クランマスターカヅチ
時間は、少し遡る。
西郷が報道番組へ出演する、数時間前。
昼の営業を終えた絢香の食堂に、客として残っているのは二人だけだった。
一人は、カウンター席で茶を飲んでいる友丸。
もう一人は、少し離れた席で遅い昼食を取っている、長い赤髪の女性だ。
友丸が店へ来たときには、彼女はすでに料理を食べ始めていた。数年ぶりに顔を合わせた二人は軽く挨拶を交わし、今はそれぞれ食後の時間を過ごしている。
友丸が湯呑みを置いたところで、厨房にいた絢香が声をかけてきた。
「東京異界深層の二次調査、友丸も来ない?」
「また急だな」
「今度は睡眠ガスへの対策装備を使って、前回は調べきれなかった新エリアの奥まで進むの」
「絢香も参加するのか?」
「うん。見たことのない魔物がいるかもしれないし」
「食べるつもりか?」
「食べられそうならね」
否定する気はないらしい。
「政府の記録班もいるんだろ?」
「もちろん」
「なら、俺が撮る必要はないんじゃないか?」
「撮影要員として誘ってるわけじゃないよ。友丸は前回の経路を知ってるし、何か起きたときにも、いた方が安心だから」
友丸も、東京異界深層で行われた最初の新エリア調査に参加している。
調査隊がどこまで進んだのか。どこで足を止め、睡眠ガスが発生してから、どの経路を使って撤退したのか。そのすべてを実際に見ていた。
もっとも、前回の経路を知っているからといって、安全が保証されるわけではない。
ガスが噴き出す場所や時間に、規則性は見つかっていなかった。前回は何も起きなかった場所から、次は突然噴き出す可能性もある。
しかも、友丸がロサンゼルスから帰国して、まだ数日しか経っていない。
しばらくは危険度の低い区域で散歩をしながら、のんびりこはくと過ごすつもりでいた。
「少し休もうと思ってたんだけどな」
「一か月」
絢香が人差し指を立てる。
「何が?」
「調査に来てくれたら、一か月、うちの店で無料にする」
「行く」
「まだ日程も聞いてないでしょ」
「あとで聞く」
「本当に食べ物には弱いな、お前は」
カウンターの端から、豪快な笑い声が上がった。
声の主は、長い赤髪を背中へ流した大柄な女性だ。その脇には、何人前を食べたのか分からないほど、同じ大きさの皿が積み重なっている。
カヅチ。
世界ランキング二十一位の冒険者であり、西郷も所属するクラン《炎》のマスターだ。
国外の異界で活動することが多く、日本へ戻ってくることは少ない。友丸が最後に会ったのも、数年前の東京異界深層だった。
「カヅチさんにだけは言われたくありませんよ」
「私はこれを食うために、日本へ戻ってきたくらいだからな」
「東京異界の調査で帰ってきたんですよね?」
「それもある」
「今、ついでみたいに言いましたよね?」
「気のせいだ」
カヅチが空になった大皿を差し出す。
絢香は呆れた顔をしながらもそれを受け取り、慣れた手つきで追加の料理を盛りつけた。
新しい大皿が置かれると、カヅチは早速一口食べ、満足そうに頷く。
「しかし、久しぶりに会ってみれば、ずいぶん面白いことをしていたな」
「何のことですか?」
「撮影者だ。やはり、あれはお前だったか」
あまりにも迷いなく言われ、友丸は否定する機会を失った。
「いつから気づいていたんですか?」
「最初の氷竜の映像を見たときから、似ているとは思っていた。立ち方もそうだが、魔物との距離の取り方に見覚えがあったからな」
「さすがですね」
「深層で一度、お前の戦いを近くから見ている。分かる奴には分かる」
配信に映ったわずかな動きから、カヅチは撮影者が友丸だと見抜いていた。それでも本人と直接話す機会がなかったため、これまで口にはしていなかったらしい。
「ほかの人には言わないでください」
「分かっている。お前が隠していることを、私が勝手に広めるつもりはない」
カヅチはあっさり答えると、再び料理へ箸を伸ばした。
「ロサンゼルスの神殿で使った力についても聞かん。切り札をどこまで明かすかは、冒険者自身が決めることだ」
「助かります」
「ただし、今回の現場指揮は私だ。撤退を命じたときは、理由を聞く前に従ってもらう」
「分かりました」
「それならいい」
必要な確認を終えると、カヅチは箸を置いた。
「今回使うガス対策装備には、異界で採れた素材が使われている」
「普通の防護服じゃないんですか?」
「あのガスは、呼吸を止めても防げなかった。口や鼻を塞ぐだけでは意味がないからな」
対策装備は、異界産の繊維を何層にも重ね、その間へ特殊な鉱石を組み込んで作られているという。
頭部から足先まで覆う構造だが、戦闘のさまたげにならないよう薄く仕上げられている。その上から、普段の防具や装備を身につけることも可能だった。
「以前、国外の異界でも似たようなエリアが見つかっている。そこでも地面の亀裂から突然ガスが噴き出し、調査隊が何人も倒れた」
「カヅチさんも、その調査に参加したんですか?」
「ああ。今回の装備は、そのとき使われたものを参考にしている」
同じ種類のガスだと断定されたわけではない。
それでも、呼吸器を覆うだけでは防げないことや、異能力を持つ高ランク冒険者にも作用することなど、共通点は多かった。
「完成した装備の試験には、私も参加した。前回採取したガスを使い、規定時間まで試験室に入ったが、眠気は出なかった」
「クランマスターが自分で試したんですか?」
「ほかの連中に着せる装備だ。まず私が安全を確かめるのは当然だろ」
カヅチは、当然のように言い放った。
「ただし、それはあくまで試験環境での結果だ。深層で発生するガスが、毎回同じ濃度とは限らん」
「噴き出す場所も分からないんですよね?」
「ああ。場所も時間も不規則だ。装備があるから安全だと思うな。想定を超える濃度が検出された場合や、装備を着た者に少しでも眠気が出た場合は、その場で一時撤退する」
「分かりました」
友丸が頷くと、カヅチは今度は装備の確認へ移った。
「お前は、昔私とあった時と同じ黒いスーツ型の遺物と黒いナイフを使うつもりか?」
「そのつもりです」
「ロサンゼルスで使っていた刀は持っていかないのか?」
「今回は使いません」
「それもお前の判断に任せる。ただし、ガス対策装備と遺物を重ねて使えるかどうかは、出発前に技術班の確認を受けろ」
「はい」
ひと通りの話が終わったところで、友丸は以前から気になっていたことを思い出した。
「カヅチさん、今も世界ランキング二十一位なんですか?」
「ああ」
「前に会ったときも、二十一位でしたよね」
「よく覚えていたな」
「順位を上げないんですか?」
カヅチの実力が、世界二十一位に収まるものではないことくらい、友丸にも分かる。
本人が望めば、二十位以内へ入ることも難しくないはずだった。
「二十位以内に入ったら、普通の調査で外国から呼んでもらえなくなるだろ」
カヅチは、さも当然のように答えた。
世界ランキング二十位以内の冒険者は、通常の異界攻略や調査を目的として、他国へ派遣することができない。
例外となるのは、モンスターパレードや異界内での大規模な異変など、一つの国家だけでは対処が難しい事態に限られる。
世界でも指折りの戦力を、通常の未調査区域へ気軽に送り込むことは認められていなかった。
「二十一位なら、他国政府から正式な依頼を受けて、未調査区域へ入れる。私にとっては、この位置が一番都合がいい」
「自分で行けばいいんじゃないですか?」
「政府が管理してる異界に勝手に入れば、あとが面倒だろ。私は異界に潜りたいんであって、各国の役人と揉めたいわけじゃないからな」
「それで二十一位を維持してるんですか?」
「順位を上げるために冒険者をやっているわけじゃないからな」
実にカヅチらしい理由だった。
少しでも世界ランキングを上げようとする冒険者は大勢いる。その中で、より多くの異界へ入るために二十位以内へ上がらない者は、おそらく彼女くらいだろう。
話がまとまると、カヅチは携帯端末を取り出した。
「参加枠は数人分確保してある。あとは政府側へ名前を通せば終わりだ」
「許可は出るんですか?」
「大丈夫だろ」
連絡先は櫻子だった。
「今回も櫻子に任せておく。知らない担当者に細かく調べられるより、その方がいいだろう?」
「はい。ありがとうございます」
櫻子なら、友丸の経歴も装備も把握している。政府側の審査については、櫻子がすべて整えてくれるだろう。
ロサンゼルス異界の調査へ正式に参加させたのも彼女だ。今回も任せておけば問題ない。
「詳しい日程は、許可が下りてから送る。それまでにロサンゼルスの疲れを取っておけ」
「分かりました」
友丸の参加は、その日の夕方までに政府から認められた。
ただ一人。
同じクラン《炎》に所属する西郷だけは、その決定をまだ知らない。




