黒田燿とはな
広い玄関の前には、一人の女性が立っていた。
腰まで届く艶やかな黒髪に、切れ長の瞳。黒を基調とした着物を隙なく着こなす立ち姿は、冷たい印象を覚えるほど整っている。
彼女の名は香菜。
この屋敷の主に仕える秘書であり、同時に護衛も務める女性だ。
友丸が石畳を進んでいくと、香菜は静かに一礼した。
「お待ちしておりました、友丸様」
「久しぶり、香菜さん」
「はい。お変わりないようで何よりです」
顔を上げた香菜の視線が、友丸の肩に掛けられたバッグへ向く。
「そちらに、こはく様が?」
「ああ。電車の中で見つかったら面倒だからな」
友丸がバッグを軽く叩くと、中から小さく身じろぎする気配が返ってきた。
香菜の目元が、ほんのわずかに和らぐ。
「皆、朝から楽しみにしておりました」
「皆?」
「すぐにお分かりになります。御案内いたします」
香菜に続いて玄関を上がり、屋敷の奥へ向かう。
黒田家の屋敷は、外から眺める以上に広い。
磨き上げられた廊下が母屋の奥まで真っ直ぐに延び、その両側には庭へ続く障子や、いくつもの部屋へ通じる襖が並んでる。
途中、何人もの使用人とすれ違った、皆友丸に気づくと足を止め丁寧に頭を下げる。
友丸も軽く挨拶を返した。
顔を知っている者も少なくない。
ただ、今日は普段よりも明らかに視線を集めていた。
揃いも揃って、肩から提げられたバッグへ目を向けている。
「ずいぶん見られてるな」
「昨夜から、屋敷中で話題になっておりますので」
「俺が来ることが?」
「こはく様がいらっしゃることが、です」
「だろうな」
分かっていたことなので、傷つきはしない。
さらに奥へ進むと、廊下の角から抑えた話し声が聞こえてきた。
「本当にいらっしゃったの?」
「ええ。さっき玄関を通ったそうよ」
「こはくちゃんも一緒なのでしょう?」
「バッグに入っていたって聞いたわ」
「少しくらい見せてもらえないかしら」
「友丸様も、相変わらずだった?」
角の向こうでは、仕事の手を止めた若い女性たちが集まっていた。
どうやら、こちらが近づいていることに気づいていないらしい。
友丸と香菜が角を曲がる。
その瞬間、女性たちは一斉に口を閉じた。
何事もなかったかのように背筋を伸ばし、綺麗に揃って頭を下げる。
「お、お久しぶりでございます、友丸様」
「久しぶり」
友丸は追及することなく、その前を通り過ぎた。
数歩も進まないうちに、背後から再び囁き声が聞こえてくる。
「見た? あのバッグよ」
「少し動いてなかった?」
「友丸様も全然変わってなかったわね」
「あとでお茶をお持ちする役、代わってもらえないかしら」
香菜は振り返ることなく、静かに息を吐いた。
「朝から、あなたがいらっしゃると聞いて、ずっとあの調子です」
「こはく目当てだろ」
「半分は」
「残り半分は何だよ」
香菜は答えなかった。
無言のまま廊下を進み、しばらくしてから切れ長の瞳だけを友丸へ向ける。
「あの者たちに手を出したら、斬りますよ」
「何もしないよ」
「そう願っております」
冗談なのか本気なのか、相変わらず分かりにくい。
もっとも、香菜なら本当に斬りかかってきても不思議ではなかった。
やがて二人は、廊下の突き当たりにある大きな襖の前まで来た。
そのときだった。
襖の向こうから漂っていた穏やかな気配が、一瞬で変わる。
肌を撫でていた空気が張り詰め、鋭い刃を突きつけられたような圧力が廊下を満たした。
香菜が即座に表情を改める。
友丸は肩のバッグへ目を落とした。
中で丸くなっていたこはくが顔を上げたらしく、バッグがわずかに揺れる。
「気づいたか」
「そのようですね」
友丸は何事もなかったように歩き出したが、香菜の目は襖へ向けられたままだった。
その顔には、呆れに近いものが浮かんでいる。
どうやら、この気配の主に心当たりがあるらしい。
香菜が襖の前で膝をつく。
「お館様、奥様。友丸様をお連れしました」
「入っておいで」
中から女性の声が返ってくる。
香菜が両手で静かに襖を開いた。
途端に、先ほどまでの鋭い気配が嘘のように消える。
広い和室には、男女が一人ずつ座っていた。
一人は、六十を少し過ぎた男だ。
白髪の混じった短い髪に、日に焼けた肌。濃紺の着流しを身につけ、片膝を立てた姿勢で餅をかじっている。
その向かいには、男と同年代ほどの女性が座っていた。
淡い色の着物に、白髪の混じり始めた髪を後ろでまとめている。柔らかな目元には親しみやすい笑みが浮かんでいた。
「久しぶりだな、友丸」
「久しぶり、爺さん」
「来たね、友丸」
「久しぶり、はなさん」
「元気そうじゃないか。まあ、いつまでも突っ立ってないで座りな」
「その前に、燿」
友丸に向けていた笑顔はそのままに、女性の目が隣の男へ向く。
「あんた、今、何をしたんだい?」
「何のことだ?」
「とぼけるんじゃないよ。廊下まで気配を飛ばしていただろう」
「少し試しただけだ」
「友丸が連れてきた子を、勝手に?」
「挨拶みたいなものだ」
「威圧を挨拶とは言わないよ」
男――黒田燿が、わずかに視線を逸らした。
「相変わらずだな、爺さん」
「何がだ」
「会って早々、はなさんに怒られてるところ」
「怒られてなどいない」
「あとでゆっくり話をしようか、燿」
はなの笑みが深くなる。
「……その必要はない」
「あるかどうかは、私が決めるよ」
「爺さん、諦めろ」
「お前はどちらの味方だ」
「強い方」
友丸が答えると、燿は不満そうに口を閉じた。
男の名は黒田燿。
異界が現れた黎明期から四十年近くを生き残り、最盛期には世界ランキング三位まで上り詰めた冒険者だ。
現在はランキングから退き、表立って異界へ入ることも少なくなった。それでも、その名は今なお世界中の冒険者に知れ渡っている。
ただし、本人の性格は、そんな肩書から想像するようなものとは大きく異なる。
好奇心旺盛で、気になったことは自分の目で確かめなければ気が済まない。
珍しい魔物が現れたと聞けば、その日のうちに海外へ飛ぶ。未踏領域の噂を耳にすれば、誰にも告げず異界へ入り、数日後に何食わぬ顔で戻ってくる。
政府から幾度注意されても、本人はどこ吹く風。
筋金入りの破天荒な男だった。
そして、その向かいに座る女性が、妻の黒田はなである。
はなもまた、異界が現れた黎明期を知る冒険者だ。
世界ランキング制度が始まるより前に引退しているため、その名が順位として残ったことはない。
しかし、当時を知る者の中に、彼女をただの元冒険者と侮る者はいなかった。
燿と並んで数々の異界を生き抜いた実力者。
全盛期にはなと燿のどちらが強かったのかと尋ねれば、燿は決まって同じ答えを返す。
――はなだ。
それが冗談ではないことを、古くからの冒険者たちは知っている。
「それで、連れてきたんだろう?」
気を取り直した燿が、友丸へ身を乗り出す。
「何を」
「とぼけるな。俺は朝から待ってたんだぞ」
「俺を?」
「それも少しはある」
「少しかよ」
「朝からうるさかったんだよ」
はなが呆れたように言う。
「玄関へ見に行っては戻ってきて、友丸はまだか、友丸はまだかって。子供でももう少し大人しく待てるよ」
「確認していただけだ」
「使用人を何人も捕まえて聞いて回ることを、確認とは言わないよ」
燿は聞こえなかったふりをして、友丸の肩へ目を向けた。
「こはくとかいったな。早く見せろ」
「急かすなよ。人見知りするかもしれないだろ」
「俺は動物には好かれる」
「自分で言う奴は信用できないな」
「なら、本人に決めてもらえばいい」
ちょうどそのとき、バッグの口が内側からわずかに押し開かれた。
隙間から、琥珀色の小さな顔が覗く。
燿の表情から笑みが消えた。
先ほどまでの子供じみた態度が嘘のように、目が鋭く細められる。
はなも笑みを収め、こはくへ視線を向けた。
二人とも何も言わない。
ただ静かに、バッグから覗く小さな生き物を観察している。
ほんの数秒。
それでも、二人がこはくから何かを感じ取ったことだけは、友丸にも分かった。
「……こいつか」
「ああ」
「なるほどな」
「何か分かったか?」
「いや。何も分からん」
「分からないのかよ」
「だから面白いんだろうが」
はなも興味深そうにこはくを見つめている。
燿は楽しそうに笑うと、立ち上がって友丸の前まで来た。
こはくもバッグから顔を出したまま、燿をじっと見上げている。
互いを観察するような沈黙が続く。
やがて燿は腰をしずめ、ゆっくりと片手を差し出した。
「どうだ。俺の手に乗ってみるか?」
こはくが小さく鼻を動かす。
少し迷うように首を傾げたあと、バッグからふわりと浮かび上がった。
そのまま空中に浮き、差し出された手のひらへ降り立つ。
「みゃ」
「おお……!」
一瞬で燿の顔が輝いた。
「乗った! 見ろ、友丸! 俺の手に乗ったぞ!」
「見てたよ」
「軽いな! それになんだ、この毛は。ものすごく柔らかいぞ!」
燿は手のひらに乗ったこはくを顔の高さまで持ち上げ、感触を確かめるように背中を撫で始める。
こはくは嫌がる様子もなく、長い尻尾をゆっくりと揺らしていた。
「もう一度飛べるか? ほら、少し浮いてみろ」
「みゃあ」
「鳴いた! 今、俺に返事したよな?」
「燿」
はなの声が飛んだ。
「少し落ち着きな。その子が困ってるだろう」
「そう見えるか?」
「少なくとも、あんたよりは落ち着いてるよ」
「それでは、俺がはしゃいでるみたいじゃないか」
「そう言ってるんだよ」
燿が不満そうに口を尖らせる。
はなは小さく息をつくと、こはくへ向かって両手を広げた。
「こはく。そんな騒がしい爺さんは放っておいて、こっちへおいで」
「誰が爺さんだ」
「あんただよ」
こはくは燿とはなを交互に見た。
やがて燿の手のひらからふわりと浮かび上がり、そのまま、はなの膝へ降りる。
「なっ……」
「よしよし。いい子だね」
はなが背中を撫でると、こはくは気持ちよさそうに目を細めた。
「おい、こはく。戻ってこい」
「みゃ」
「今のは嫌だという意味じゃないよな?」
「そう聞こえたけど」
「そんなはずはない。さっき俺の手に乗ったんだぞ」
燿がこはくへ手を伸ばす。
その手首を、はなが横から掴んだ。
「燿」
「……なんだ」
「座ってな」
「だが、こはくが」
「座ってな」
はなが軽く手を引く。
それだけで、燿の身体が有無を言わさず畳へ引き戻された。
元世界三位の冒険者が、抵抗する間もなく座らされる。
「相変わらず強いな、はなさん」
「こいつが聞き分けないからだよ」
「おい。もう少し夫を立てろ」
「立ててほしいなら、まずは大人しく座ってな」
「もう座っている」
「私が座らせたんだろう」
燿は何か言い返そうとして、結局黙り込んだ。
友丸は慣れた様子で和室へ入り、空いている座布団へ腰を下ろす。
香菜も室内へ入ると、友丸の前へ茶を置いた。
はなは膝の上のこはくを撫でながら、燿へ目を向けた。
「それで、燿」
「なんだ?」
「こはくと遊ぶのもいいけど、友丸を呼んだのはあんただろう」
「ああ、そうだった」
「やっぱり忘れてたな」
「忘れてはいない。こはくを優先しただけだ」
「同じことだよ」
はなに一蹴され、燿が不満そうに口を閉じる。
友丸は香菜が置いた茶へ手を伸ばした。
「それで、爺さん。俺に何の用だ?」
「そう急かすな。まずは茶でも飲め」
「さっきまで、こはくを早く見せろって急かしてただろ」
「それとこれとは別だ」
「勝手だな」
燿は残っていた餅を口へ放り込むと、湯呑の茶で流し込んだ。
世界三位まで上り詰め、誰にも止められず世界中を駆け回った破天荒な冒険者。
そんな黒田燿が唯一勝てない相手は、昔から変わっていなかった。




