黒田燿の旧友
翌朝、友丸は1Kのアパートの床に旅行鞄を広げていた。
異界で使う装備を一通り収め、最後に猫の被り物を押し込む。話を聞くだけで終わる可能性もあるが、瀬戸内海異界まで行く以上、何も持たずに向かう気にはなれなかった。
こはくは座布団の上に浮かび、荷造りを眺めている。
「まだ気は変わらないか?」
「みゃ」
「そうか」
返事をしたこはくは、鞄へ近づこうとはしなかった。友丸が蓋を閉じると、先に玄関へ向かって飛んでいく。
黒田家まで一緒に行くことは理解しているらしい。
◇
午前中、友丸が黒田家へ着くと、玄関には香菜が待っていた。
普段と変わらない着物姿だが、その傍らには大きな鞄が二つ置かれている。一つは旅行用で、もう一つは頑丈な箱型だった。
「おはようございます、友丸様」
「おはよう、香菜さん。もう準備は終わった?」
「はい。友丸様がいらっしゃる前に、済ませておきました」
香菜が箱型の鞄へ手を添える。
「そっちの箱は、異界用の装備?」
「はい。はな様から譲っていただいた物です」
「はなさんが使ってた物?」
「着物に近い形ですが、こちらよりも動きやすく作られています」
香菜が持ち上げると、箱の中で金具がわずかに鳴った。軽い荷物ではなさそうだが、香菜の動きは普段と変わらない。
二人で奥の座敷へ向かうと、はなが昨日と同じ場所で待っていた。こはくは友丸の頭から離れ、その膝へ迷わず収まる。
「本当に置いていかれると分かってるのか?」
「みゃ」
「帰ってくるまで、こっちでゆっくりしていな」
はなに背中を撫でられ、こはくが目を細める。これなら、友丸が出たあとを追いかけてくることもなさそうだった。
奥の廊下から燿も姿を見せた。
「十蔵には話を通してある」
「何時に着くかも伝わってるのか?」
「香菜が連絡している」
「現地の方にも、到着予定はお伝えしてあります」
香菜が答える。飛行機も空港からの車も、すべて昨夜のうちに手配を済ませていた。
「じいさん。その十蔵って人は、どんな人なんだ?」
「会えば分かる」
「何も分からない答えだな」
「声の大きな男だよ」
代わりにはなが教えてくれた。
「昔から身体も大きくてね。今でも、黙って立っていれば現役に見えるんじゃないかい」
「黙っていれば、だがな」
燿が付け足す。
それ以上の説明はなかった。
「そろそろ出発いたしましょう。道路が混雑すると、搭乗時刻に遅れる可能性があります」
香菜に促され、友丸は立ち上がった。
「はなさん、こはくを頼む」
「任せておきな。二人とも、気をつけて行っておいで」
「こはくの好物も、遊び道具も用意してある」
燿が普段より弾んだ声で告げると、はなが呆れたように目を細めた。
「ガキたちにも土産を買って帰る」
「行ってまいります」
こはくははなの膝から動かず、前脚だけを持ち上げた。
「みゃ」
見送りのつもりらしい。
◇
黒田家の車で羽田空港へ向かう。
友丸はよれよれのシャツを着て旅行鞄を提げ、香菜は着物姿で大きな荷物を二つ持っている。
周囲から見れば旅行へ向かう二人にしか見えないだろう。
異界用装備の入った鞄は、香菜が事前に申請を済ませていた。空港の専用窓口へ預けて搭乗手続きを終えると、二人は広島行きの便へ乗った。
飛行機が高度を上げ、窓の外を雲が流れ始めたところで、友丸は隣の席へ顔を向けた。
「香菜さん、十蔵さんには会ったことある?」
「いいえ。私も今回が初めてです」
「何か聞いてる?」
「燿様たちと一緒に、国内外の異界を回っていた方だと伺っています。危険な場所ほど先に入っていく方だったとも」
「じいさんの仲間らしいな」
「はな様は、燿様より人の話を聞かない方だったと仰っていました」
「それは相当だな」
燿より話を聞かない人間となると、会う前から不安になる。
香菜も同じことを考えたのか、わずかに口元を緩めた。
「ただ、困っている人を放っておけない方だそうです。今でも瀬戸内海異界で働き続けているのも、それが理由かもしれません」
飛行機は大きく遅れることもなく、昼前には広島空港へ到着した。
到着口を出ると、香菜が手配していた車が待っていた。荷物を積み込み、二人はそのまま瀬戸内海へ向かう。
市街地を抜け、しばらく走ると、車窓の向こうに海が見えてきた。
穏やかな水面の上に、大小いくつもの島が浮かんでいる。愛媛、香川、広島の間に広がる、この海域に現れた大型異界。それが瀬戸内海異界だった。
やがて、海沿いに建つ複数の建物が見えてくる。
中央にある建物だけでも、地方空港の施設に近い大きさがあった。その左右には低い建物が何棟も並び、奥には大型の倉庫も見える。広い敷地内をバスや輸送車が行き交い、装備を抱えた冒険者や、同じ制服を着た職員たちが絶えず出入りしていた。
「かなり大きいな」
「瀬戸内海異界の調査と管理を行う中心施設だそうです。」
車は正面入口の前で停まった。
二人が荷物を持って中へ入ると、広い受付には何本もの列ができていた。冒険者の入域手続きだけでなく、調査隊や物資を運び込む業者の受付も分かれている。
香菜が案内窓口で名前を告げると、職員は手元の端末を確認し、すぐに立ち上がった。
「坂田様と、香菜様ですね。お話は伺っております。少々お待ちください」
職員が奥へ連絡を入れてから、一分も経たなかった。
「おう! 来たか!」
受付全体へ響くような声がした。
奥の通路から現れたのは、大柄な男だった。
白髪交じりの短い髪に、日に焼けた顔。厚手のシャツの上からでも、肩や腕の太さが分かる。年齢は燿とそれほど変わらないはずだが、今から異界へ入ると言われても疑わない体格をしていた。
周囲の職員たちが、一斉に男へ道を空ける。
男は友丸の前まで来ると、遠慮なく肩を叩いた。
「お前が友丸だな」
「はい。十蔵さんですか?」
「そうだ。燿から聞いてるぞ」
続いて香菜へ顔を向ける。
「そっちが、香菜だな」
「初めまして。香菜と申します」
香菜が頭を下げると、十蔵は大きく頷いた。
「話は上で聞く。ついてこい」
十蔵が歩き出そうとしたところへ、別の職員が慌てて駆け寄ってきた。
「総責任者、午後の会議ですが――」
「少し遅らせろ。黒田のところから客が来てる」
「分かりました」
職員は反論せず、すぐに引き返していった。
友丸は、先を歩こうとする十蔵を見る。
「十蔵さんが、ここの総責任者なんですか?」
「燿から聞いてないのか?」
「瀬戸内海異界で働いている、としか聞いていません」
十蔵は一度目を丸くし、すぐに豪快な笑い声を上げた。
「間違っちゃいない。ここで一番働いてるのが俺だ」
周囲の職員たちが、友丸と香菜へ視線を向けている。
「総責任者が自分で迎えに来たぞ」
「誰なんだ、あの二人」
そんな声が小さく聞こえた。
香菜を知っている様子はなく、友丸の正体に気づいた者もいない。ただ、十蔵が自ら受付まで迎えに来たことに驚いているらしい。
十蔵は周囲の視線をまったく気にせず、二人を上階の執務室へ案内した。
室内には大きな机と応接用の長椅子が置かれ、壁には瀬戸内海異界の地図が広げられている。入口付近から何本もの経路が延びていたが、奥へ進むほど空白が増え、赤い線で囲まれた区域も多かった。
十蔵は扉を閉め、二人の荷物へ目を向けた。
「話を聞きに来ただけにしちゃ、ずいぶん準備がいいな」
「異界のそばまで来るなら、装備は持ってきます」
「私も、いつでも入域できる準備をしております」
十蔵は笑いながら、向かいの長椅子を示した。
二人が腰を下ろすと、自分も大きな身体を一人掛けの椅子へ沈める。
「燿から聞いている。俺たちが昔、深層で見つけたものについて知りたいんだろう」
「はい。異界人の痕跡だったと聞きました」
「俺もその場にいた。だから、知ってることは話してやる」
十蔵はそこで言葉を切った。
机の上で手を組み、友丸の顔を正面から見る。
「ただ、その前に一つ頼みがある」
「俺にですか?」
「そうだ」
十蔵の口元に笑みが浮かぶ。
「お前が撮影者なんだろう?」




