その日暮らしの男
「友丸! いるんだろ! 起きな!」
朝から容赦なく響いた声に、坂田友丸はゆっくりと目を開けた。
もっとも、視界に入ったのは薄暗い天井ではなく、目元まで伸びた自分の前髪だった。
続いて、玄関の扉がドンドンと叩かれる。
「いつまで寝てるんだい! 家賃!」
「……ああ」
そこでようやく、何の用事なのかを思い出した。
友丸は布団の中から這い出ると、床に落ちていたシャツを拾って頭から被った。
六畳一間の室内には、必要最低限の家具しかない。小さな冷蔵庫とテーブル、壁際の棚。それから、隅に無造作に置かれた異界用のバッグ。
東京の下町にある、築年数だけなら友丸より遥かに先輩の木造アパート。
その二階の端が、三十を過ぎた友丸の住まいだった。
寝癖なのか普段からなのか分からないボサボサの髪を掻きながら玄関を開けると、予想通りの人物が立っていた。
このアパートの大家である。
「おはようございます」
「もう昼前だよ。それより家賃」
挨拶を一刀両断され、友丸は僅かに考える。
「明日入れます」
「昨日もそう言ってたね」
「昨日の時点では、その予定だったんですよ」
「じゃあ払いな」
「金がないんです」
「なんでそんな堂々としてるんだい!」
大家の声が廊下へ響き渡った。
どこかの部屋で窓が閉まる音がした。
友丸は申し訳なさそうに頭を下げる。
坂田友丸、三十過ぎ。
職業は冒険者。
とはいえ、世間一般が想像するような華やかな冒険者とは程遠い。
大手企業との専属契約はない。
有名パーティーにも所属していない。
異界配信などしたこともない。
金がなくなれば異界へ潜り、適当な魔物を狩るか素材を採る。それを売ってしばらく暮らし、なくなればまた異界へ行く。
長いこと、そんな生活を続けていた。
「とにかく明日。明日は大丈夫です」
「本当だろうね?」
「たぶん」
「そこは言い切りな!」
「大丈夫です」
言い直すと、大家は疑わしそうに友丸を見上げた。
「三十過ぎてるんだから、いい加減もう少しちゃんとしな。あんた、腕は悪くないんだろ?」
「まあ、それなりには」
「だったら仕事を選ばず働きな」
「善処します」
「その返事も聞き飽きたよ」
大家は呆れたように息を吐き、そのまま階段を下りていった。
友丸はその背中を見送り、部屋へ戻る。
財布を開いた。
千円札が一枚。
あとは小銭が少々。
どう角度を変えて見ても増えそうにはない。
「……行くか」
財布を閉じる。
家賃がないなら、稼げばいい。
その程度の感覚だった。
四十年前、世界各地に異界が出現した。
日本も例外ではなく、国内には四つの異界が存在している。
いずれも大規模異界。
四十年近く探索が続けられているにもかかわらず、そのすべてがいまだ完全踏破には至っていない。
そして、その一つが東京湾にあった。
東京異界。
日本最大規模の異界であり、国内有数の資源供給地でもある。
友丸の住む下町からなら、電車を乗り継いで気軽に行ける距離だった。
昼を少し回った頃。
友丸は東京異界の入口施設へ到着した。
巨大な建物だった。
東京湾岸に建設されたその施設は、遠くから見れば巨大な国際空港にも見える。
四十年前には異界の入口を軍が封鎖していただけだった場所も、現在では一つの都市と言っていいほど発展していた。
広大な吹き抜け。
上層階まで続く店舗。
大型モニターには異界内部の魔素濃度や各区域の警戒情報が表示され、その下を大勢の人間が行き交っている。
冒険者。
企業職員。
研究者。
運搬業者。
観光客。
これから異界へ向かう者もいれば、大量の素材を積んだカートを押して戻ってくる者もいる。
ホテル、飲食店、武器屋、防具店、道具屋、素材買取所。
異界専門の診療所まで揃っていた。
もはや入口を管理するための施設ではない。
一つの街が、巨大な建物の中へ収まっている。
その中を友丸は、周囲とは少々浮いた格好で歩いていた。
くたびれたズボン。
適当なシャツ。
その上から羽織っているのは、十年ほど前に買ったジャケット。
周囲には身体に合わせて調整された最新式の防護服を着た冒険者も多く、どう見ても友丸の装備は古い。
本人はまったく気にしていなかった。
装備店の前も素通りし、そのまま異界へ続くゲートへ向かう。
何列も並んだ自動改札。
財布から冒険者カードを取り出し、読み取り部分へかざした。
ピッ、と軽い電子音。
ゲートが開く。
その向こうで、世界が変わった。
人工照明に照らされた近代的な施設から、一歩先には広大な草原が広がっている。
さらに遠くには巨大な森林。
その向こうには、霞むほど遠くまで山々が連なっていた。
空は青い。
だが、地球ではない。
四十年間、人類が探索を続けても全貌すら掴めていない別世界。
友丸はそんな場所へ、近所のコンビニにでも向かうような足取りで入っていった。
今日の目的は二つ。
家賃。
それから――茸。
「まだ生えてるかな」
以前、深い区域で採った茸を大家へ分けたことがある。
白い傘に青い斑点が入った、見た目は少々毒々しい茸だったが、焼いて食べると妙に美味い。
大家が気に入り、また見つけたら採ってきてくれと頼まれていた。
どうせ異界へ来るのだ。
ついでに採って帰ればいい。
まずは家賃からだった。
入口から五キロほど進む。
この辺りは何十年も前から探索されている区域で、主要な道は整備され、案内板まで設置されていた。
人の姿も多い。
友丸は途中で整備された道を外れ、木々の間へ入った。
十分ほど歩いたところで、正面の茂みが揺れた。
低い唸り声。
黒い獣が姿を現す。
大型犬より二回りほど大きな四足の魔物だった。背中から前脚にかけて硬い外皮に覆われ、口から伸びた牙は人間の指ほどもある。
友丸を見るなり身体を低くした。
「お」
ちょうどいい。
素材を売れば家賃には十分だろう。
友丸は腰へ手を伸ばした。
そこにあるのは、使い込まれた一本の小太刀。
魔物が地面を蹴った。
土が弾け、黒い巨体が友丸へ迫る。
友丸が小太刀を抜く。
それだけだった。
次の瞬間。
友丸の横を通り過ぎた魔物の身体が、数歩進んだところで崩れ落ちた。
少し遅れて、その首が地面へ転がる。
「これでいいか」
小太刀についた血を振り払い、鞘へ戻した。
何かを成し遂げたという顔ではない。
実際、友丸にとっては朝起きて顔を洗うのと大差ない。
必要な素材と討伐証明になる部位を手早く回収し、バッグへ放り込む。
後二、三体殺れば家賃が出来る。
数十分後。
これで家賃はできた。
残る用事は茸だけ。
友丸はそのまま異界の奥へ向かった。
整備された道が消える。
人影もなくなる。
周囲の植物が少しずつ姿を変えていく。
やがて携帯端末を持っていれば警告が表示され始めるほど、空気中の魔素が濃くなっていった。
さらに奥へ。
森は深くなり、木々は巨大になる。
入口付近ではまず見ない魔物の痕跡も増えていく。
普通の冒険者なら装備を整え、魔素濃度を確認し、必要に応じて酸素ボンベを装着する区域。
友丸は何もしなかった。
十年前に買ったジャケット姿のまま、慣れた足取りで森を進む。
やがて一本の倒木を見つけると、その陰へ回り込んだ。
「あった」
白い傘。
青い斑点。
目当ての茸が、湿った土の上にいくつも生えていた。
友丸はしゃがみ込み、状態のいいものだけを選んで摘んでいく。
十個ほど採ったところで袋を覗いた。
「こんなもんでいいだろ」
多すぎても食べ切れない。
袋をジャケットへしまい、立ち上がる。
用事は済んだ。
あとは帰るだけだった。
来た道を戻り始めて、しばらくした頃。
友丸の足が止まった。
「……ん?」
森の中。
人が倒れている。
近づいてみれば一人ではない。
四人。
男女が折り重なるように倒れていた。
友丸は足早に近づき、一人の首元へ指を当てる。
脈はある。
他の三人も確認する。
全員、生きていた。
「魔力酔いか」
外傷らしい外傷はない。
だが呼吸は浅く、意識もほとんどない。
友丸は四人の装備へ目を向けた。
軽装。
高濃度魔素区域へ来る人間の格好ではない。
酸素ボンベもない。
そもそも、この四人が自力でここまで来たとは考えにくかった。
友丸は周囲へ視線を巡らせる。
地面には争った痕跡がない。
魔物に追われて逃げ込んだ様子でもない。
代わりに、空気の中へ僅かに残る不自然な魔力の揺らぎがあった。
「ああ……飛ばされたのか」
転移系のトラップ。
異界ではごく稀に発見される。
知らずに踏んで、どこか別の場所へ飛ばされたのだろう。
それで深層へ放り出された。
運が悪いにもほどがある。
「……仕方ないな」
放置すれば死ぬ。
友丸は茸の袋が潰れないようジャケットの内側へ押し込むと、四人を担ぎ上げた。
一人ならともかく四人。
普通なら運ぶ方法を考えるところだった。
友丸は少し位置を調整しただけだった。
「急ぐか」
次の瞬間。
友丸の姿が森から消えた。
木々が猛烈な勢いで後方へ流れていく。
足場など関係ない。
木の根を越え、岩場を抜け、斜面を駆け下りる。
四人を抱えているにもかかわらず、その速度はほとんど落ちない。
ただ速いだけではなかった。
担いでいる四人へ余計な衝撃を与えないよう身体を支え、最短距離で魔素の薄い区域へ向かっている。
途中、何度か魔物の気配が近づいた。
友丸は進路を僅かに変えただけで、そのまま走り抜けた。
やがて空気が軽くなる。
普通の人間の活動圏が近い。
さらに進んだところで、友丸は速度を落とした。
遠くから複数の声が聞こえる。
人が多い。
普段の入口付近とは明らかに様子が違った。
装備を整えた集団。
慌ただしく動く政府職員。
「救助隊か」
友丸は担いでいる四人を見た。
おそらく、この四人を捜している。
なら、もう大丈夫だろう。
そのまま連れていけば話は早い。
一瞬そう考えたが――やめた。
事情を聞かれる。
どこで発見したのか。
なぜ自分がそこにいたのか。
どうやって四人を運んできたのか。
場合によっては報告書まで書かされる。
「……面倒だな」
友丸にとっては、それで十分な理由だった。
救助隊が確実に発見できる場所まで近づき、四人を静かに下ろす。
改めて呼吸を確認した。
この辺りなら魔素濃度も低い。
すぐ近くに人もいる。
問題ない。
「よし」
友丸は立ち上がった。
そのまま救助隊とは反対方向へ歩き出す。
自分が運んできた四人が、企業のPR配信中に突然姿を消し、ネット上で騒ぎになっている人間だとは知らない。
ましてや。
四人のうち一人が持っていたカメラが、壊れながらも途中まで動いていたことなど――知るはずもなかった。
翌朝。
「友丸!」
昨日とまったく同じ声で、坂田友丸は目を覚ました。
「……ん」
「家賃!」
「あ」
思い出した。
友丸は布団から起き上がり、玄関へ向かった。
扉を開ける。
腕を組んだ大家が立っている。
「昨日言ったね?」
「はい」
「今日こそ払うって」
「言いました」
「じゃあ家賃」
友丸は黙った。
大家の眉が動く。
「……まさか」
「昨日」
「うん」
「換金するの忘れました」
「この馬鹿!」
朝から怒鳴り声が響いた。
友丸は頭を掻いた。
昨日、入口付近が騒がしかったため、そのまま別の出口から帰ってしまったのだ。
バッグの中には家賃どころか、しばらく暮らせるだけの素材が入っている。
しかし現金は昨日と変わらない。
「何しに異界へ行ったんだい!」
「家賃を稼ぎに」
「だったら売ってきな!」
「忘れたんですよ」
「それを怒ってるんだよ!」
もっともだった。
友丸はしばらく考え、ふと思い出す。
「そうだ」
ジャケットを探り、小さな袋を取り出した。
「これ」
「なんだい?」
「茸」
大家が怪訝そうな顔で袋を開く。
中を見た途端、その動きが止まった。
白い傘に青い斑点。
以前、友丸が分けた茸だった。
「……あんた、これ」
「好きだったでしょう」
大家は友丸を見る。
もう一度、茸を見る。
そして深々とため息をついた。
「だからって、家賃の代わりにはならないよ」
「ですよね」
「これはもらうけどね」
「どうぞ」
袋はしっかり抱えていた。
「明日」
大家が指を一本立てる。
「はい」
「明日は絶対に払いな」
「分かりました」
「本当だろうね?」
「今日は換金します」
呆れたように言い残し、大家は階段を下りていった。
友丸はその背中を見送り、玄関を閉める。
そのまま部屋へ戻り、布団へ倒れ込んだ。
昨日助けた四人のことは、もうほとんど頭に残っていない。
スマートフォンを確認する習慣もなければ、朝からニュースを見ることもない。
だから友丸は知らなかった。
その頃。
昨夜の企業PR配信から切り抜かれた一本の動画が、ネット上で急速に再生数を伸ばしていたことを。
壊れかけた映像。
画面の端に僅かに映る、着古したジャケット。
顔は見えない。
名前も分からない。
ただ一つ。
高濃度魔素区域で倒れた四人を何者かが拾い上げ、その直後――森の景色があり得ない速度で流れていく。
動画につけられた短いタイトルは、
『昨日の異界事故、四人を運んだこいつ誰?』
友丸がそれを知るのは、もう少し先の話だった。




