ZAN
翌朝。
友丸が目を覚ますと、調理台の前にユリアが立っていた。
昨日と同じキャンプ用の上着を羽織り、長い髪を後ろで一つにまとめている。手に握っているのは、剣ではなく包丁だ。
「おはよう」
「ああ。何を作ってるんだ?」
「見れば分かるでしょう。朝食よ」
まな板には、厚さの違う野菜が並んでいた。
昨日よりは揃っている。少なくとも、一つの野菜から薄切りと乱切りが同時に生まれることはなくなったらしい。
「ユリア。包丁を持ったまま、こっちを向かないで」
「分かってるわ」
「今、思い切り向いたよね?」
隣に立つ絢香が、ユリアの手首をそっとまな板へ戻した。
少し離れたテーブルでは、こはくが身体を浮かせたまま二人を見守っている。
普段なら食べ物の匂いにつられて近づくはずだが、今朝は妙に距離を取っていた。
「こはく。そんなに離れなくても大丈夫よ」
「みゃ」
返事はしたものの、近づこうとはしない。
「昨日より上手くなってるでしょう?」
「みゃ……」
「どうしてそこで迷うのよ」
友丸は椅子に腰を下ろし、絢香が淹れておいたコーヒーを手に取った。
湖畔には薄い朝霧が残っている。昨日と変わらない穏やかな湖面が、昇り始めた朝日を反射していた。
その静けさに、油の弾ける音が混ざる。
「火が強いよ」
「このくらいでしょう?」
「弱めて。ユリア、弱めて」
「これね」
「そっちは消す方!」
朝食の完成には、もうしばらくかかりそうだった。
友丸が二杯目のコーヒーへ手を伸ばしたとき、調理台の端に置かれた携帯端末が鳴った。
表示を見たユリアが包丁を置く。先ほどまでとは声色が変わっていた。
「私よ」
『早朝から申し訳ありません。湖上監視施設より緊急報告です』
ユリアは端末をスピーカーに切り替えた。
『第七キャンプ区画より東へ約三キロの地点で、湖棲型の深層種を二体確認しました。周辺区画の利用者は退避を始めています』
「二体?」
『一体は全長およそ四十メートル。もう一体は六十メートル前後と推定されています』
絢香が火を止めた。
友丸も湖へ目を向ける。
湖底の水路が深層につながり、まれに深層種が上がってくることは、事前に読んだ資料にもあった。だが、キャンプ区画から三キロの場所に二体同時とは聞いていない。
『政府所属の討伐班は出動しています。ただ、現場への到着にはあと五分ほどかかります。ユリアさんの現在地からであれば――』
「私が行った方が早いわね」
『お願いいたします』
「二体はどちらへ向かっているの?」
『現在は北西へ移動中です。大型個体は徐々に湖岸へ近づいています』
「三分で着くわ」
通話を切り、ユリアはテーブル脇に立てかけていた剣を取った。
友丸も立ち上がる。カメラと猫の仮面を手にした。
「俺も行く」
「手伝わなくていいわよ」
「分かってる。撮るだけだ」
ユリアは一度だけ友丸を見て、頷いた。
「みゃ!」
二人が走り出そうとしたところへ、こはくが飛んでくる。
「今日は留守番だ」
「みゃあ!」
「ユリアを撮りに行くだけだ」
納得できないらしい。友丸の胸元へ飛び込もうとしたこはくを、絢香が横から抱き止めた。
「こはくちゃんは私と一緒にいようね。配信が始まったら、ここから見られるから」
「みゃあ……」
不満そうに前脚を伸ばすこはくを残し、友丸はユリアと湖岸を走った。
◇
二分ほどで、前方から警報音が聞こえてきた。
木々の間を抜けた先に湖上監視施設がある。建物の屋上では複数の監視装置が湖へ向けられ、政府職員が慌ただしく行き来していた。
湖岸にいた釣り客や冒険者の退避は、すでに終わっている。
「ユリアさん!」
政府所属の冒険者が二人を迎えた。
「沖合に二体います。四十メートル級は先ほど一度浮上しました。六十メートル級はまだ水中ですが、こちらへ近づいています」
「討伐許可は?」
「出ています。可能であれば、黄色い浮標より岸側には入れないでください」
「分かったわ」
ユリアはそのまま湖へ向かう。
職員が友丸のカメラに気づいた。
「撮影者さんですね。職員の顔と施設内の機器を映さなければ、配信していただいて構いません。周辺区画への注意喚起にもなります」
「分かった」
友丸はカメラを起動した。
短い題名を入力し、そのまま映像を公開する。事前の告知はしていない。
それでも、スイス異界からの緊急配信と分かった途端、視聴者数が増え始めた。
《何があった?》
《朝から緊急配信?》
《そこ、昨日の湖だよな》
《ユリアが剣持ってる》
友丸がカメラを沖へ向ける。
穏やかだった湖面の一部が、不自然に盛り上がっていた。その下を、巨大な影が動いている。
「湖底から深層種が二体上がってきた。政府から討伐許可は出てる」
《ここ中層だろ!?》
《深層種が出るのかよ》
《湖底の一部が深層につながってるって資料に書いてある》
《本当に資料を読んでる奴がいる》
湖面が弾けた。
大量の水を押し退け、黒い巨体が姿を現す。
長い胴を覆う鱗は、一枚ごとが人間よりも大きい。四本の太いひれが湖面を叩き、頭部から後方へ伸びた二本の角が朝日を反射した。
四十メートル級の個体だ。
その下には、さらに大きな影が潜んでいる。
「先に行くわ」
ユリアは剣を抜き、速度を落とさないまま湖へ足を踏み出した。
一歩目で湖面が沈み切る前に、二歩目を踏み出す。そのまま水の上を駆けていく。
友丸もあとを追った。片手でカメラを構え、ユリアから少し離れた位置を走る。
《待って》
《なんで水の上を走ってるんだ》
《ユリアはまだ分かる》
《撮影者さんまで普通についていくな》
《しかもカメラが揺れてない》
四十メートル級の深層種がユリアに気づいた。
太い尾が持ち上がり、湖面へ叩きつけられる。
爆発に似た音が響き、数メートルの波が押し寄せた。
ユリアは迫る波を駆け上がり、その頂点を蹴って跳躍する。深層種の頭上を越えながら、剣を振り下ろした。
黒い鱗が砕け、首元に長い傷が走る。
湖面へ血が落ちた。だが、傷は浅い。
「硬いわね」
ユリアは着地すると、足を止めずに走り出した。
深層種が口を開き、圧縮された水流を放つ。
ユリアは横へ進路を変えてかわし、そのまま巨体の脇を駆け抜けた。右側のひれへ剣を叩き込む。
鱗が割れ、肉まで刃が入る。それでも、ひれを切り落とすには届かなかった。
ユリアが剣を引き抜いた瞬間、深層種が水中へ潜る。
「下だ」
友丸が声を上げた。
澄んだ水の奥を、黒い影が高速で移動している。
ユリアが横へ跳ぶ。
直後、それまで彼女がいた場所から巨大な顎が突き出した。水柱が上がり、巻き上がった水がユリアの身体を押し流す。
ユリアは空中で姿勢を戻し、片足から湖面へ着地した。
濡れた髪をかき上げ、わずかに笑う。
「水の中なら、そっちの方が速いのね」
その背後で、別の湖面が盛り上がった。
六十メートル級の個体が、初めて姿を現す。
先ほどの個体よりも鱗が厚い。頭部には四本の角が伸び、浮上しただけで大きな波が周囲へ広がった。
《もう一体出た!》
《でかい》
《こっち六十メートルあるだろ》
《政府の討伐班はまだか》
ユリアは湖面を駆け、二体へ向かう。
四十メートル級の尾が横薙ぎに迫った。跳び越えたユリアは、その尾を足場にして、もう一体へ飛ぶ。
六十メートル級の頭部へ着地。
振り落とされるより早く剣を振るい、四本ある角の一本を切断した。そのまま頭部を蹴り、追ってきた四十メートル級の首へ剣を叩き込む。
黒い鱗が割れた。
刃は深く食い込む。だが、首を断つには至らない。
深層種が身体を激しく回転させた。
ユリアは剣を引き抜き、巻き込まれる直前に跳ぶ。十数メートル先の湖面へ着地し、そのまま足を動かし続けた。
呼吸がわずかに乱れ、額に汗が浮かんでいる。
友丸は、ここまでの攻防を見て原因に気づいた。
「踏み込めないのか」
「ええ」
ユリアが短く答える。
「走るだけなら問題ない。でも、剣を振り抜く間、足を支えてくれる地面がないのよ」
剣は腕だけで振るうものではない。足で地面を捉え、腰を回し、全身の力を刃へ伝える。
ユリアは水上でも鱗を斬っている。だが、二体の巨体を断つには、踏み込みが足りなかった。
《斬れてるのに倒せないのか》
《水の上じゃ足場が作れない》
《あれでも本来の威力じゃないのかよ》
《深層種が二体なのもきつい》
「代わるか?」
「いらない」
ユリアは即答した。
「そうか」
友丸も、それ以上は言わない。
《撮影者さん、代わるかって言った?》
《深層種二体を買い物みたいに交代するな》
《ユリア即答で断ったぞ》
そのとき、湖岸に政府所属の討伐班が到着した。
湖へ出ようとする彼らへ、ユリアが振り返らずに叫ぶ。
「あなたたちは岸を守って! 湖には出ないで!」
返事を待たず、ユリアが動く。
ただし、今度は二体へ向かわない。
深層種に背を向け、湖岸へ走り始めた。
《戻ってくる?》
《撤退か?》
《水上じゃ相性が悪すぎる》
《政府部隊と合流するのか》
ユリアは振り返りながら走り、二体の位置を確かめている。
傷を負った四十メートル級が先行し、六十メートル級がその後ろから追った。
二つの巨体が、ユリアから見て一直線に重なる。
そこでユリアは水面を蹴り、陸へ降り立った。
振り返った彼女の前には、こちらへ迫る二体の深層種。どちらも、黄色い浮標より岸側には入っていない。
「水の上じゃ駄目ね」
「それで陸まで誘ったのか」
「ええ。それに――」
ユリアは呼吸を整え、剣を両手で握った。
「一度、やってみたかったのよ」
「何をだ?」
問いかけた友丸は、ユリアが構えを取ったところで答えに気づく。
右足を後ろへ引く。
腰を落とし、剣を身体の横に構える。
友丸が以前見せた居合とは違う。使っている剣も、次元を断つ紫刀ではない。
それでも、何をするつもりなのかは分かった。
「まさか」
ユリアの右足が、大地を強く踏みしめた。
水上では得られなかった、揺るがない足場。踏み込みから生まれた力が腰へ伝わり、肩を通り、握られた剣へ集まっていく。
二体の深層種が湖岸へ迫る。
ユリアから見て、巨大な影が完全に重なった。
彼女が楽しそうに笑う。
「――ZAN」
剣が横一文字に振り抜かれた。
沖にいる二体の身体へ、同時に一本の傷が走る。
刃が直接届いたわけではない。ユリアが放った斬撃が、離れた二体をまとめて斬ったのだ。
その周囲の水まで、凄まじい剣圧が左右へ押し退ける。
轟音とともに湖面が割れた。
水が壁のように持ち上がり、その間から湖底が一直線に露出する。
一瞬遅れて、二体の巨体が傷口からずれた。上半分と下半分に分かれた身体が、割れた湖へ落ちていく。
左右へ押し退けられていた水が、中央へ戻った。
巨大な水柱が立ち上がり、激しい波が湖岸まで押し寄せる。
友丸はカメラを構えたまま、その光景を見ていた。
友丸の紫刀は、遺跡刀の力で空間そのものを断つ。今の一撃は、ユリアが自らの技量で放った斬撃だ。二体の深層種を斬り、その余波で湖まで割った。
仕組みは違う。
ただ、その違いが配信画面からどこまで伝わったかは、友丸にも分からなかった。
コメント欄を、まず意味をなさない記号が埋めた。少し遅れて、言葉が追いつく。
《????????》
《ZANって言った!?》
《おい待て》
《湖が割れたんだけど》
《深層種二体まとめて斬ったぞ》
《近藤との配信で言わされたやつだ!》
《SAMURAIが増えた》
《スイスにもSAMURAIがいた》
《ユリアはソードマスターだろ》
《日本語なら剣聖だ》
《剣聖ユリア》
《本家の前でZAN宣言www》
《撮影者さん何か言って》
ユリアは剣についた水滴を払い、鞘へ収めた。
かつては彼女の祖母が、今はユリアが《ソードマスター》と呼ばれている。日本の視聴者が書き込む《剣聖》は、その異名の訳だった。
ユリアがカメラへ顔を向ける。
「どう?」
友丸は少し間を置いた。
「……何がだ?」
「貴方の真似をしたのよ」
「俺は斬るたびにZANなんて言わないぞ」
「近藤さんの配信では言っていたでしょう?」
「あれは言わされたんだ」
「でも、海外ではそう呼ばれているわ」
「勝手に呼ばれてるだけだ」
《本人公認じゃなかった》
《近藤の配信で一回だけ言わされたからな》
《本家よりサービス精神がある》
《湖を割ったぞ》
ユリアは騒ぎ続けるコメントを眺め、満足そうに笑った。
「でも、似ていたでしょう?」
友丸は湖へ目を向ける。
二体の深層種は、完全に動きを止めていた。政府の討伐班が湖へ出て、分断された巨体の確認を始めている。
「それは認める」
《本家から認定出たぞ》
《剣聖ユリア爆誕》
《次元を斬れる奴が二人になった》
《次元は斬ってない、剣技》
《撮影者さんは遺物の紫刀を使ってたよな》
《ユリアの剣は違うぞ》
「討伐は終わった。配信はここまでだ」
友丸はそう告げ、配信を終了した。




