ただいま、こはくだよ〜
スイスを発つ朝、友丸は客間で旅行鞄を閉じた。
こはくはマルリアに作ってもらったワンピースを着て、鏡の前に立っている。裾をつまんで一度回り、今度は横を向いた。
「こはく。そろそろ出るぞ」
「分かってるよ」
返事をしながら、もう一度鏡を見る。
部屋を訪ねてきたマルリアに、友丸は頼んだ。
「はなさんに連絡してもらえますか。日本に着いたら空港から黒田家へ直接行くことと、櫻子と絢香を呼んでおいてほしいことだけ、伝えてください」
「ええ。詳しい話は、あなたからするのね」
「はい」
マルリアは理由を尋ねずに頷いた。
こはくが鏡の前を離れ、彼女のもとへ歩いていく。
「お洋服、ありがとう」
「どういたしまして。とても似合っているわ」
マルリアが襟元を直すと、こはくは嬉しそうに裾を広げた。
「また遊びに来てね」
「うん!」
「私も日本へ遊びに行くつもりよ。燿とはなにも、久しぶりに会いたいもの」
「そのときは、黒田家にも来てください」
友丸が言うと、マルリアは笑って頷いた。
ユリアがこはくの前にしゃがむ。
「またすぐに会えそうね」
「みゃ。……うん、またね!」
先にいつもの鳴き声が出てしまい、ユリアが笑った。こはくも笑いながら、差し出された手を両手で握る。
別れを済ませると、こはくは元の小さな姿に戻った。友丸は残されたワンピースを畳み、旅行鞄へしまう。
人前では、いつものこはくでいる。
その約束どおり、部屋を出たあとのこはくは友丸の肩で「みゃ」と鳴いた。
◇
日本に着くと、友丸は空港からそのまま黒田家へ向かった。
玄関には香菜が待っていた。
「おかえりなさいませ、友丸様。こはく様も」
「みゃ」
こはくが前脚を上げる。香菜は微笑んでから、友丸に告げた。
「皆さま、お揃いです。はな様が人払いも済ませていらっしゃいます」
案内された部屋には、燿とはな、櫻子、絢香がいた。香菜も友丸たちと一緒に入り、襖を閉める。
「おかえり、友丸。こはくちゃんも」
燿が立ち上がり、こはくへ手を振る。
「みゃ」
こはくも前脚を振り返した。
「マルリアからは、ここへ直接来るとしか聞いていないわ」
はなが友丸を見る。
「それで大丈夫です。先に塁にも繋ぎたい。絢香、頼めるか?」
「うん」
絢香が携帯電話を取り出し、塁にかける。
一度目の呼び出し音が鳴り終わる前に、通話が繋がった。
『絢香か。何かあったのか?』
「早っ。今、発信を押したばかりよ」
『お前からの着信だけ、音を変えてある』
「……私だけ?」
『ああ』
「いつから?」
『前からだが』
絢香は電話を耳から離し、燿のほうを見た。燿は笑いをこらえている。
「燿さんも、そこで笑わないで」
「いや、着信音まで変えているとは知らなくてな」
『絢香からの電話を取り逃がさずに済む』
「だからって、ワンコールも待たずに出なくていいのよ」
『待つ理由がない』
絢香が額に手を当てたところで、はなが小さく咳払いをした。
「あ、そうだった。塁、今はどこ?」
『クランハウスだ。仕事中だが、何かあったのか』
「仕事中でもあの速さで出たの?」
『絢香の電話だからな』
「分かった、分かったから。そこはもういい」
燿の肩がまた揺れた。絢香は見ないことにして、用件を伝える。
「今、黒田家にいるの。友丸とこはくが帰ってきた。そっちも人払いして、ここの画面に繋いでくれる?」
『分かった。少し待ってくれ』
通話の向こうで、塁が部屋にいた者へ退出を告げる声がした。
しばらくして、部屋の大きな画面に塁が映る。クランハウスの会議室には、もう彼しかいない。
『これでいいか』
「ああ。忙しいところ悪いな」
友丸が言うと、塁は机に積まれた資料を脇へ寄せた。
『構わない。それで、何があった?』
友丸は肩のこはくに目を向けた。
「イタリアの遺跡で、こはくに変化があった」
燿の表情が変わる。
「身体は大丈夫なのか?」
「元気だよ。見てもらったほうが早い」
友丸が頷くと、こはくは床へ飛び降りた。
小さな身体の形が変わる。宙に浮いていた足が床につき、大きな猫ほどの背丈になった。猫に似た耳と尻尾、人のような手足。こはくは両手を広げる。
「じゃじゃ~ん! こはくだよ!」
こはくは、その勢いのまま、友丸を振り返った。
「友丸、服」
「はいはい」
友丸は旅行鞄からマルリアのワンピースを取り出した。こはくの前にしゃがみ、頭からそっと通して、小さな両手を袖へ出す。裾を整え終わると、こはくは一歩前へ出た。
くるりと回り、今度はワンピースの裾を広げる。
「じゃじゃ~ん! こはくだよ」
部屋にいた全員の動きが止まってる。
絢香はこはくを指さしたまま、声が出ない。隣の櫻子も、何か言おうとして口を開けたまま固まっている。
燿はこはくを見るために腰をかがめた姿勢のまま動かず、はなは湯飲みを持つ手を止めていた。
襖のそばに立つ香菜まで、いつもの落ち着いた表情を忘れている。
画面の中の塁も黙ったままだ。
「……こはくちゃん?」
絢香がやっと声を出す。
「うん!」
こはくは満面の笑みで頷いた。
櫻子が絢香の腕を掴む。
「絢香。今、返事をしたわよね」
「した。私にも聞こえた」
「人の言葉で?」
「うん」
二人はもう一度こはくを見た。
「「……かわいい」」
絢香と櫻子の声が揃った。
こはくは二人に向かってもう一度裾を広げ、それから友丸の膝へよじ登る。香菜が茶菓子を小さな皿に取り分けて差し出すと、両手で受け取った。
「ありがとう、香菜」
「どういたしまして」
香菜は答えながらも、こはくから目を離せない。
こはくが菓子を一口かじったところで、友丸は遺跡で起きたことを話し始めた。
「深層で《ガイロン》と合流して、政府の職員二人も一緒に遺跡へ入った。奥には機械があって、こはくに似た壁画ものも見つかった」
櫻子の表情が引き締まる。こはくは友丸の膝で菓子を食べていた。
「転移トラップが発動し、最初にサイシンたちが消えた。ブロドが撤退を命じたけど、その直後にブロドたちも消えた。最後はユリアたちと、俺とこはくが別々の場所へ飛ばされた」
「誰も気づかなかったの?」
櫻子が聞く。
「消える直前まで、俺にも分からなかった。ユリアたちも反応できていない。こはくの卵を見つけたときと同じだ」
友丸は、自分とこはくが飛ばされた先で見たもの、持ち帰った無傷の核、そして戻るまでにこはくの姿が変わったことを順に説明した。ほかの組も帰還したが、持ち帰ったのは機械の胴体や傷のある核だった。
「核はイタリア政府に渡した。こはくが変わったことは、向こうでは話していない」
画面の中の塁が、こはくを見る。
『こはくちゃん自身は、遺跡のことを覚えているのか?』
こはくは口の中の菓子を飲み込んでから、首を横に振った。
「知らない。前のこと、何も覚えてないよ」
「こはくに似たものがあったからって、本人が昔の遺跡を知ってるとは限らない」
友丸は膝の上のこはくを見た。
「俺は、こはくがあの時代を生きていたわけじゃないと思ってる。こはくは東京異界で見つけた卵から生まれたんだ。卵の中にいた間のことも、遺跡が使われていたころのことも、知らないんじゃないか」
「そう考えるのが自然だね」
はなが頷く。
「ただ、まだ友丸の予想だよ。遺跡に似た姿が残っていたことと、この子に記憶があるかどうかは分けて考えた方がいい」
「ええ」
友丸は皆を見回した。
「ほかに何か聞きたいこと、あるか?」
「あるわ」
はなが即答する。
「塁。あんたこはくに服を送ってくるなよ」
『……なぜです?』
遺跡についての質問を待っていた友丸は、はなの言葉に拍子抜けた。
「昔、あんたが送ってきた服で倉庫がいっぱいなの。絢香の分だけじゃない。子どもたちの分も山ほどあるわ」
「本当に山ほどあるからね」
絢香が横から言う。
『必要だと思って送った』
「数年間は送らなくていいって、前に言ったでしょう?」
『覚えています』
「なら、こはくを見て注文しないでね」
こはくが友丸の膝の上で顔を上げた。
「塁が送ってきた服、こはくも着る〜。後で倉庫行くね」
「ご案内します」
香菜がすぐに答える。
画面の中で塁が少しだけ身を乗り出した。
『こはくに合う服があるか、確認して――』
「送らなくていいからね」
はなが言い切る。
塁は口を閉じた。絢香が笑いながら画面を指さす。
「今、絶対に新しい服を考えてたろ」
『倉庫に何があるか考えていました』
「どうだか」
はなの声に、塁はそれ以上答えなかった。こはくは二人のやり取りを眺めながら、残りの茶菓子を嬉しそうにかじった。




