柵の向こう側
翌朝。
瀬戸内海異界の入口では、管理局の職員たちが配信機材の最終確認を進めていた。
友丸は花柄のアロハシャツに動きやすいズボンを合わせ、顔には猫の仮面をつけている。腰に差しているのは、普段から使っている黒いナイフだ。
香菜も、はなから譲られた異界用の装備へ着替えていた。
濃紺の生地で仕立てられた和服型の装備に、白い狐の仮面。袖や裾は動きやすいよう短く整えられているが、腰にも背中にも武器らしいものは見当たらない。
「準備はよろしいですか?」
「いつでも」
友丸が答えると、職員が手元の端末を操作した。
「配信を開始します。映像、音声ともに問題ありません」
撮影機材の画面に、管理局の公式チャンネルが表示された。
昨夜の告知に記されていたのは、瀬戸内海異界の指定ルートを生配信するという内容だけである。誰が撮影を担当するかまでは書かれていない。
それでも、管理局が浅層から深層までを生配信するのは珍しいらしく、開始前から多くの視聴者が待機していた。
《始まった!》
《瀬戸内海異界の配信は久しぶりだな》
《前にいる狐面は誰?》
《管理局の案内役か?》
画面に映っているのは、異界の入口と、その前に立つ香菜だけだった。撮影している友丸の姿は見えない。
「今日は瀬戸内海異界の浅層から、深層の立入禁止区域まで向かう。途中にある危険な場所や、封鎖された区域も撮影する予定だ」
《この声、撮影者さんじゃない?》
《本物か?》
《告知に名前なかったよな?》
《こはくはいないの?》
声を聞いた視聴者が配信のURLをSNSへ書き込み始めた。
撮影者が瀬戸内海異界を撮っている。その情報が拡散されるにつれて、コメントの流れが速くなり、視聴者数も一分ごとに増えていった。
友丸は入口脇の注意書きへカメラを向ける。
「立入禁止区域へ入る許可は管理局から受けている。許可のない人は真似しないでくれ」
《撮影者さんの声だ》
《最初に言っておくの大事》
《瀬戸内海異界管理局が、撮影者さん本人の協力を公式発表したぞ》
《狐面の説明は?》
「同行者です」
香菜はそれだけ答え、入口へ向かって歩き出した。
《説明が短い》
《狐面に和服型の装備?》
《見た目は着物なのに動きやすそうだな》
《しかも武器を持ってなくない?》
友丸もそのあとに続き、瀬戸内海異界へ足を踏み入れた。
入口を抜けた先には、青い海が広がっていた。
白い砂浜へ穏やかな波が打ち寄せ、海面には大小の岩島が浮かんでいる。沖へ延びる浅瀬には細い道があり、その両側を透き通った海水が満たしていた。
事前に危険性を聞いていなければ、異界の中だとは思えない景色である。
《めちゃくちゃ綺麗だな》
《ここが危険な異界?》
《観光地みたい》
「見た目だけなら、そう見えるな」
友丸はカメラを動かしながら、管理局から渡された地図と実際の地形を見比べた。
正規の道は色分けされ、現在通行できない場所には赤い印がつけられている。その数は、浅層だけでも十を超えていた。
「右手に見えている岩場も、先月までは正規の道だったそうです」
数歩先を歩く香菜が、沖へ続く岩場を指した。
波は低く、足場にも目立った異常はない。しかし、入口には金属製の柵が置かれ、立入禁止と書かれた赤い札が何枚も下がっていた。
「潮の流れが変わり、今は満潮を迎える前に水没する可能性があります」
《今は普通に通れそうだけど》
《正規の道より近くない?》
《これなら柵を越える奴もいそう》
危険な場所が、分かりやすく危険な姿をしているとは限らない。
以前は無事に通れた。今も足場が見えている。そうした経験や見た目だけで判断し、警告を無視する者が出てくる。
友丸は柵と岩場が同じ画面へ収まる位置まで下がった。配信後に案内動画として編集するなら、禁止を示す目印と周囲の地形が分かる映像も必要になる。
撮影を終えて正規の道へ戻ろうとしたとき、岩陰から低い唸り声が聞こえた。
香菜は数歩先で足を止めた。
直後、次の瞬間、岩陰から鱗に覆われた人型の魔物が跳び出してきた。長い腕の先に生えた爪を振り上げ、友丸へ襲いかかる。
友丸は退かず、迫ってくる魔物へカメラを向けた。
香菜は、その場から動いていない。
それでも次の瞬間、魔物の首が宙を舞った。
頭を失った胴体は勢いを残したまま数歩進み、砂浜へ倒れた。配信の映像には、何が魔物の首を落としたのか残っていなかった。
《え?》
《何が起きた?》
《今、首だけ飛んだよな?》
《攻撃なんて映ってなかったぞ》
《見返しても分からない》
香菜は倒れた魔物へ一度だけ目を向けると、何事もなかったように先へ進んだ。
その後も、岩陰や浅瀬から魔物が姿を現した。
だが、配信に映るのは、魔物が友丸へ飛びかかるところまでだった。次の瞬間には首と胴体が分かれている。映像が途切れているわけでもなく、香菜も立っている場所から動いていない。
それなのに、友丸へ近づいた魔物だけが首を失って倒れていく。
《また首が飛んだ》
《映像が飛んでないか?》
《時間は進んでるぞ》
《狐面が何かしてる?》
《何をしたら首だけ落ちるんだよ》
説明を求めるコメントが続いても、友丸は何も答えなかった。香菜も何事もなかったように、少し前を歩き続けている。
浅層を抜ける頃には、穏やかだった海の様子も変わり始めていた。
砂浜は途切れ、海面から突き出した灰色の岩が道の代わりになる。足場同士が大きく離れた場所もあり、波が岩の隙間へ激しく流れ込んでいた。
二人は地図に示された正規の道を進み、別の禁止区域で足を止めた。
ここも浅層から中層へ向かう途中に存在する、複数の禁止区域の一つだった。
入口は黄色い柵で塞がれているが、その先に広がる岩場は平らだった。ひび割れも大きな段差もなく、柵がなければ正規の道と見分けるのは難しい。
「ここは十日前まで通行できた場所です」
香菜が地図を確認しながら説明する。
「岩の下へ海水が入り込み、内部の空洞が広がっていることが分かりました。現在は区域全体が封鎖されています」
《どこに穴があるんだ?》
《普通の岩場にしか見えない》
《柵がなかったら入る自信あるわ》
友丸は柵と周囲の地形を撮り終えると、撮影機材を香菜へ差し出した。
「ここからは頼みます」
「承知しました」
香菜が機材を受け取り、友丸へカメラを向ける。
ここで初めて、撮影者本人の姿が配信に映った。
猫の仮面に、鮮やかな花柄のアロハシャツ。異界探索へ来たとは思えない格好である。
《撮影者さんが映った!》
《アロハシャツ!?》
《黒いスーツじゃないんだ》
《瀬戸内海だからって、その格好は観光客だろ》
友丸は管理局から渡された許可証を読み取り機へかざした。短い電子音が鳴り、柵の一部が横へ開く。
「禁止区域の中がどうなっているのか、俺が先に入って見せる。許可のない人は、柵の外からでも入らないでくれ」
香菜を柵の外へ残し、友丸だけが区域内へ足を踏み入れた。
中へ入っても、景色は変わらない。足元には固い岩が続き、ひび割れらしいものも見当たらなかった。
《やっぱり普通の岩場にしか見えない》
《何が危ないんだ?》
香菜は柵の前からカメラを動かし、友丸と足元の岩場を同じ画面に収めていた。
友丸がさらに一歩踏み出した直後、岩の砕ける音が響いた。
地面が円を描くように割れ、支えを失った岩が一斉に落ちていく。周囲まで崩れているため、飛び移れる足場はなかった。
友丸の身体が崩れた岩とともに穴へ消える。
数メートル下で水しぶきが上がった。
《落ちた!》
《急に穴が開いたぞ》
《これが禁止された理由か?》
香菜は慌てることなく穴の縁へ近づき、水中へカメラを向けた。
友丸はすでに水面へ顔を出していた。猫の仮面も、花柄のアロハシャツも外れていない。
底にたまった海水は澄んでいる。崩れた岩の隙間から差し込む光の中を、細長い影がいくつも動いていた。
その一つが向きを変え、友丸の足元から急上昇する。
「下に魔物がいます」
香菜が告げるのと、黒い背びれが水面を割ったのは同時だった。
魚に似た頭部には大きな口があり、その奥に太い牙が並んでいる。魔物は水面から跳び上がり、友丸の脇腹へ食らいつこうとした。
友丸は身体をひねって牙をかわし、腰から黒いナイフを抜く。すれ違いざまに首元を斬り、返す刃で後ろから迫っていた二体目の頭を貫いた。
水中とは思えない動きだった。
友丸の身体に触れる直前で水が押し退けられ、薄い膜のように全身を包んでいる。アロハシャツもズボンも、水に濡れて肌へ張りついてはいない。
《水の中で普通に動いてない?》
《服が濡れてないように見える》
《アロハシャツ、どうなってるんだ》
三体目が水底から飛び出す。
友丸はその頭を片手で押さえ、黒いナイフを横へ振り抜いた。切断された首が水面へ落ち、身体だけがゆっくりと底へ沈んでいく。
ほかに動く影がないことを確かめると、友丸は崩れた岩壁へ足をかけた。二度蹴っただけで岩場まで跳び上がり、そのまま柵の前まで戻る。
「お怪我はありませんか?」
「ないです」
香菜が向けるカメラに、友丸の全身が映る。
水中へ落ちたにもかかわらず、アロハシャツもズボンも濡れていない。髪や靴にも、水滴一つ残っていなかった。
《やっぱり濡れてない!》
《完全に水へ落ちたよな?》
《髪も靴も乾いたままなんだけど》
《まさか、そのアロハも遺物?》
友丸は自分のシャツへ目を落とした。
「塁からもらった遺物だ。暑い日でも熱がこもらないし、汗や水も弾く。効果があるのは、シャツだけじゃなく身体全体だ」
《アロハシャツまで遺物なのかよ》
《塁って《シスタ》の塁!?》
《世界二位は、なんでアロハシャツを持ち帰ったんだ》
《見た目と性能が合ってない》
「便利なんだけどな」
友丸は香菜から撮影機材を受け取り、再び穴の中へレンズを向けた。
崩れる前は、平らな岩場にしか見えなかった。その下には深い空洞が広がり、海水の中では魔物が落ちてくる獲物を待っている。
「正確な穴の位置は、管理局の地図にも載っていなかった。地形が変わり続けているから、前に調べた場所が今日も安全とは限らない」
友丸は足元に残った亀裂と、入口の柵を続けて映す。
「普通の装備で落ちれば、濡れた状態で水中の魔物と戦うことになる。登れる場所がなければ、助けが来るまで逃げることもできない。外から危険が見えなくても、柵がある場所には入らない方がいい」
《これは無理だ》
《落ちた直後に水中戦はきつい》
《柵を越えたら駄目な理由が分かった》
《さっき普通に入れそうって言ってすみません》
友丸と香菜は柵の外へ戻り、新しく開いた穴の位置を管理局へ送信した。
配信が始まって、まだ一時間も経っていない。
それでもコメント欄からは、瀬戸内海異界を観光地のようだと評する声が、すでに消えていた。




