。細くのばした金属でできていて、両の手首にぶら下がっている。二本ずつかかったそれが、少年が腕を動かす度にしゃらしゃらと音を立てる。
彼は腕環のひとつを男の方へ放った。腕環は男の頭上へ舞い上がり、ずいと広がって光を放つ。男はあまりの眩さに目を閉じる。瞼の裏に、光の円環が己を中心として地へ降りていく残像が通過していく。眩さが落ち着いた頃、瞼を上げると景色は一変していた。
男は春の景色にいた。柔らかな緑の葉を蓄えた樹々が並び立ち、板を敷き詰めた歩道の左右に色合いさまざま、大小さまざまな花が咲き乱れている。樹々の中には枝先に花を蓄えるものもある。どの木も草花も、見たことのある形と見知らぬ形が組み合わさったような形をしている。
男の鼻の先を、目の覚めるような青がこぼれ落ちていった。花びらだった。丸く小さく、水を行き渡らせるためのか細い脈がうっすらと透けている。青い花びらは男の足元へ身を横たえたかと思うと、そよ風の誘うまま、同じ形をした黄色や桃、白の欠片と共に、渦を巻きながらいずこかへ飛んでいった。
「今日は花降りの日だ。パンサラサのいい日に来られて良かったね」
「パンサラサ?」
「君たちパンゲアの民の恐れる場所。それでいて、還らずにはいられないところ」
カロンと横に並んで歩く。木の歩道はまだまだ続いている。
「たとえるなら、君たちの棲むパンゲア幻界群は何層にも重なるひどく入り組んだ陸地、パンサラサは混沌の海。君たちは一定周期で幻界に肉体を還元し、パンサラサに最も近いここ、隣暮へ魂を清めにやってくる」
「その先は?」
「またパンゲアへ行く。循環のために」
循環。そう聞いた時、断片的な感覚が蘇った。
なかなか治まらない咳。無表情な白板の天井。茫洋とする意識。
「俺は死んだのか」
男はワダチと呼ばれていた。本当の名は忘れた。
ワダチは長い間、物を届ける仕事をしていた。日報、手紙、小包。大きくずっしりとした箱や包みも無論運んだ。現金を運んだこともある。思い出すのは車内の景色ばかりだ。
若い頃から情熱に欠けていた。物覚えも人との会話も得意でなく、運転以外は何一つ続かなかった。だが心がいつも平らかで、決められた段取りをその通りにこなすことが得意だった。仕事仲間は、ワダチは危なげのない仕事をすると認めてくれた。
決まった道を通り、決まった速さで走り、決まった場所へ物を届ける。
単調な生活だったが、気に入っていた。
「そういうこと。君の肉体は君のいた幻界に還った」
カロンは立ち止まり、今いる道の先を指差す。分岐のない一本道。森の中心へ溶け込むまで延々と続いている。
「この道を、ずっとまっすぐ歩いていくといい」
「どこへ続いているんだ」
「これは輪廻路。一生を終えたパンゲアの民が辿る禊の道。行き先はそのうち分かるよ」
少年は唇の片側を吊り上げた。
「怖いことはない。君はいつもの通り、移動すればいいんだ」
「本当に?」
「渡守カロンの掟に賭けて、本当さ」
少年は背中を押した。
「ほら、今からまっすぐ早足で歩けば、少し前に出発した輪廻講に追いつける」
「講ってなんだ」
「ツアーみたいなもの。行っておいでよ。さあ」
ワダチは促されるまま、歩き出した。




