傷
こちらに向かってくるフューイを見て、リャトはギリウスのそばを離れようか迷った。けれど迷っているうちにフューイはすぐそばまできてしまった。自分の判断の悪さを呪いながら、リャトはどうにか笑顔を作った。
「おかえり」
リャトはその作った笑顔が崩れそうになるのを堪えた。ギリウスが発した優しいおかえりにひどく動揺したのだ。自分が聞いていい声だったのかと思うほど、ギリウスの声は優しく甘いものだった。フューイもそれに気づいたのか怪訝そうな顔をした後、戻りました、とだけ短く言った。
「手紙をありがとうございました。おかげで心強かったです」
「そうか」
ギリウスの言葉はそっけなくも聞こえるけれど、声がもつ響きはどこまでも優しく甘い。シューイの無事を心から喜んでいるのだろう。それなのに、自分でその喜びを表現できないのだ。リャトはそう考えてから、フューイとギリウスの表情を見比べた。ギリウスが優しげな表情をしているのに対して、フューイの表情には疲れが滲んでいる。早めに解放してあげた方がいい、とリャトは判断した。
「フューイ様、また後日旅のお話を聞かせてください」
「もちろん」
「今日はお疲れでしょうし、ゆっくりお休みください」
「そうさせてもらいます」
リャトのどもりがなくなったことにも気づいていない。フューイがどれほど疲れているのか想像できた。リャトの言葉にギリウスも頷いてくれて、フューイはそれでは、と二人から離れていった。中央の出入り口を使えばいいのに、とリャトは思ったけれど、フューイの立場は今のところ曖昧だ。
「リャト、フューイは疲れていたな」
「はい、大変お疲れのご様子でしたね」
この旅で得た成果は、ルリアートからリャトとギリウスにも報告されるだろう。二人とも無関係ではないのだから。リャトはフューイのことを考えた。フューイはこれからどういう立場になるのだろう。リャトの兄であるルリアートの呪いが解けて仕舞えば、フューイは用無しになるのだろうか、と考えてからリャトは即座にその考えを否定した。彼女の力を王家が放っておくとは思えない。王族お抱えの侍医になるだろう。しかし、彼女はそれをよしとするだろうか。彼女の性格を考えれば市井に戻りたいと言ってもおかしくはない。リャトはそこまで考えて隣のギリウスを見た。
ギリウスの妻になってくれればいいのに、とリャトは本気で思った。恋愛関係にもなっていないのに気が早いと言われそうだが王族と付き合うと言うことは婚約すると言うことだ。そこまで考えてもおかしくはない。ギリウスもそのつもりだろう。
「妻になってくれればいいですよね」
ポロリとこぼれ落ちた言葉に、リャトは思わず自分の口を押さえた。繊細な問題なのに軽はずみのように口に出してしまったことを悔やんだけれどもう遅い。言葉は一度口に出してしまうと取り返しがつかない。
「…そうだな」
ギリウスが小さくそう答えた。それはギリウスらしくなく、自身なさげな同意だった。
「兄上、やはり明日、フューイ様とお茶をしましょう」
「明日か。疲れてはいないだろうか」
「フューイ様は治癒の魔法が使えますから、明日には回復されているでしょう。たくさんあった方がいいと、指南書にも書いていました」
指南書には接触の機会を増やした方がいいと書いていた。人間は会う回数が多い人間に好意を抱きやすいらしい。ギリウスの恋を応援するとリャトは決めていた。それが王太子である一番上の兄を傷つけることになってもそれはそれで仕方ないと思っていた。
「そうか、それなら誘ってみるか」
ギリウスの声が明るくなってリャトは安心した。一番上の兄は旅の間フューイを独占したのだ。次はギリウスにその機会があってもいいだろう。リャトはそう思って強く頷いた。
部屋に戻って、荷物を片付けるのもそこそこに寝台に倒れ込む。まだやることはたくさんあるのだから眠ってはいけない。荷物もちゃんと片付けなければお母さんになんて言われるか。そう思っているのに瞼は閉じそうになる。自分の部屋は自分の匂いがして落ち着く。いない間も定期的に掃除をしてくれていたのだろう。部屋の中は清潔に保たれていた。
寝返りを打った時、腰にさしていた短剣が体に当たって痛みが出た。痛いな、と思いながら短剣を引き摺り出す。それを握りしめると余計に眠たくなった気がした。ああ、この短剣のおかげで、なんだか安心した旅になった気がする。
眠る時に暗闇を恐れずに済んだのは王太子殿下が貴族の屋敷にしか泊まらないと決めてくれたこともあるけれど、この短剣のおかげでもある。手紙ももらっていたのだから、気にもかけていてくれたのだろう。
そのお礼もギリウス王子に言わないと。そう思うのに瞼が下がってきて、持ち上げようとしても持ち上げられない。そのまま眠りに落ちてしまった。
ノックをしてもなんの反応もないことをルリアートは不思議に思った。どうしたんだ、と思いながらドアのノブを回してみると、鍵はかかっていない。いるのか、と思いながら扉を開くと、寝台に横たわっているフューイが目に入った。
掛け布もせずに寝ていることが心配になって中に入る。決してやましい気持ちはない、と誰にともなく言い訳をした。寝台に近づいて、フューイにかけ布をしようと布を手に取った時、フューイが握りしめているものに気がついた。それは短剣だった。
よく見ようとしてやめる。それを誰が贈ったものなのか予想がついた。ため息をついて布をかける。
この恋で誰かが傷つくのは明白だった。




