日本の高ランク冒険者事情
夕食を終えたあと、友丸は湖へ釣り糸を垂らしていた。
焚き火がぱちぱちと音を立て、その隣では、こはくが水面を覗き込んでいる。
浮きが揺れるたびに琥珀色の瞳が動き、小さな前足がそわそわと持ち上がった。
「手ぇ出すなよ」
『みゃ』
「昼間みたいに飛び込んだら、魚逃げるからな」
『みゃあ』
返事だけはいい。
こはくは人の言葉を理解している。
どこまで細かく分かっているのかは友丸にも分からないが、簡単な指示ならまず間違えない。
それでも魚が気になるらしく、視線だけは水面から離れなかった。
「見るだけだからな」
『みゃ』
友丸は苦笑し、焚き火へ薪を一本放り込んだ。
夕暮れはすでに終わりかけている。
山の向こうへ太陽が沈み、湖を囲む森も徐々に暗さを増していた。風が水面を渡るたび、昼間より冷えた空気が頬を撫でていく。
北海道異界の夜は思ったより冷える。
上着でも出すか。
そんなことを考えた時だった。
「……ん?」
友丸が森へ顔を向ける。
まだ何も見えない。
足音も聞こえてこない。
だが、木々の向こうから複数の気配が近づいていた。
一つ、二つ――五人。
魔物ではない。
歩く速さも普通で、こちらへ敵意を向けている様子もなかった。
昼間、数キロ離れた湖畔にテントを張っていた冒険者たちだろう。
ほぼ同時に、隣にいたこはくの耳がぴくりと動いた。
『みゃ』
小さな顔が森へ向く。
「気づいたか」
『みゃ』
「人が来る。こはく、テント入ってろ」
言われた途端、こはくは素直に浮かび上がった。
そのまま友丸の背後へ飛んでいき、開けてあったテントの入口からするりと中へ潜り込む。
先日、世界中へ姿を晒したばかりである。
あれだけ騒ぎになった生き物を人前で飛ばしていれば、余計な騒ぎを招くのは目に見えていた。
だから人が来たら隠れること。
北海道へ来てから、こはくにはそう言い聞かせてある。
「俺が呼ぶまで出てくんなよ」
『みゃあ』
テントの奥から返事が届いた。
それから少しして、森の中から話し声が聞こえてきた。
やがて木々の間から五人の男女が姿を現す。
全員が冒険者らしい装備を身につけているが、手にしているのは武器だけではない。釣り竿に道具箱、小さなクーラーボックスまで持っている。
どうやら目的は友丸ではなく、湖らしい。
先頭を歩いていた四十代ほどの男が友丸に気づき、足を止めた。
「こんばんは」
「こんばんは」
友丸も釣り竿を持ったまま軽く頭を下げる。
男は湖へ向けていた視線を友丸へ戻した。
「見ない顔だな」
「東京から来ました」
「ああ、旅行か」
「まあ、そんなところです」
「なるほどな」
男は納得したように頷く。
彼らは北海道異界を普段から利用している冒険者なら、よく見かける顔くらいは自然と覚えるのだろう。
男は気さくに片手を上げた。
「伊藤だ。北海道異界を中心に活動してる」
「坂田です」
後ろの四人も続いて軽く名乗った。
友丸も一人ずつ挨拶を返す。
そこで改めて伊藤の顔を見た。
「……あれ?」
「どうした?」
「どっかで見た顔ですね」
伊藤が何か言うより早く、後ろにいた若い冒険者が目を丸くした。
「北海道支部所属のSランク、伊藤さんですよ」
「ああ」
言われて、ようやく思い出した。
「テレビで見たことあります」
「そこからかよ」
伊藤が苦笑する。
後ろの四人からも笑いが漏れた。
現在、日本政府が正式に認定しているSランク冒険者は十五人。
もっとも、その全員が東京に集まっているわけではない。
日本には東京、千葉、北海道、瀬戸内海という四つの大型異界が存在し、それぞれを主な活動拠点とする冒険者がいる。
伊藤のように一つの異界を中心に長く活動する者もいれば、政府や企業からの依頼を受けて国内各地を渡り歩く者もいる。
中には日本にいる時間の方が短く、世界中の異界を飛び回っているSランクさえいた。
伊藤は前者だった。
北海道支部に所属し、北海道異界を主戦場としている。
この異界へ通う冒険者なら、まず知らない者はいない。
友丸も名前くらいは聞いたことがあったし、テレビで顔も見ている。
ただ、それだけだった。
「この辺で釣るんですか?」
「ああ。この湖の魚は結構うまいぞ」
伊藤が手にした釣り竿を軽く持ち上げる。
「兄ちゃんも釣ってるみたいだし、邪魔にならないところでやらせてもらうよ」
「どうぞ。俺の湖じゃないんで」
「ははっ、そりゃそうだ」
伊藤たちは湖岸を歩き、友丸のテントから少し離れた場所へ向かっていく。
途中で伊藤が一度だけ振り返った。
「せっかく北海道まで来たんだ。楽しんでってくれよ」
「はい。ありがとうございます」
友丸も軽く手を上げ返した。
それだけだった。
日本に十五人しかいないSランク冒険者との初対面にしては、ずいぶんあっさりしたものである。
もっとも、友丸にとっては旅行先でたまたま会った冒険者でしかない。
五人が湖岸を歩いていくのを見送り、友丸は再び釣り竿へ視線を戻した。
しばらくして、背後のテントから小さな声がする。
『みゃあ』
「まだ駄目。近くで釣りしてるから」
『みゃ……』
露骨に不満そうな声へ変わった。
「我慢しろ」
今度は返事がない。
友丸は小さく笑い、静かな湖へ釣り糸を垂らした。




