渡米準備しよう
話がまとまったところで、友丸はこはくを抱き上げた。
「それじゃあ、帰るか」
「みゃ」
「待ちな、友丸」
腰を上げかけた友丸を、はなが呼び止める。
「どうした?」
「このまま帰ったら、屋敷中から文句を言われるよ。みんな、こはくに会えるのを朝から楽しみにしてたんだからね」
「さっきの子供たちだけじゃなかったのか」
「昨夜から話が広まっております」
香菜によれば、母屋で働く者だけでなく、庭師や道場にいた者たちまで、こはくが来るのを待っていたらしい。
結局、友丸は大広間へ移ることになった。
すでに広間には、大勢の使用人たちが集まっていた。途中の廊下で噂をしていた若い女性たちも、何食わぬ顔で後ろに並んでいる。
「本当にみんないるな」
「これでも、仕事を抜けられた者だけです」
「どれだけ広まってるんだよ」
友丸が腕を緩めると、こはくは待っていたように浮かび上がった。
「みゃあ」
大広間に柔らかな声が響く。
こはくは集まった者たちの頭上をゆっくりと飛び、そのまま近くにいた女性の肩へ降りた。
周囲から歓声が上がる。
差し出された手に頭を擦りつけ、別の者の膝へ飛び移る。突然大勢に囲まれても、嫌がる様子はなかった。
屋敷中を回る頃には、すっかり皆に懐いていた。
「俺が来たときとは、ずいぶん反応が違うな」
「日頃の行いではないでしょうか」
「香菜さん、結構ひどいこと言うよな」
「事実を申し上げただけです」
一通り撫でられて満足したのか、こはくは友丸の頭へ戻ってきた。
これ以上付き合っていたら、本当に日が暮れてしまう。
友丸は黒田家の面々に別れを告げ、母屋をあとにした。
正門まで見送りについてきた香菜が、外へ出ようとした友丸を呼び止める。
「友丸様」
「ん?」
「一つだけ、お約束ください」
静かな声だった。
しかし、友丸へ向けられた瞳には、普段とは異なる強い光が宿っている。
「万が一の際は、ためらわないでください」
何を指しているのか、確かめる必要はなかった。
「……分かってる」
「本当に必要になったらな」
「必ず、お帰りください」
「ああ」
友丸が頷くと、香菜はそれ以上何も言わなかった。
◇
その日の夜。
自宅へ戻った友丸がこはくとテレビを見ていると、テーブルの上に置いていた携帯が鳴った。
画面に表示されているのは、櫻子の名前だ。
「もしもし」
『アメリカへ行くんですって?』
「もう聞いたのか」
『私が手続きを進めてるんだから、聞いてるに決まってるでしょ』
燿が友丸を呼ぶと決めた時点で、はなが櫻子へ連絡していたらしい。
『明日、パスポートを取りに行って。場所と時間はあとで送るから』
「明日?」
『出発まで一週間しかないのよ。こはくの手続きも、アメリカ側と調整してるところ』
友丸が隣を見る。
こはくはテレビの前に浮かび、画面を泳ぐ魚へ前足を伸ばしていた。
「飛行機には乗せられそうなのか?」
『その方向で進めてる。普通の動物じゃないから、前例がなくて面倒だけどね』
「頼んだ」
『簡単に言わないでよ』
櫻子が電話の向こうでため息をつく。
『刀や防具も、持っていくなら先に申請して。政府経由で運ぶから』
「分かった」
『撮影者の正体を知る人間は、アメリカ側でも必要最低限に絞ってもらう。ただ、入国や政府施設での本人確認まで猫マスクをかぶるのは駄目だからね』
「それくらいは分かってる」
『本当に?』
「俺を何だと思ってるんだ」
『自覚がないなら、なおさら心配だわ』
必要な説明を聞き終え、櫻子との通話を切る。
続いて、友丸は北田や絢香へ渡米することを伝えた。
絢香は最初こそ土産を要求していたが、新エリアの調査に参加すると知ると、声を真剣なものに変えた。
『友丸。向こうで何かあっても、変な意地を張らないでよ』
「張らないよ」
『本当に危なくなったら――分かってるわね?』
「ああ。香菜さんにも同じことを言われた」
短い沈黙のあと、絢香が小さく息を吐く。
『ならいい。こはくと一緒に、絶対に帰ってきなさい』
「分かってるって」
最後に近藤へ連絡し、渡米前に猫マスクと撮影機材の確認を頼んだ。
◇
翌日、友丸は指定された施設でパスポートを受け取った。
それから出発までの数日を使い、アメリカへ持ち込む装備を整えていく。
武器と防具は冴木に預けた。
整備を終えた頃に作業場を訪れると、刀と白いコートが机の上に並べられていた。
友丸は刀を手に取る。
鞘から抜くと、淡い桃色の刀身が、蛍光灯の光を柔らかく返した。
「問題は?」
「どこにもない。向こうで何を斬るか知らねえが、状態は万全だ」
友丸は刀を鞘へ納め、隣に置かれた白いコートも確かめる。
「こっちも問題ねえ。海外で壊されても、すぐには直してやれないからな。少しは大事に使え」
「そのつもりだよ」
「お前が言うと信用できねえな」
「壊したくて壊してるわけじゃない」
「普通は、そう何度も壊さねえんだよ」
冴木から装備を受け取ったあと、今度は近藤のもとへ向かった。
こちらで確認するのは、猫マスクとカメラ機材だ。
机の上には普段使っている猫マスクに加え、予備のマスクと複数のカメラが並んでいた。
「海外の新エリアでは、壊れてもすぐに代わりを用意できませんからね」
「予備があれば十分だろ」
「その予備まで壊さないでください」
近藤は猫マスクの状態を確かめ、カメラを一台ずつ起動していく。
いずれも問題なく動いた。
「向こうでも配信するんですか?」
「許可が出ればな。駄目なら撮影だけする」
「アメリカ政府の撮影隊も同行するんですよね?」
「ああ」
政府の撮影隊が何を記録するのかは知らない。
友丸には、友丸が撮りたいものがある。
すべての確認を終えた。
これで渡航前に済ませておくことは、ほとんどなくなった。
桃色の刀と白いコート。
猫マスクに、撮影機材。
あとは、こはくを連れて海を渡るだけだった。




