東京異界への準備をしよう
翌朝。
《ヴァルカ》が貸し切っているホテルは、朝から普段以上に慌ただしかった。
ロビーを横切っていくのは、大型の装備ケースを抱えたクランメンバーたち。地下駐車場では車両への積み込みが始まり、支援班の人間がリストを片手に荷物の数を確認している。
今回、日本へ来たのはアンたち三人だけではない。
攻略班、探索班、支援要員まで含めれば、ホテルを一棟丸ごと必要とするだけの人数が来日していた。その大半が、明日から始まる東京異界の大規模調査に参加する予定だ。
「こっちは予定通りですか?」
ロウが、ロビーで端末を確認していたクランメンバーへ声をかける。
「問題ありません。各班の責任者には昨日のうちに予定を伝えています。今日中に日本側との顔合わせと、装備の最終確認まで済ませます」
「分かりました。変更があれば連絡を」
「了解です」
短く指示を残し、ロウは先を歩く二人を追った。
これだけの人数を国外へ動かせば、当然ながら準備も大がかりになる。
もっとも、クランマスターであるアンは細かな実務を各班へ任せているし、ケンに至っては最初から関わる気がない。
結局、こういう時に忙しくなるのは副マスターだった。
「ロウ、遅いよ」
「誰のせいだと思っているんですか」
「知らない」
「でしょうね」
アンは悪びれもせずホテルの出口へ向かう。
その横を歩くケンも、当然のように他人事だった。
明日から二週間。
《ヴァルカ》にとっても大規模な仕事が始まる。
三人がこれから向かうのは、そのための日本政府との最終会議だった。
◇
政府施設へ到着したのは、それから一時間ほど後だった。
案内された会議室には、すでに十人ほどが集まっている。
政府の異界担当者に研究部門の職員。
その中に、明らかに役人ではない男が二人混じっていた。
片方の顔を見た途端、アンが軽く手を上げる。
「心。久しぶり」
「久しぶりだな、アン」
四十代の男も気さくに手を上げた。
日本人Sランク冒険者、心。
一つの異界を拠点にするより、日本各地を渡り歩いていることの多い男だ。世界ランキングにも名を連ねており、アンやケンとは過去に何度か顔を合わせている。
「北海道から戻ったのか」
ケンも珍しく自分から声をかけた。
「ああ。一昨日な」
「結局、一週間いたんだっけ?」
「それくらいだ」
先日、北海道異界で発生したモンスターパレード。
心が現地へ向かったのは、その終結後だった。
大規模な異変が起きた直後だけに、続けて何かが起こる可能性も否定できない。万が一に備え、すぐに動けるSランクが残っていた方がいい。
そう判断して北海道異界に入り、そのまま一週間ほど滞在していたらしい。
「結局、何も起きなかったけどな」
「無駄足じゃねえか」
「何も起きなかったなら、それが一番だろ」
心は笑っている。
ケンも否定はしなかった。
そこでロウが一歩前へ出る。
「初めまして。《ヴァルカ》副マスターのロウです」
「心だ。よろしく」
差し出された手を握る。
世界四十二位。
数字だけを見れば間違いなく世界有数の冒険者だが、本人から威圧的な雰囲気はほとんど感じない。
ずいぶん気さくな人物らしい。
続いて、その隣にいた若い男が立ち上がった。
「来道です。関西を中心に活動してます」
こちらも日本人Sランク。
心よりかなり若く、鍛えられた身体に鋭い目つき。黙っていれば精悍な青年だが、気の強さまでは隠せていない。
「アン。よろしく」
「ロウです」
「ケン」
三人と順番に挨拶を交わす。
喧嘩っ早い男だとは事前に聞いていたが、今のところ態度はいたってまともだった。
同じSランクだからこそ、目の前の相手がどれほどの実力者か分からないはずもない。心には素直に敬意を払い、アンやケンを見る目にも同じものがある。
「では、皆さんお揃いですので始めましょう」
政府側の責任者に促され、それぞれ席についた。
正面の大型モニターに、東京異界の広域地図が映し出される。
「明日より実施する東京異界大規模調査について、最終確認を行います。期間は予定通り二週間です」
今回投入される人数は多い。
政府の調査職員や研究者。それを護衛する日本側の冒険者。さらに《ヴァルカ》からも攻略班、探索班、支援要員が参加する。
もちろん、それだけの人数が一団となって動くわけではない。
「調査区域ごとに班を分けます。既知の区域についても植物、鉱物、水質、土壌などを採取し、過去の調査結果との比較を行います。未調査の洞窟や地形については、探索班を中心に調査してください」
説明に合わせ、地図がいくつもの区画に分けられていく。
それぞれの区域へ、日本側と《ヴァルカ》の混成班が入る予定だ。
東京異界は広い。
二週間という期間を設けても、そのすべてを調べられるわけではない。
「そして、今回もっとも調査を進めたいのが――こちらです」
担当者が端末を操作した。
モニターに映る地図が、一気に奥へ移動する。
深層。
そこまでは詳細に描かれていた地形が、奥へ進むにつれて急速に情報を失っていった。
記録された道が消える。
地形そのものが曖昧になる。
そして最後には、画面の大部分を巨大な空白が占めた。
アンがわずかに身を乗り出した。
「ここ?」
「はい。東京異界深層の未踏領域です」
「結構残ってるね」
「到達例はあります。ただし、その多くが断片的な記録に留まっています。地形、生態系、資源、魔物の生息状況――いずれも詳細はほとんど分かっていません」
そこへ向かうのは、今回の調査隊でも一部の人間だけだった。
《ヴァルカ》から選抜された深層攻略経験者。それに日本側の高ランク冒険者が加わる。
安全を確保した区域までは専門職員も同行するが、その先は冒険者が先行する。
踏査して地形を記録する。
未知の植物や鉱物を発見すれば採取する。
魔物を確認すれば可能な範囲で生態を調べ、遺跡などが見つかれば位置を記録する。
何があるのか分からない。
だからこそ、調べる価値がある。
「一ついいか?」
それまで黙って資料を眺めていたケンが顔を上げた。
「はい」
「そこまで未踏領域を調べたいなら、もっと上のランカーを入れた方がいいんじゃないか?」
政府担当者の動きが止まった。
心は世界四十二位。
十分すぎるほどの上位ランカーではある。
それでも、日本にはさらに上がいる。
未知の領域へ踏み込む以上、単純な戦力だけを考えるなら、彼らにも声をかけた方が安全なのは間違いない。
「俺も気になってました」
来道も口を挟む。
「今回は深層の未踏領域まで行くんですよね。だったら――」
「……来道さん」
政府担当者が静かに遮った。
「はい?」
担当者は何かを言おうとして――やめた。
隣に座る職員と視線を交わす。
もう一度口を開き、今度こそ言った。
「理由は、お分かりになると思いますが」
一拍。
「……あの方々ですよ?」
沈黙が落ちた。
来道が口を閉じる。
心は一瞬で察したらしく、苦笑した。
「ああ……」
アンも納得したように頷く。
「あー……」
ケンまで何とも言えない顔になった。
政府側の職員たちも、誰一人として反論しない。
ロウだけが会議室を見回した。
「……それで通じるんですか?」
「通じるんだよ」
心が苦笑したまま答える。
世界ランキングのさらに上位。
そこまで行けば、強さを疑う者などいない。
問題は、強さ以外の部分だった。
「今回の調査では、複数の班と連携し、日本政府と《ヴァルカ》で策定した計画に沿って行動していただく必要があります」
担当者が慎重に説明する。
「もちろん、皆様の実力と功績には最大限の敬意を払っております。ただ……」
「集団行動に向いてない?」
アンが聞いた。
担当者は答えなかった。
否定もしなかった。
「分かった。もういい」
ケンが片手を上げる。
「聞いた俺が悪かった」
「いえ、そこまでは申し上げておりません」
「だったらこっち見ろ」
担当者の視線は、いつの間にかモニターへ逃げていた。
来道もようやく事情を察したらしい。
小さく息を吐いてから、別の疑問を口にする。
「じゃあ、海外から呼ぶのは?」
「そちらは制度上難しいですね」
今度は即答だった。
「世界ランキング二十位以内の冒険者については、通常の異界攻略や調査を目的として、他国政府へ派遣を求めることはできません」
「絶対に?」
「通常の調査であれば、です」
担当者は頷く。
「モンスターパレードや異界内での大規模な異変など、国家単独での対処が困難な事態であれば別です。その場合は国を越えて正式に応援を要請できます」
「なるほどな」
来道が納得する。
世界でも指折りの冒険者を、通常の探索のために外国政府が気軽に借りられるわけではない。
それなら話は分かる。
ところがアンが、そこで首を傾げた。
「でもさ」
「はい」
「本人が勝手に来たら?」
「…………」
本日二度目の沈黙だった。
担当者の隣に座る職員が、そっと目を伏せる。
心が堪えきれずに笑った。
「この前いたな」
「ああ」
ケンもすぐに思い当たったらしい。
「ユリアか」
世界ランキング十位、ユリア。
彼女が日本へ来たこと自体は、日本政府から依頼された仕事のためだった。
ただし、仕事が始まるまでには休暇があった。
その間に何をするかまで、政府が決められるはずもない。
「ユリア様につきましては、休暇中に個人の判断で東京異界、千葉異界へ入られただけです」
担当者の声に、わずかな疲れが混じる。
「正式な冒険者資格を所持し、国内法にも施設規則にも違反しておりません。政府として制止する理由はありませんでした」
「理由があったら止められたのか?」
ケンが聞いた。
担当者が黙った。
「あー……」
最初に声を漏らしたのは心だった。
「あー……」
アンも続いた。
「ああ……」
来道まで納得したように頷く。
政府側の職員たちは誰も何も言わない。
ロウは一人ずつ顔を見てから、静かに尋ねた。
「……皆さん、同じことを考えていませんか?」
「気のせいだよ」
アンが即答した。
「では、次の説明へ移らせていただきます」
担当者は素早く端末を操作した。
明らかに逃げた。
ロウも追及しなかった。
世界ランキングの最上位。
モンスターパレードや大規模な異変が起きれば、国境を越えて助力を求められるほどの存在。
その一方で、本人が自由時間に何をするかとなれば、政府であろうと簡単には口を出せないらしい。
強さというものも、度を越すとなかなか扱いが難しいようだった。
再びモニターへ視線を戻す。
東京異界の地図には、巨大な空白が残されている。
二週間。
多数の調査班が各地へ散り、《ヴァルカ》の仲間たちもそれぞれの仕事を始める。
そしてアンたちは、そのさらに奥へ踏み込むことになる。
「何かあるかな」
アンが楽しそうに呟いた。
「何もない可能性もありますよ」
ロウが返す。
するとアンは、不思議そうにこちらを見た。
「だから調べるんでしょ?」
「……そうですね」
反論の余地はなかった。
異界が世界に現れて、まだ四十年。
世界中の冒険者が潜り続けてきた。
それでも、人類が知っている場所などほんの一部に過ぎない。
東京異界だけを見ても、地図には今なお巨大な空白が残されている。
明日。
その空白へ、《ヴァルカ》が踏み込む。




