5-3
永らえの森は樹々の迷宮である。似たような枝と葉ばかりの上に、繁茂の模様は日々変わる。それをどういうわけか、ヨーマはたやすく見分け、苦もなく──ネルソンはまた思わぬ枝葉に顔や腕をぶつけながら──目的の通行口にたどりついた。通行口もまた何の変哲もない木の洞だった。
「本当にここから冬ノ島に行けるのか」
「失敗しても狭間に落ちるだけだから安心して」
「いつもの通行口と同じなんだな」
ネルソンは安心して洞をくぐった。険しい森の道をくぐり抜けて現れた通行口が慣れたものであることに安堵し、その向こうに戦場が広がっていることをすっかり失念していた。
洞を出るなり感じたのは、肌を刺す空気の冷たさだった。続いて地響きと炸裂音が体を震わす。頭上からかすかに明滅する光が届いた気がして見上げようとしたところ、ヨーマに後頭部を押さえつけられて顔面が草地にひっついた。土砂降りが屋根を叩く、その何倍も激しい音が降り注ぐ。目と鼻の草は反射光で真っ白になっていた。
「まともに閃光弾を見ちゃダメだよ、ネルソン。君は目が命だろう」
「その命が草に貫かれそうだったのはいいのか」
「自分で守ってよ。大人でしょ」
頭の上にある手が離れた。慎重に頭を上げる。まず目に映ったのは、牧歌的な農地の風景だった。どこまでも緑の稲田が広がっている。水田の頭上には、絶えず彩りと明暗を変え続ける空がある。変わり続ける色合いを背景に、万歳鬼や追放霊といった虚ろの海の生命たちと、妙なものが戦っていた。素焼きの土でできた背の高い人形である。
「変なものがいるな」
「あれは埴輪だよ。土人形さ。意思も感情もないから虚神の相手にうってつけなんだ。虚には虚をってこと」
土人形の顔は質素な三つの穴でできている。彼らはその空虚な目と口から、しきりに光線を迸らせていた。長く垂れた腕の先、手首は折りたたまれ、空いた穴から土の塊を乱射している。縄目の紋様が刻まれたそれが銃弾だった。弾は虚神たちの目をくらまし、体を弾き飛ばす。土人形の中には飛行する者もいて、翼を持つ虚神たちと空中で取っ組み合っていた。
「とんでもないところに来ちまった」
「だから言っただろ。早く敵かアルニの居場所を探知して、用を済ませて退散しよう。こいつらがいつ島に来るとも知れないんだから」
「分かった。ここで探知して大丈夫だと思うか」
「ダメそうだったら、すぐに大丈夫そうなところに放り投げてあげる」
「頼もしいね」
ネルソンは目を瞑る。いつもならば依り代を求めるところだが、今ならば無くてもできるという確信があった。
周囲の音が遠ざかる。意識を飛ばし、精神を風に変えて島の景観を見る。自分たちは今、緑豊かな塚の一角にいる。アルニの姿を探す。いた。ここからそれほど遠くない島の高台、奇妙な巨像のそばに、彼の姿が二つある。片方はユーノリアだろう。
「いた。あっちだ」ネルソンは田園と反対の、上り坂になっている方を指さした。
「ただ、近くにデカくて変な気配があるんだよ」
「ああ。それはきっとあれだね」
どういう像かも説明しないのに、ヨーマは納得して頷いた。
「ついてきて。いや、もう面倒くさいから連れて行こう」
彼はネルソンの同意も得ず、脇を抱え上げて首の後ろに上体を回し、両肩の上にかつぎあげてしまった。そのまま飛び立つ。みるみる視点が高くなり、交戦する虚神と埴輪のいる高さに近くなる。
「おい! 戦闘からは遠ざかれよ」
「悠長なこと言ってられないよ。最短距離、最高速度で行く」
ヨーマは真っ向から空中戦に突っこんだ。ネルソンは悲鳴を上げた。
埴輪が迫る。虚神が手を伸ばす。そういった周りにお構いなしにヨーマは天を駆ける。どんな弾丸よりも考えなしで無鉄砲な軌道に思えた。だが、ネルソンとヨーマが傷つくことはなかった。彼らは激戦のさなかを掻いくぐり、ついに目的地へと到達した。
緑の墳墓の頂点にそびえ立つのは、古びた虚像だった。背はパンサラサの空に触れるかと思われるほど。頭は平皿に似ており、体は埴輪よりも細く、人に似ている。模様も何もない灰色の肌は石に見えるが、細かな凹凸がない。つるりとした未知の物質でできている。ヨーマが像を指さす。
「あれが覆盆だ」
「盆と言うより彫刻じゃないか」
「体はおまけだよ。肝心なのは頭の盃。あれがひっくり返ると終わり」
「何が終わるんだ」
「だいたい全部」
目を凝らす。二人のアルニは像の肩にいた。盃が要であるならばまずい状態である。
「飛んでいいかな」
「投げるよ」
「えっ」
次の瞬間、ネルソンの体は空を切っていた。光を超える判断の速さに、飛べる奴をどうして投げるんだとなじる余裕はなかった。
*
時は遡る。
冬ノ島にたどり着いたアルニは真っ先に巨像のありかを目指した。育て親が覆盆に固執し、島の位置を探り続けていたことはよく覚えていた。覚えていて当然だ。彼女は長い間、アルニに寄生していたのだから。
彼女、ユーノリアは魄体をなくしていた。ゴンドワナが崩壊した後、輪廻転生機構を作り上げた師族の者たちに伴われて輪廻路をたどり、奪われたのだという。いつも同じ体にいても、アルニとユーノリアの考えることはお互いに伝わらない。ただし、彼女が荒ぶっている時は思考や記憶が漏れ出てくる。伝わってくる思考は、恨みや怒り、それに伴う復讐の手段が多かった。パンサラサでも持て余す強烈な負の情念は、アルニの気力を刈り、陰鬱にさせた。彼女が宿らなければアルニはパンサラサの藻屑となっていた。なるべく彼女の助けになってやりたいと思っていても、辛いものは辛い。
しかし、彼女は他にない良いものを与えてくれることもあった。カロンという生物の知識。虚神にまつわる知恵。何よりもアルニが気に入ったのは、今は亡き全き世界、ゴンドワナの追憶だった。ゴンドワナはパンサラサのように何でもあり、パンゲア幻界群のように豊かだった。その崩壊していく様さえ美しく、生き残った不完全な者らを束ねあげる霊師たちの姿にアルニは惹かれた。彼女の記憶は失われた桃源郷の収められた宝箱だった。
彼女は、覆盆は師族の作品なのだとよく言っていた。
「大いなるものの覆盆の創造を助けたのは私たちよ。死にかけの島主なんかじゃなくて、若い私たちが使ってあげないともったいないわ」
彼女は誇らしげにそう言っていたが、アルニは彼女が覆盆を求める本当の理由を知っていた。消失の恐怖である。頼れる一族と魄体を失った彼女は、自身が消えていくことを何よりも恐れていた。自身の消えかねないあらゆる可能性を思い浮かべ、ユーノリアは怯えた。アルニは彼女を哀れだと思った。
アルニの通力が並外れて育ったのは、ユーノリアの寄生のせいでもあった。アルニがパンサラサの侵食に消耗して意識を失うと、彼女は体の制御権を握り動き回った。その度に通力が伸びていったように思う。激情家のユーノリアだったが、意外にも落ち着いている時はアルニのことを大切に扱った。アルニが意識を取り戻し、かすり傷が一つでもついているようなことがあると、彼女は悔やんで詫びた。
「ごめんなさい。大事なあなたの体を傷つけてしまった。治るまでちゃんと傷口をきれいにしましょうね。汚れの激しいところによっていっちゃダメよ」
彼女は、彼女なりに自分を大事にしているのだ。嫌なことをしてくることもあるけれど、彼女も人の子だ。大変な目に遭って、たった一人で混沌の海で生き続けている。心のゆとりをなくしてしまうのは仕方ない。幸いにして、自分は丈夫なカロンだ。虚神落ちした哀れな師族を支えてあげられるのは自分しかいない。
そう思って長年尽くしてきただけに、ある日突然、彼女が何の前触れもなく実体を持った時は驚愕した。そして、自分と同じ顔立ちに笑みを浮かべ、誇らしげに告げた内容に衝撃を受けた。
「あなたは本当に授かり物だわ。だって、蓮ごと落ちてきてくれたんだもの」
彼女はシャツで隠れていた右の肩を見せた。そこには自分にない、蓮華の花びらがあった。
アルニは問いただした。ユーノリアは自分を拾った時に得た蓮座を、誰にも探し出せない場所に大事に保管し、しかるべき手段で魄体に仕立て上げたのだと語った。かつてプラネテス師族の聖体を糧に咲いた蓮は虚神堕ちのありあまる通力を受け止められる格好の依り代だった。ユーノリアはアルニが消耗し、意識を失っている間にこれに取り組んでいた。そのためだけに、アルニを無為に動き回らせていたのだ。
魄体として完成した蓮座を、ユーノリアは喰った。そしてアルニと同じ体を得たのだった。
──抑圧されていた衝動が弾けた。
アルニは彼女を殺した。復活したばかりの魄体は脆く、長年の寄生で尋常でない通力を得ていたアルニの前ではなおさらだった。素手で引きちぎった養い親の五肢を、アルニは虚淵に捨てた。もう浮き上がって来ないだろう。そのまま忘れ去られてしまえばいい。しかし、この忌々しいものの存在を、伝えずにおいていいのだろうか。これから己はどうしたらいいのだろう。
──永らえの島。
あそこならば、本当の自分の仲間がいる。無くしてしまった本当の親、蓮座の代わりもあるかもしれない。
アルニはパンサラサの海を泳いだ。いくらユーノリアによって抗体を得ていたとは言え、独りだった。何の補助もない虚淵からの遊泳は過酷を極め、島にたどり着いた時にはすべてを忘れていた。
すべてを覚えていたら、己は余計に島へ馴染めなかっただろう。
アルニの居場所はパンサラサになかったが、同じカロンたちの家も家とは思えなかった。馴染もうと努力しても、同化する喜びより違和感が勝る。自分は純粋なカロンではないと知る。どこに行っても異分子だった。
──そんな私でも、ユーノリアの企みを追って止めることはできる。
冬ノ島の場所は潮の流れから導き出せる。幸い秋ノ市からさして遠くなかったため、難なく泳いで渡れた。光環と空櫂があるおかげで、昔より混沌の海の遊泳は楽だった。
虚神落ちを完全に殺す手段は二つある。
一つ、ロスト・ゴンドワナのどこかにあると伝わるクガタチ山の火口に落とすこと。
二つ、覆盆の盃に乗せてパンサラサの水をかけること。
クガタチ山はゴンドワナ崩壊前から伝説の存在として知られており、実在が危うい。覆盆の盃が一番確実だった。何より、ユーノリア自身が求めている。獲物が武器に寄っていくのだから、利用しないのはおかしい。
アルニは秋ノ市でネルソンと別れた後、下手を打ったふりをしてユーノリアを逃げさせた。そして彼女を追跡し、やはり冬ノ島に向かう気であるのを確かめた。彼女は不浄訪問者の力を借り、冬ノ島を手中に収めるのに必要な手はずを整え終えていた。戦力差はプラネテス師族の遊魂ノ術を使い、虚神虚霊の強化を行って一頭一頭を制御下に置くことで補った。気の遠くなるような作業を、復讐のためだけに何百年と続けてきた忍耐と執念を思い、アルニは悲しくなった。
──もっと他にやることはなかったのか。
自分に言えた義理ではない。アルニだって、何をして生きたらいいか分からない。自分の持ち物を強いて一つ挙げるならば、ゴンドワナへの追慕。失われた世界を思い、自分もその一部になってしまえたらいいという破滅的な願いだった。
自分独りの命、一人の問題だ。そのくらい許されるだろう。
パンサラサの水を皮袋に入れ、アルニは空櫂を手に覆盆のもとへ疾駆する。記憶を取り戻した魂魄体は、かつて同じ肉体で暮らした虚神落ちの存在を感じ取っていた。




