3-7
目を覚ましたアルニは、自分が舟鉢に入って培養液につけられている状況に首を傾げた。おまけに今いる部屋を知らない。小さな一室で、石畳に呉座を敷いてある朴訥とした内装が夏ノ谷の者のように思える。
──夏ノ谷に渡守の拠点はない。
舟鉢はカロン族を癒す導具である。見た目はただの小舟型の浴槽だが、中に傷を負ったカロンが入ると勝手に培養液が満ちて傷を癒しはじめる。当然、こんなものを持つのはカロンしかいない。
アルニは立ち上がった。背中が痛むが、現状把握が優先だ。そばにあった窓からは、予想通り夏ノ谷の景色が見えた。常夏常祭だ。紅台地の中心地であり、もっとも活気のある地域である。
背中の痛みで思い出した。自分は研修のために黄金渓へ行き、正義鬼の巣窟に突入した。囚われた同胞を助け出したものの、最後の最後に背中に一発食らった。洞窟を抜け出し、谷長に巣のことを報告しようと飛び立った。背の傷をまだこのくらいならとごまかしながら飛んでいたが、痛みは次第に強くなり──それからどうしたのだろう。
「気分はどうだ」
部屋の扉が開いて、ぼさぼさ頭が覗いた。意識を失う直前まで行動を共にしていた渡守ネルソンだ。
「ここはどこ」
「どこだろうな」
きっと変な顔をしたのだろう。アルニの表情を見たネルソンはからからと笑った。
「悪い、つまらないごまかし方だった。ここは俺の隠れ家だよ」
「君の? ここは夏ノ谷だろう」
「うん。別荘みたいなものだな。いつも過ごしてる家は春ノ郷にあるんだが、たまには遠出したくなることもあるだろ。そういう時のために、ここに一つ、拠点を持ってるんだ」
「渡守のセーフティーハウスじゃなくて?」
「違う。俺の個人的な部屋」
渡守は多忙である。また、定期的に永らえの島に戻らないと、動力である光の吸収が悪くなり体調を崩しやすくなる。だから外に拠点を持つ渡守は珍しい。
アルニはしげしげと部屋を眺め、はっとした。
「谷長への報告は」
「済ませたよ。安心しな。しばらくは黄金渓への警戒を強めるってさ」
ネルソンは何かを放ってよこした。受け取ってみれば、小袋である。中には乾燥した金色の花が詰まっていた。
「やるよ」
「永らえ花の、砂糖漬け?」
あまり飲食を必要としないカロンに珍しい、種族固有の食べ物である。永らえの島に生える樹木の中には、小さな金色の花をつけるものがある。これを永らえ花と呼び、よく光を蓄えることから、カロンの滋養強壮によいと親しまれていた。島の外の者には非常食と紹介することが多いが、実際の扱いはちょっといいおやつに近い。どのカロンもこれを差し入れとして渡されると喜び、大事にちみちみと食べる。
「寝ている間、あんたをずっと溶液につけていたのに、まだ傷が治りきってない。一般的なカロンなら、とっくに傷が塞がってる頃合いだ」
ネルソンは舟鉢の近くにある座椅子に腰かけた。探るような目をしている。アルニは顔を伏せた。
「迷惑をかけて、悪かった。君が私を介抱してくれたのか」
「あんたは飛んでる途中に落っこちたんだよ。今更春ノ郷に連れて戻るのも面倒だし、あのくらいの外傷ならば舟鉢で十分治るだろうと思ったんだが、素人判断は良くねえな。やっぱ島に連れていった方がよかったかと思ってたところだ」
「君の判断は悪くないよ」
アルニは右袖をまくり上げ、肩を見せる。ネルソンはわずかに瞠目して、自身の右袖もまくり上げた。
ネルソンの肩には蓮華の花弁が一つ、刻まれている。対して、アルニの肩には何もない。
「私は自分の生まれた蓮座が分からないから、傷の治りが悪いんだ」
カロンは永らえの島の秘層にある蓮池から生まれる。生まれて早々に、己の出てきた蓮の花弁を右肩に刻み、祝福を得る。蓮より力を分け与えられ、驚異的な回復力としぶとさを得るのだ。
「自分がどの蓮から生まれたのか、全く思い出せない。気づいたら渡守の仕事を求めて八ツ手の前にいた。八ツ手も、私がどの蓮から生まれたのか知らないって言うんだよ」
「そんなことがありえるのか」
「私の他にこういう渡守はいないみたいだから、普通ならありえないんだろうね」
「それでよく御用聞きを任されたな。生傷の絶えない仕事だろうに」
「私が志願したんだ。御用聞きはいい仕事だよ。傷を負う危険があるからこそ、できることがたくさんある。怪我をしないため、いくらでも腕を磨いていられる」
「真面目すぎるだろ」
アルニは鼻で笑った。
「そうでもないさ。怪我が治るまで、静かに座っているのが苦手なんだ」
「なら、御用聞きなんてやらなければいいのに」
率直な意見を向けられて、声をあげて笑ってしまう。何の善意も悪意ない、己が不思議に思ったことを口にしたという口調が心地よかった。
「そうだね。君の言う通りだ」
「あんたは今、自分がめちゃくちゃなことを言ってる自覚はあるのか」
「めちゃくちゃか。そうなんだろうなあ」と、他人事のように呟く。
「そう。私はめちゃくちゃなんだよ。私には一本気の理屈なんてないんだ」
視線を窓の外へ向ける。常夏常祭の通りを様々な人が行きかっている。朝顔頭の飴売りが飴細工を片手に客を呼びよせ、釣られてきた転生者や松明の手が買い食いをしている。
「たとえば、商売人は人通りの多い時間に店を開け商品を売る。開店前には商品を準備して、開店後は片づけがある。しかしこれは彼が生計を得るための手段であって、本質ではない。売り物は飴でなくたっていい。野菜を売るのでも酒を注ぐのでもいいんだ。そしてどの仕事も、彼でなくともできる」
欠かせないものなどない。多少の不便を伴うことがあっても、大概のものに代替物がある。
「渡守だってそうだ。私がやらなくたって誰かがやる。私は、どうしたらいいか、分からなくて」
アルニは口をつぐんだ。
「私は何を言っているんだろうな。ごめん。忘れてくれ」
久しぶりに負傷し、渡守の棲家という珍しい場所にいる。非日常に飲みこまれ、調子を崩していると自覚する。アルニは目を伏せた。仕事に追われていないと、自分の目をどこに置き、どう口を動かしたらいいかすら分からなくなってしまう。
ネルソンからの返事がない。それでも彼の顔を確かめられずにじっとしていると、やっと声がした。
「あんたも生き物だったんだなあ」
顔を上げた。ネルソンは、いつもの覇気のない眼差しで己を見ていた。
「私が、生き物らしくなかったってこと?」
「今日の仕事ぶりを見ていれば、そう思って当然だろ」
大人しく不浄訪問者に連れて行かれた同僚を、文句の一つも言わず助けだす。
虚神の大群ごと封印されてもおかしくない状況に、迷いなく突入していく。
「普通は、我が身可愛さに躊躇するんじゃないかね」
「君だって迷わずついて来たじゃないか」
「あの状況で断ったら寝覚めが悪いだろ。一人で行けって言われたら俺は行かねえよ。お前が率先して突っこんでいったから、俺も行くかって気になっただけだ」
ネルソンは背もたれに上半身を預け、静かに言った。
「あんたは何が欲しいんだ」
「欲しいものなんて、ない」
「嘘だな。欲しいもののない奴が、駆けつけ係として狂ったように働けるか?」
自分の蓮座か。階級に伴って許される権限か。使命感か。
アルニは考える。しばしば考えてきたことだった。記憶がないこと以前に、自分には他のカロンたちにあるはずの何かが決定的に足りない気がしていた。それは溌溂とした彼らの表情の輝きや、屈託のない態度の眩さに見られる気がする。けれどそれが欲しいかと言われると、そうでもない。眺めて、あれは自分にないと思う。それだけだ。
「君は、何か欲しいものがあるのか」
答えを返す勇気が出ず、質問に逃げる。ネルソンは空を仰いだ。
「うーん。まとまった休みが欲しいな」
「休日か」
「最近、取れてないんだよ。寄生鬼だなんだって忙しくしてたから」
「休んで何をするんだ」
「何もしねえよ。休みなんだから、何かしたら休みにならねえだろ」
「何もしないのに、仕事に来ないのか」
「出たよ。そういうところがあんたの生き物っぽくないところだ。あんたが仕事中毒だろうと俺は別に構わないが、俺にそれを強要するなよ」
「強要はしてない。疑問に思っただけだよ」
ごめんと謝ると、ネルソンは両腕を広げた。
「俺らは輪廻転生を助けている。ロスト・ゴンドワナの運営を影ながら支えているわけだ。そのロスト・ゴンドワナは何でできてる?」
「パンゲア幻界群と隣暮、パンサラサ」
「それと、それを繋ぐ魂の集まりだ」
アルニの回答を、ネルソンは補った。
「転生する魂も、俺たちも生きている。いろんな奴が歩く様子を見るのは楽しいぞ。こうやって外を眺めて、あそこの世界はああで、こっちの奴はこうで、って考えているだけで愉快なような、満たされた気分になる」
「ちなみに、君の春ノ郷の家はどこにあるんだ」
「輪廻路の脇」
──それで、ここに部屋を持っているのか。
せわしない常夏常祭のそばに部屋を持つ理由が、やっと腑に落ちた。
「君は、輪廻路が好きなんだな」
「そうだな。贔屓の種族がいるわけでも親しい奴がいるわけでもないが、見ていて面白いよ」
ネルソンはにやりと笑った。
アルニは呟く。
「君にとって、渡守は天職だな」
「まあ、向いてないとは思わねえよ。でも年中サボり魔扱いだぜ?」
「それでも、私よりよほど職務に誠実だよ」
「他人のためにいくらでも命を賭けられる奴が、何を言ってるんだ」
「私は他人のために尽くしているわけじゃない。私がそうしないといられないから、動いてしまうんだ」
ああ、そうか。
話しているうちに、しっくりときた思いがあった。
「私は、命を賭ける以外に満たされ方が分からないんだ」
どうしてなのだろう。
どうして。
アルニはひとり呟く。ネルソンは上級渡守のぼやけた眸を眺めた。
「一度、春の郷の家にも来てみろよ」
「景色がいいのかい」
「それもあるが、静かだからよく眠れる」
「また昼寝か」
アルニは笑った。
「うん、いいね。それもたまには、いいかもしれない」




