彼女は俺より強い
二人は、管理局から渡された地図を確認し、指定された経路へ戻った。
そこから先は、海辺の景色が少しずつ失われていく。
岩場を抜けた先には、海水が流れ込む大きな洞窟が広がっていた。天井にはいくつもの穴が開いており、外から差し込む光が水面を青く照らしている。
洞窟の奥へ進むほど、波の音は遠ざかっていった。代わりに聞こえるのは、岩の隙間を水が流れる音と、どこかで魔物が動く気配だけだ。
中層へ入ると、通路は複数に分かれていた。
水路沿いを進む道もあれば、岩壁の高い場所を通る道もある。どの道も深層へつながっているが、潮の流れや魔物の生息域、崩落の有無によって、使える経路は変わる。
管理局から渡された地図には、現在通行できる道と、封鎖されている区域が分けて記されていた。
友丸は、指定経路と封鎖区域の位置関係が分かるよう、通路の分岐を順に撮影していく。香菜は少し先を歩き、地図と周囲の変化を確かめていた。
分岐の先には、急な増水で水路が塞がる場所や、崩れかけた岩棚の下を通る近道がある。いずれも深層へ向かう道の一つだが、今は金属柵と警告板で塞がれていた。
やがて、一つの分岐の先に四角い石室が見えてきた。
入口は金属柵で塞がれ、注意板には赤い文字が記されている。
―立入禁止。
「この先は魔物の罠がある」
《モンスター部屋?》
《聞いたことはある》
《ここにもあるのか》
「ここも、現在は封鎖されている経路の一つです」
石室を見上げた香菜が告げる。
「この先も深層へつながっています。ただし、一人が中へ入ると出入口が閉じます。中にいる魔物を全て倒すまで、外から開けることはできません」
《一人で閉じ込められるってこと?》
《仲間が外にいても助けられないのか》
「そうです。許可のない冒険者は近づかないでください」
石室の床には細かな傷が無数に残り、壁には黒ずんだ染みが広がっていた。奥からは乾いた獣臭が流れてくる。
「今回は、内部で起きる危険を記録するため、管理局から特別な許可を受けています」
「頼みました」
「承知しました」
香菜は金属柵の内側へ足を踏み入れ、そのまま石室へ歩いていく。
白い狐の仮面が境界線を越えた瞬間、背後で重い音が鳴った。
天井から落ちてきた石壁が、石室の入口を塞ぐ。
《閉じた!》
《狐面の人、一人で入ったぞ》
石壁は完全に降りたが、側壁に設けられた横長の観察窓までは塞がなかった。人が通り抜けられるほどの幅はない。それでも、管理局の照明が室内を照らしており、石室の大半は外から見通せた。
《中、見えてる》
《戦闘まで映すのか》
友丸は観察窓へカメラを向けた。
「これがモンスター部屋だ。中にいる魔物を倒すまで石壁は上がらない。外から助けることもできない。原理は分かってない」
石室の奥で、何かが岩を引きずる音がした。
続いて、石床を爪が削る。
暗がりから現れたのは、硬い甲殻に覆われた四足の魔物だった。低い姿勢のまま、香菜へ近づいてくる。
一体ではない。
左右の壁際からも同じ魔物が姿を現し、香菜を囲むように広がっていった。
香菜は袖口の内側へ指先を入れた。
そこには、何本もの細い異界繊維が隠されている。
糸そのものは、目で見えるほど太くない。魔力を流しても外へ漏れず、石室の外にいる友丸でさえ、動き出した糸を感じ取れるのは魔物が断たれる寸前だけだった。
香菜が静かに息を吐く。
最初の一体が跳びかかった。
香菜は半歩だけ横へずれた。
魔物の首が、胴体から離れた。
《え?》
《今、また切れた?》
遅れて床へ落ちた頭部を踏み越え、二体目が爪を振り下ろす。
香菜の右手が、わずかに上がった。
甲殻に覆われた前脚が、床へ落ちる。
魔物が体勢を崩した直後、その首と胴体が分かれた。
香菜は大きく動かない。手に武器を持っているようにも見えなかった。
《見えてるのに、何が起きてるか分からない》
《狐面の人、触ってないよな?》
甲殻の魔物が倒れたあとも、石室の奥から足音は止まらない。
暗がりの向こうで、何か大きなものが岩壁を擦った。
現れたのは、三メートルを超える深層種だった。黒い外殻に包まれた身体は、先ほどの魔物より一回り大きい。太い前脚を石床へ突き立て、濁った魔力をまといながら香菜へ迫る。
一体。
さらに、その後ろから数体が姿を現した。
《深層種?》
《ここ、中層だよな》
最初の一体が身体を低くして跳んだ。
香菜は動かない。
黒い外殻に覆われた首が、何の前触れもなく宙を舞った。
《また一撃で?》
二体目が死体を踏み越え、前脚を振り下ろす。
香菜が左手をわずかに開いた。
前脚が半ばから離れ、石床を転がった。
深層種が姿勢を崩したときには、すでに別の糸が首へ回っている。
頭部が落ちる。
さらに奥から、二体の深層種が現れた。
香菜は一歩も下がらない。
先に跳び込んだ一体の首が落ちる。遅れて、もう一体の胴体が途中から二つに分かれた。
配信に映るのは、ほとんど動かない狐面の女と、その周囲で首や前脚、胴体を失って倒れていく魔物だけだった。
《中は見えてるのに、攻撃だけが見えない》
《首と胴体が落ちるだけって何だよ》
《どういう異能力だ……》
やがて、石室の中から魔物の気配が消える。
香菜は周囲を見渡すと、袖口で指先を軽く払った。糸は袖の内側へ戻り、白い狐面の女は何事もなかったように石壁を見上げる。
しばらくして、入口を塞いでいた石壁がゆっくりと持ち上がった。
床には、甲殻の魔物だけでなく、三メートルを超える深層種まで何体も倒れていた。
香菜の装備には、目立った汚れすらない。
《深層種まで出てたのか》
《あの部屋を一人で?》
《最後まで何をしたのか分からなかった》
香菜は石室を出ると、静かに語った。
「Dクラス以上の方でも、入るには危険です。同行者が外にいても、助けに入ることはできません」
《Dランク以上って、Aランクも含まれるよな》
《Aでも単独は無理だろ》
《深層種が何体もいたぞ》
《狐面の人だけ基準がおかしい》
《撮影者さん、この人はどれくらい強いんだ?》
友丸は流れてきたコメントへ目を向けた。
「素手で戦うなら、塁より上だと思うぞ」
コメント欄の流れが止まった。
《は?》
《塁って、世界二位の?》
《冗談だろ》
《撮影者さんもジョーク言うんだ》
数秒後、認証済みの公式アカウントから一つのコメントが流れた。
《シスタ》のマスター、塁本人のアカウントだった。
《彼女は俺より強い》
《本人!?》
《塁が認めた》
《世界二位より強いのかよ》
《世界中が見てる配信で、その発言?》
香菜は何も言わない。
友丸も、それ以上は答えずに地図へ目を戻した。
狐面の女の名前も、所属も、ランクも分からない。中が見えていたはずの石室で、何が魔物を切り裂いたのかさえ、視聴者には分からなかった。
◇
中層をさらに進むにつれて、警告板の数は増えていった。
急な増水で水路が塞がる場所。天井から岩が落ちるため、立ち止まることを禁じられた通路。魔物の生息域が変わり、地図から消えた近道。
どれも遠目には、普通の通路にしか見えない。
友丸は立入禁止の表示と周囲の地形を映し、香菜は必要な説明だけを添えた。視聴者数は増え続けているが、コメント欄には先ほどまでの軽い調子が残っていなかった。
しばらくして、二人は深層へ続く通路の前へ着く。
天井は高く、周囲を囲む岩壁は黒く乾いている。管理局の照明が続く通路の先には、背の高い金属製の柵が見えた。
柵の前には、赤い文字で立入禁止と記された板が立っている。
その向こうへ延びる道は、光の届かない奥へ続いていた。
「ここが、深層の立入禁止区域です」
香菜が柵の前で足を止める。
友丸は、柵と警告板、それから先へ続く通路を順に映した。
「配信は、ここまでにする」
《深層は空気まで違うな》
《ここから先は入らないのか》
「異界ごとに、危険な場所も必要な装備も違う。瀬戸内海異界なら、潮や地形の変化で通れなくなる場所が多い」
友丸はカメラを自分へ向けず、警告板へレンズを戻した。
「異界へ入る前には、その異界の案内動画と資料を確認してくれ。現地で出されている警告も守ってほしい」
香菜が続ける。
「知っていれば避けられる危険もあります。無理をして、禁止された場所へ入らないでください」
《分かりました》
《自分が入る異界の資料、読み直すわ》
《今日の配信で考えが変わった》
《狐面の人も撮影者さんも、お疲れさま》
「それじゃ、配信を終わります」
友丸が操作すると、画面が暗転した。
配信画面には、終了を知らせる表示だけが残る。
金属柵の向こうには、誰も入れない深層の通路だけが続いていた。




