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その海はあらゆる色になり、形を持たなかった。ある時は虹色、ドブ色。ある場所では液体、固体、気体。無常にして不変の混沌は、形になりきらないすべてを受け入れていた。
悠遠に広がる虚妄の海を、悠々と泳ぐ者がいた。とてつもなく大きな亀である。一つの大陸、星、幻界。どれと比較することも馬鹿らしい。亀は体躯も懐も大きく、豊かだった。つぶらな目を潤ませ、四つのヒレで混沌の波を優しく撫でながら、彼は幾星霜も海を渡り続けていた。亀にとって、時や自我というのは考えるに足らないことだった。彼には今があればそれでいいのである。
彼の背は変わった形をしていた。甲羅が多重層になっており、一番上の殻が景色の透ける柔らかな皮膜なのである。泡のようなその甲羅の下には、人工物が積み上がっていた。歪に丸い石同士を組み合わせた石垣や、真四角の石を絶妙に組み合わせた壁が段々になり、亀の上から二番目の甲羅を覆っている。石の垣根の隙間には、青々とした丘陵や小さな森、段々畑に稲田があった。ところどころに家屋も見える。彼の背中には集落があるのだった。
パンサラサに最も近いパンゲア幻界群の辺境、隣暮と呼ばれる地域において、彼は冬ノ島と呼ばれていた。この巨大な幻獣の背中こそが、ロスト・ゴンドワナの輪廻転生の要中の要、輪廻路の終着点である死と再生の地なのである。彼の背中に築かれた塚は要塞であり、同時に墳墓でもあった。石垣の上には島の誇る人形職人たちの手掛けた背の高い人型埴輪がずらりと並んでいる。筒に似た平たい輪郭の人形たちは、昼夜のない日々に延々と佇み、島にぼんやりと漂う平穏と神秘を、いささかの底知れなさと共に見守っていた。
この時も、埴輪たちは行儀よく並んで海を眺めていた。海に規則正しく泳ぐものはない。廃惑星、避雷針クラゲ、すべてが己の意図からややずれた形で進んでいる。その中で、遠方より突如現れたその集団は、強固な意志を持って一直線に島へ迫ってきた。
──虚神と虚霊、多数襲来。
人形の暗い眼孔に、火が灯った。
*
ネルソンは永らえの島に戻った。直属の番長であるモリジにこれまでのことを話すと、やれるだけのことをしたとして、研修は終わりでいいと認められた。
「この件は我々の手を入れることのできる範疇を出た。あとは自然の導きに任せよう。一階級昇進、または限度ありだが三つ願いを叶えてやる。何がいい」
返事が思いつかなかった。番長球の散らかりぶりを眺めるふりをして答えあぐねるネルソンに、モリジは言った。
「すぐに思いつかないならば、取っておけ。思いつくのを待っている」
「モリジは、アルニが外で育ったカロンだって知ってたのか」
願いとは別に、聞いてみた。モリジは片眉を上げた。
「知っていた」
「あいつはどうやって永らえの島に来た」
「自分で飛んできたんだ。だが、島の森にたどり着いた時には、名前以外の何もかもを忘れていた。相当遠くから一心不乱に飛んだせいか、何か大きなショックを受けることでもあったのか。どちらにせよ、パンサラサの侵食の影響だと、八ツ手はみんなすぐに察したさ」
あの時のことを、モリジはよく覚えている。
最初に彼を見つけたのは、森を遊び場にするヨーマとセーレだった。モリジは近くで世界樹の枝葉の採取をしていて、その場に出くわした。小さな渡守たちにしげしげと見つめられ、見慣れない少年は途方に暮れていた。着ている薄汚れたタートルネックの襟が首に食いこみ、ズボンは大きすぎて何度も裾を折られていた。
モリジは彼に、何をしに来たのかと尋ねた。アルニは視線をうろつかせ、分からないと答えた。
──でも、何かしないといけないと思ったんです。私は何かを、助けないといけない。
助けないと、と言いながら、その目はすがるようだった。
「ミダは受け入れたいと言った。ワシらも拒絶する理由がなかった。ロスト・ゴンドワナの因果と禍福の法則はワシらの想像を絶する。何かを助けたいと願うならば、渡守としての資質は十分にあると思われた」
「虚神に育てられたとしても?」
「お前はあの子が虚神に育てられたと知って、軽蔑するか」
ネルソンは首を横に振った。
「そうじゃない」
「ならば、なぜそんなことを聞く」
「あいつは苦しんでいた。自分が分からなくて、がむしゃらに渡守の役目を果たすことでしか生きられないでいた」
ネルソン自身、なぜこのようなことをモリジに話しているのか分かっていなかった。しかし、今頃消滅してしまったか、今こうする間に死んでいこうとしているかもしれない渡守のことを考えると、話さずにはいられなかった。
「どうしてあいつに教えてやらなかったんだ」
「教えてどうなる? パンゲア幻界群でも隣暮でも、虚神は恐怖の対象でしかない。さらなる混沌の深淵に触れ、記憶の喪失どころでは済まない可能性もあった」
モリジは遠い目をする。
「アルニは強い。はぐれ者とは言え、ワシらの祖と言える存在に鍛えられたのだ。パンサラサでの虚神との生活という極限の状況も、彼をより強くさせた。だが、あの子の強さは金剛石のようなもの。打ち所が悪ければすべて崩れる危険があった。あの子自身、ワシらとの接触を恐れていた」
自分をめちゃくちゃだと自嘲していた。混沌の海で育ったのだから、めちゃくちゃで当然だ。行動がすべて善性に向かったことが奇跡である。
「プラネテス師族のことは知っているか」
「昔、古い天ツ民から聞いたことがある。ゴンドワナ崩壊を生き延びた、かの師族と同じ時を生きたことのある人々だ。今は誰も彼も輪廻路の上だが、信頼できる人たちだった」
短い手が背後の書棚を探り、横向きに積み重なった本の一冊を手に取る。背表紙には『ゴンドワナの褪せるべき禁術』とある。相当古い。装丁に使われた木材から判断するに手作り、流通など考えられずに作られた絶版ものと見て間違いない。
「そのユーノリアというプラネテスの言うことはおおよそ合っている。だが、彼女は自分の一族と技を、ちと美化しすぎているようだ」
本の見開きがネルソンの方に向く。ゴンドワナ崩壊時に封じられた三大禁術という章の一ページである。
プラネテス師族の遊魂ノ術は、ゴンドワナの民に堕落をもたらした。何を努力せずとも他者に与えられる理想の心身は、民を浅慮かつ軽薄にした。ゴンドワナの秩序と混沌の天秤は、後者の方へ傾いていった。プラネテス師族の長老と名士らは、この状況が大いなるものの崩御、ゴンドワナの崩壊を招いた可能性も捨てきれないと悔い、自らの持つ術を後世に伝えてはならないと、輪廻転生機構の完成を償いとして師族と伝承の断絶を決めた。……
「ワシに話をした天ツ民が言うことによれば、プラネテス師族の父は、一族の年寄りも若者も関係なく、輪廻路に発つことを選ばせたそうだ。説得に説得を重ねて、という話じゃったが、内心納得できていない者もいたんだろう。そのユーノリアという者は若く、一族の置かれた立場や術の現状が分かっていなかったのかもしれん」
モリジは本を閉じた。
「若い頃の失敗や後悔はワシらの糧となる。だが、活かし方を気をつけねばワシらを現実の見えない怨霊にしてしまう。ユーノリアはゴンドワナの亡霊だ。向ける先を失った矛をロスト・ゴンドワナに向け、何も知らない若いカロンの首を絞めている。哀れな存在よ」
永らえの樹木に似た、すべらかで節くれだった手が、本の皮を撫でる。
「冬ノ島に立ち入った者の生と死は、島主のもの。彼女は確実に、ユーノリアに死を与えるだろう……アルニまで引きずりこまなければいいのだが」




