スイス異界はデカい
翌朝。
ユリアの古城を、三台の車が十五分おきに出発した。
最初の車にはユリア。二台目には絢香。そして最後の車には、友丸とこはくが乗っている。
三人が同時に現れれば、異界の入口が騒ぎになる。スイスの英雄であるユリアだけでも人が集まるうえ、絢香も海外で知られた料理配信者だ。そこへこはくまで姿を見せれば、友丸の正体にも気づかれかねない。
そのため、入域する時間をずらすことになった。
待ち合わせ場所は、湖の南岸にある第七キャンプ区画。
異界へ入ったあとは、先に出発した二人へ友丸が走って追いつく。それが一番早く、余計な注目も集めずに済む。
◇
スイス異界の入口前で、最初の車が止まった。
ユリアが降りると、すぐに周囲の視線が集まる。
名前を呼ぶ声が一つ上がり、近くにいた冒険者たちが次々と足を止めた。ユリアは片手を上げて声援に応え、そのまま管理施設へ向かう。
冒険者カードをかざしてゲートを抜けると、集まった者たちに見送られながら異界門をくぐった。
その十五分後、二台目の車が到着する。
降りてきた絢香にも、すぐに気づく者が現れた。
「アヤカだ!」
「料理配信の?」
異界へ入る格好をした絢香が珍しいのか、いくつもの携帯端末が向けられる。絢香は慣れた笑顔で手を振り、足を止めることなく入域した。
さらに十五分後。
三台目の車から、友丸が降りる。
撮影機材とキャンプ道具を背負っているが、猫の仮面は着けていない。こはくもバッグの中に隠れているため、友丸へ目を向ける者はいなかった。
一般の冒険者に混ざって管理施設へ入り、冒険者カードをかざす。
短い認証音を聞きながらゲートを抜け、友丸はそのまま異界門をくぐった。
◇
スイス異界の入口は、山あいに建つ巨大な管理施設の中にあった。
一歩進んだだけで、空気が変わった。
背後の機械音が遠のき、代わりに風に揺れる葉音と、鳥に似た魔物の鳴き声が聞こえてくる。
石造りの建物が並ぶ入口の先には、緑の丘が続いていた。涼しい風には、知らない草花の匂いが混じっている。
瀬戸内海異界に満ちていた潮の匂いも、北海道異界の冷たい空気もない。
同じ異界でも、足を踏み入れた先に広がる景色は一つとして同じではなかった。いくつもの異界を訪れてきた友丸にとっても、初めての場所を進むのは新鮮だった。
入口付近では周囲に合わせて歩き、人が少なくなってから走り始める。
第七キャンプ区画までは、整備された道を通って中層へ向かえばいい。分岐には案内標識が立ち、携帯端末にも現在地が表示されている。
肩のバッグが、一度だけ小さく揺れた。
「もう少し待ってくれ」
「……みゃ」
声が外へ漏れないよう、こはくも小さく返事をした。
浅層を抜ける頃には、周囲の景色も変わっていた。
白い幹から青い葉を伸ばす木。人の背丈を超える赤い花。風が吹くたび、金色の綿毛が舞い上がる草原。
森の縁から、細い角を持つ小型の魔物がこちらを見ていた。友丸が近づくと身を翻し、白い木々の間へ消えていく。
中層へ入っても足を止めず、さらに先へ進んだ。
やがて森が途切れ、道が長い上り坂へ変わる。
その坂を上り切ったところで、友丸は思わず速度を落とした。
視界の先を、青が埋め尽くしている。
対岸は見えない。
どこまでも続く水面が陽光を反射し、青や緑、銀色へと色を変えていた。湖と聞いていなければ、海だと思っただろう。
はるか遠くには雪を頂いた山々が連なり、白い峰が雲の上へ突き出している。
水は驚くほど澄んでいた。
岸近くを泳ぐ色鮮やかな魚だけでなく、その下を進む大きな影まで見える。翼のようなひれを広げたものや、淡く光る鱗を持つもの。小舟ほどの水棲魔物が、水草の間をゆっくりと泳いでいた。
「北海道異界の湖も綺麗だったが、これはまた凄いな」
こはくから返事はない。
バッグの中で、きちんと我慢しているらしい。
湖畔へ下る道を進むと、少し先でユリアと絢香が待っていた。
「誰にも気づかれなかった?」
「声もかけられなかった」
「やっぱり、こはくを隠せば大丈夫だったわね」
三人はそろって湖の南岸を進み、貸切を示す案内板の前で足を止めた。
ここから先が、ユリアの借りている第七キャンプ区画だった。周囲にほかの利用者がいないことを確かめ、友丸はようやくバッグを下ろす。
「もう出ていいぞ」
「みゃあ!」
こはくが勢いよく飛び出した。
友丸の頭上を一周し、そのまま湖へ向かおうとする。すぐにユリアが両手で受け止めた。
「外を見たかったのね」
「みゃ、みゃあ」
「ちゃんと隠れていられて偉かったわ」
絢香に褒められると、こはくはユリアの腕の中で胸を張った。
「途中で一度鳴いてたけどな」
「みゃ」
聞こえなかったふりをして、こはくが湖へ顔を向ける。
ユリアも青い水面を見渡した。
「ここを見せたかったの。スイス異界には危険な場所も多いけれど、それだけではないから」
「それにしても、どれくらい広いんだ?」
「湖全体なら、四国と同じくらいよ」
「それはもう、海でいいだろ」
「淡水だから湖よ」
ユリアは当然のように答えた。
「向こうの山も凄いな?」
「ええ。高いものは、外のアルプスよりずっと高いわ」
友丸は改めて湖の向こうを見た。
対岸すら見えない湖に、雲を突き抜ける白い山々。目の前に広がっている景色だけでも、スイス異界がどれほど広いのか分かる。
第七キャンプ区画は、広い草地と、湖へ突き出した小さな半島を丸ごと使えるようになっていた。
「一つの区画にしては広すぎないか?」
「のんびりするなら、これくらい必要でしょう?」
「ユリアの普通を気にしたら負けよ」
絢香は慣れた様子で荷物を下ろした。
区画の外周には、魔物を感知する監視柱と防護結界が設置されている。湖上に並ぶ黄色い浮標から先は、水棲魔物の生息域として立入禁止になっていた。
三人は案内板で利用規則を確認し、設営を始める。
友丸とユリアがテントを組み立て、絢香は調理台を準備した。
その間、こはくは荷物の上へ座り、忙しく動く三人を眺めている。
「こはくも手伝ってくれ」
「みゃ」
「今、断ったな?」
こはくは尻尾を一度揺らし、湖の方を向いた。
◇
設営を終えた頃には、太陽が少し西へ傾いていた。
友丸は猫の仮面を着け、湖と調理台が一緒に映る位置へカメラを設置した。
今日使うのは、スイス異界で捕れた白身魚だ。
大きな切り身のほかに、現地で採れる香草、野菜、キノコ、白ワイン、チーズが調理台へ並べられている。
その隣では、ユリアが包丁を握っていた。
「準備できた?」
「いつでも」
「みゃ」
こはくまで返事をする。
開始時刻になり、友丸が合図を出した。
「こんにちは、絢香です。今日はスイス異界管理局の許可をいただいて、中層にある湖から生配信しています」
友丸はカメラを湖へ向けた。
青い水面と、その向こうにそびえる白い山々が画面いっぱいに映る。
配信が始まって、まだ十秒も経っていない。それでもコメント欄は、すでに文字を追えない速さで流れていた。
《ここ、本当に異界?》
《海じゃなくて湖なのか》
《山が高すぎる》
《スイスの公式告知から来た》
「今日の案内役は、スイス所属のSランク冒険者、ユリアです。撮影は、皆さんも知っている撮影者さんにお願いしました」
「よろしく。ここは管理されたキャンプ区画よ。黄色い浮標から先は水棲魔物の生息域だから、絶対に入らないでね」
「俺は映らないからな」
《声が撮影者さんだ》
《本当にスイスまで行ってる》
《カメラ担当が豪華すぎる》
友丸がカメラを調理台へ戻すと、端にこはくが座っていた。
「こはくちゃんも一緒です」
「みゃあ」
《こはくもいた!》
《挨拶できて偉い》
《今日は情報が多すぎる》
こはくは満足そうに胸を張った。
「今日作るのは、異界魚のチーズ蒸しと香草バター焼きです。ユリアにも手伝ってもらいます」
「何を切ればいい?」
「まずは、そのキノコ。石づきを落として、同じくらいの厚さにしてね」
「任せて」
返事だけなら頼もしい。
ユリアは真剣な顔で、キノコへ包丁を下ろした。
一枚目は少し厚い。
二枚目は薄い。
三枚目は斜めになった。
それでも、以前のように包丁がまな板へ深く食い込むことはなかった。
「前より上手になったでしょう?」
「ああ。まな板まで切らなくなった」
「それは褒めているの?」
「ちゃんと上達してるわよ。少しだけど」
魚へ下味をつけながら、絢香が付け加えた。
「絢香まで」
《前はまな板を切ったの?》
《戦闘より苦戦してない?》
《確かに前より上手い》
ユリアはコメントを見ないふりをして、四枚目へ挑んだ。
今度は、先ほどより綺麗に切れる。
「ほら」
「そこで得意げになるのか」
「成長は喜ぶべきよ」
「みゃ」
こはくも同意するように頷いた。
絢香は厚手の鍋へ野菜とキノコを敷き、その上に異界魚を載せた。白ワインを回しかけ、香草とチーズを加えて蓋をする。
隣の鉄板では、残りの切り身をバターで焼き始めた。
溶けたバターと魚、香草の匂いが重なり、湖から吹く風に乗って広がっていく。
最初に変化へ気づいたのは、こはくだった。
「みゃ?」
湖へ顔を向け、耳をぴんと立てる。
友丸もそちらへカメラを向けた。
岸辺を泳いでいた小魚が、一斉に沖へ向かっている。
その先で、黄色い浮標の外側の水面が大きく盛り上がった。
「何か来るな」
波が左右へ割れ、透き通った巨大な背がゆっくりと現れる。
鯨に似た魔物だった。
全長は百メートルを超えている。水晶のような鱗が陽光を受け、青や紫に輝いていた。澄んだ水の下には、湖底を進む長い影まで見えている。
《でかいでかいでかい》
《逃げて!》
《警報は!?》
《料理どころじゃない》
画面の向こうが騒然とする中、ユリアは落ち着いた様子で湖を見ていた。
「水晶鯨よ。主に水中の魔力藻を食べる、大人しい魔物なの。こちらから手を出さなければ襲ってこないわ」
区画の監視柱は青く光ったままだった。
水晶鯨は浮標の外で大きなひれを広げ、悠々と泳いでいる。
「よく現れるのか?」
「日が沈む前に浮上することはあるわ。これほど岸へ近づくのは珍しいけれど」
その横で、こはくがふわりと浮き上がった。
「待て」
友丸はすぐに、こはくの尻尾をつかんだ。
「みゃっ」
「見に行くな」
「みゃあ、みゃ」
「餌もやるなよ」
こはくの前脚には、いつの間に取ったのか、焼く前の魚が一切れ抱えられていた。
「この湖では餌付け禁止よ」
絢香にも止められ、こはくは渋々、魚を調理台へ返した。
《こはく、会いに行こうとした?》
《怖いものないのか》
《魚まで用意してる》
《撮影者さんの反応が速い》
水晶鯨の周囲には、いつの間にか小魚の群れが集まっていた。
日が傾くにつれ、その鱗が一匹、また一匹と淡く光り始める。
青、緑、金色の光が水中へ灯り、湖面の下に無数の星を作っていく。水晶鯨が身体を返すたび、光の群れも大きくうねり、長い尾を引いてあとを追った。
逃げるよう促していたコメントが消え、代わりに感嘆の言葉が流れ始める。
《綺麗……》
《ずっと見ていたい》
《スイス異界の案内を調べてくる》
《この区画なら行ってみたい》
友丸は何も言わず、水晶鯨と光の群れをカメラで追い続けた。
「撮影者さん、そろそろ料理へ戻って」
絢香に呼ばれ、カメラを調理台へ戻す。
「今の流れで料理へ戻るのか?」
「これは料理配信よ」
鍋の蓋を開けると、白い湯気とともにチーズと香草の濃厚な香りが広がった。
ふっくらと蒸し上がった白身には、野菜の旨味が染み込んでいる。表面で溶けたチーズが小さく泡立っていた。
バターで焼いた切り身には、こんがりと焦げ目がついている。絢香は仕上げに、レモンに似た異界果実を搾った。
「完成です。異界魚のチーズ蒸しと、香草バター焼き」
盛りつけた皿を、夕暮れの湖と一緒に映す。
《景色も料理も凄すぎる》
《この時間に見るんじゃなかった》
《店でも出してほしい》
《ユリアが切ったキノコはどれ?》
「形が不揃いなものです」
「絢香!」
ユリアの抗議に、コメント欄が笑いで埋まる。
絢香が配信を締め、友丸はカメラを止めた。
そのまま三人と一匹で、湖の見えるテーブルを囲む。
友丸が香草バター焼きを口へ運ぶと、柔らかな白身がほどけた。淡泊だが旨味は濃く、香草の爽やかさと果実の酸味がよく合っている。
「うまい」
「みゃあ!」
こはくも魚を抱え、夢中になって食べていた。
ユリアはチーズ蒸しの中から、自分が切ったキノコを見つけて口へ運ぶ。
「次は、最初から最後まで私が作れそうね」
「まずは全部、同じ厚さに切れるようになってからね」
「明日の朝にはできるわ」
「朝食を作る気か?」
「そのつもりよ」
こはくが食べるのをやめ、ユリアを見上げた。
「心配しなくても、まな板は切らないわ」
「みゃ……」
あまり信用していないような返事だった。
湖の向こうでは、水晶鯨がもう一度だけ大きな背を見せた。
光る魚の群れを連れ、夕闇の中へ静かに沈んでいく。
友丸はその姿を眺めながら、明日の朝までに予備のまな板を出しておこうと決めた。




