境界型の環境変
坂を下り始めて、十分ほど経った頃だった。
技術班の持つ測定器から、反応が消えた。
「睡眠ガス、検出されません」
報告を受け、カヅチが足を止める。
「機器の故障ではないのか?」
「確認します」
技術班の一人が数歩戻ると、測定器はすぐに反応した。再び坂を下れば、表示される数値が一瞬でゼロへ戻る。
境目は、床に走る細い亀裂の辺りだった。
風を遮る壁もなければ、通路の広さが変わったわけでもない。それでも睡眠ガスは、見えない線に阻まれたように、それより先へ入り込んでいなかった。
「境界型の環境変化ですね」
政府の調査員が亀裂の位置を端末へ記録する。
異界では珍しい現象ではない。同じ通路の途中で気温が急変することもあれば、水や煙だけが決まった場所から先へ進まないこともある。
技術班が複数の機器で数値を確かめ、先の空気に別の有害物質が含まれていないことも確認する。
「この先は問題ありません」
「ここで十分休む。装備は外すな」
カヅチの指示で、調査隊は通路の壁際へ寄った。
安全が確認されたとはいえ、未調査区域であることに変わりはない。《炎》のメンバーは交代で前後を警戒し、残る者たちは対策装備の給水口から水分を補給する。
柳が先ほどの運搬箱を点検していると、絢香が隣から覗き込んだ。
「あの魔物、ガスを完全に抜いて、肉に残っていなければ食べられそうね」
箱を抱えていた調査員の腕に、わずかに力が入った。
「貴重な研究試料ですので、食用には回せません」
「分かってるわよ。成分を調べる前に食べたりしないわ」
「調べたあとでも、今回は駄目です」
「今回は、ね」
絢香が頷くと、友丸の頭上にいたこはくも運搬箱を見つめた。
「みゃ」
《食べること自体は否定しなかった》
《さすが絢香さん》
《政府の研究試料を食材候補として見るな》
《こはくまで狙ってるぞ》
「お前も食べられないからな」
「みゃあ」
不満そうな声が返ってきた。
十分後、調査隊は再び隊列を組んだ。
ガスの境界を越えてからも、通路は緩やかに下り続けている。
しばらく進むと、前方から低い音が聞こえ始めた。
「水の音ね」
絢香の言葉どおり、進むほど音は大きくなる。
やがて黒い岩壁が途切れ、視界が一気に開けた。
その先を、巨大な川が横切っていた。
対岸までは五十メートル以上ある。天井も高く、照明を向けても闇の中へ消えてしまい、全体の形までは捉えられない。
川底や岸辺の岩には、青白く光る鉱物が筋状に走っていた。
北田は岸から離れた位置でカメラを構え、川の全景をゆっくりと映像に収めた。
《地下に川があるのか》
《広すぎるだろ》
《向こう岸が遠い》
カヅチが片手を上げたまま、全員を岸の手前で待機させる。
「水質と流れを調べろ。周囲の警戒も続けろ」
技術班が器具を準備していると、川面の一部が盛り上がった。
青黒い背が、水の上へ現れる。
一体ではない。
一メートルほどの生き物が、川の中から次々と顔を出した。魚に似ているが、頭から背中にかけて硬そうな甲殻に覆われ、口元には短い牙が並んでいる。
十数体の群れは襲ってこなかった。岸から距離を取り、調査隊の様子を窺うように水面を回っている。
「初めて見る種類です」
調査員が端末へ特徴を記録していく。
「可能なら、一体を生きたまま確保したいのですが」
カヅチが川と隊列を見比べるより先に、絢香が後ろを振り返った。
「西郷さん。傷つけずに捕まえられる?」
「はい。任せてください」
返事は早かったが、声には出発前と同じ硬さが少しだけ残っていた。
《絢香さんから直接お願いされた》
《返事が早い》
《頑張れ西郷》
西郷は流れるコメントを知ることもなく、岸際へ進んだ。
水中の群れが警戒して距離を広げる。その中で一体だけ、遅れて岸へ背を向けた。
西郷が踏み込む。
水へ潜ろうとした魔物の背へ手を伸ばし、甲殻の隙間をつかむ。
激しく尾を振られても、西郷の体勢は崩れない。
頭と尾を押さえ、調査班が広げた捕獲袋へ滑り込ませた。
一連の動きに無駄はなかった。
「外傷はありません」
「ありがとう、西郷さん」
「いえ。このくらいなら」
絢香に笑顔を向けられた途端、西郷の返事がわずかに遅れた。
近くにいた《炎》の五人は、揃って川の警戒を続けていた。
《捕獲うますぎる》
《さすがSランク》
《絢香さんに笑われた瞬間だけ止まったぞ》
捕らえた魔物は力が強く、袋の中でも激しく暴れている。それを固定したまま、絢香は甲殻や口内、鰭の形を順に確かめた。
北田のカメラが、その手元と絢香の横顔を映す。
「見える範囲に毒針はなし。歯は肉食寄りだけど、甲殻の下はかなり身がありそうね」
「食用にできそうですか?」
調査員に尋ねられ、絢香は袋越しに腹部を軽く押した。
「魔素の残留量と肉の成分次第ね。安全なら、食べられる可能性は高いと思う」
《もう食材として見てる》
《さすが絢香さん》
《味の予想まで聞きたい》
「食べてみないと味までは分からないわよ」
コメントが見えているわけでもないのに、絢香はそう付け加えた。
そのとき、袋の中の魔物が急に動きを止めた。
牙の並んだ口を開閉し、川の上流へ顔を向けようともがく。
水面にいた群れにも、同じ変化が起きていた。
静かだった魚影が一斉に向きを変え、下流の暗がりへ泳ぎ去っていく。
「何かいる」
友丸が川を見た。
一定だった水の流れが弱まり、止まる。
次の瞬間、水面がわずかに逆方向へ動いた。
川底の光が揺れ、上流側の暗がりから白い泡がいくつも浮かび上がる。泡は帯のように広がりながら、こちらへ近づいてきた。
測定器が鋭い警告音を鳴らす。
「睡眠ガスを検知! 水面から放出されています!」
休息の間に緩んでいた空気が、一瞬で張りつめた。
「調査員達は下がれ。全員、戦闘準備」
カヅチの声に、西郷、柳が岸へ並ぶ。調査班と技術班は捕獲した魔物を連れ、後へ下がった。
青白い光の下で、泡の帯が大きく割れた。
水面のすぐ下を、巨大な影が横切っている。
先ほど捕らえた魔物とは比べものにならない。見えている部分だけでも十メートルを超え、さらに後ろへ長い胴が続いていた。
影は上流の闇から、まっすぐ調査隊のいる岸へ近づいてくる。
やがて水面を突き破り、黒い背鰭が姿を現した。
友丸は腰の黒いナイフを抜く。
カヅチの周囲には、赤い炎が灯っていた。




