謎の卵
世界ランキング戦が終わってから、二週間が過ぎた。
午後。友丸はアパートの居間に座り、向かいのクッションにいるこはくへ手を差し出していた。
「右の前脚だけでいい」
「みゃ」
「一本だけ伸びてるだろ」
「みゃ」
返事はするものの、前脚を出すつもりはないらしい。
友丸が爪切りを持ったまま手を伸ばすと、こはくの身体がふわりと浮いた。そのまま手の届かない高さまで逃げ、カーテンレールの上へ降りる。
「終わったら干し肉をやる」
琥珀色の耳が動いた。
「降りてこい」
「みゃ」
干し肉には惹かれているらしいが、爪を切られる方が嫌らしい。
こはくが迷っている間に、テーブルへ置いていた携帯電話が震えた。表示された名前を確認し、友丸は爪切りを床へ置いて通話ボタンを押す。
「もしもし」
『今、話せる?』
櫻子の声だった。
「こはくの爪を切ろうとしてた」
『ずいぶん平和ね』
「逃げられたけどな」
『こはくは近くにいるの?』
「カーテンの上にいる」
友丸が見上げると、こはくもこちらを見下ろしていた。爪切りが床に残っているため、警戒は解いていない。
『それなら、ちょうどいいわ。今から写真を一枚送るから、こはくにも見せて』
「何の写真だ?」
『見てもらった方が早いわ』
櫻子は通話をつないだまま、一枚の画像を送ってきた。
白い台の上に、楕円形の物体が置かれている。横には大きさを示す目盛りがあり、一枚の画像の中に正面や側面から撮影した写真も並べられていた。
全体は琥珀に近い色をしている。表面を走る細い模様にも、友丸は見覚えがあった。
「……こはくが入ってた物に似てる」
『やっぱり、そう見えるのね』
「これを確かめたかったのか?」
『ええ。こはくが卵のような物から出てきたとは、あなたから聞いているわ。ただ、実物を見たのはあなただけでしょう』
「そうだな」
『写真も殻も残っていないから、私たちには比べようがないの。今送った写真の物体は、昨日、千葉異界で見つかった物よ』
千葉異界という言葉が聞こえたのか。それとも、携帯電話の画面が気になったのか。
カーテンレールの上にいたこはくが耳を立て、友丸が呼ぶより先に飛んできた。携帯電話の前で止まり、画面を覗き込む。
『反応してる?』
「見てる」
『それだけ?』
「今のところはな」
こはくは鼻先が画面へ触れそうなところまで顔を近づけ、表面に刻まれた模様を目で追っている。
普段から携帯電話の映像に興味を示すことはあった。絢香の料理配信を眺めたり、動物の映像へ前脚を伸ばしたりもする。
しかし、今は画面が動かなくても目を離そうとしない。
「どこで見つけた?」
『千葉異界の中層よ。以前から使われている経路の近くで、岩壁の一部が崩れたの。その奥から小さな空間が見つかって、中央にそれが置かれていたそうよ』
「自然にできた場所じゃないのか?」
『壁も床も加工されているわ。少なくとも、ただの穴ではないそうよ』
発見した調査員から千葉異界の管理局へ報告が入り、物体はその日のうちに地上の研究施設へ運ばれた。現場は封鎖され、発見についてもまだ公表されていないという。
『どのくらい似ているの?』
「大きさも色も、表面の模様もだ。俺が見た物と、ほとんど同じに見える」
『そこまで似ているのね』
「中には何かいるのか?」
『分からない。X線も超音波も通らないし、魔力を使った探査も表面でさえぎられるそうよ。継ぎ目らしいものも見つかっていないわ』
「開けられないのか?」
『ええ。異界産の刃物や、高出力の切断機でも、表面に傷一つつかなかった。中に生き物がいる可能性も否定できないから、それ以上強引な方法は止めているそうよ』
「それで、こはくを連れてこいと?」
『ええ』
櫻子は否定しなかった。
『あなたが見た物と同じ種類なら、こはくを近づけることで何か反応するかもしれない。担当している宮本から、そう連絡があったの』
「宮本?」
『黒田家の集まりで、何度か会っているでしょう』
「名前は覚えてる」
『顔は?』
「会えば分かる」
『覚えていない人の答えね』
宮本とは以前にも顔を合わせているはずだが、最後に話した時期までは思い出せなかった。黒田家の集まりには大勢が顔を出す。何度か挨拶を交わした程度なら、名前を覚えていただけでも十分だろう。
『政府の異界生物研究所に勤めている人よ。卵や繭のような状態で見つかった異界生物を専門にしていて、今回の調査責任者の一人でもあるわ』
「こはくに何をするつもりだ?」
『まずは物体の近くまで連れていって、反応を見るだけ。それ以上は、こはくの様子を確認してから決める。拘束したり、無理に検査したりはしないわ』
「本人が嫌がったら?」
『そこで終わり。今回は、こはくにも協力を頼む立場だもの』
櫻子がそう言うなら、研究所にも同じ条件を通しているはずだ。
友丸は携帯電話を少し下げ、目の前に浮かんでいるこはくへ声をかけた。
「今の話、聞いてたか?」
「みゃ」
「この卵みたいな物を見に行くか?」
こはくはすぐには返事をしなかった。
再び画面へ顔を向け、前脚で物体の部分へ触れる。画像が拡大され、表面に刻まれた模様が画面いっぱいに表示された。
こはくはしばらく模様を見つめたあと、もう一度前脚を画面へ置いた。
「みゃ」
今度の鳴き声に迷いはなかった。
「行くそうだ」
『本当に会話が成立してるの?』
「だいたいは分かる」
『あなたがそう言うなら信じるわ。明日の十時に迎えを寄越す。研究所へ着いたら、宮本が案内するから』
「車は要らない。場所を送ってくれれば自分で行く」
『一般の入口から入ると、手続きに時間がかかるわ。迎えの車なら、そのまま研究棟まで入れるの』
「分かった」
『写真は誰にも見せないで。発見場所についても、今は口外禁止よ。詳しい話は、明日宮本から聞いて』
通話が終わったあとも、こはくは携帯電話の前から離れなかった。
友丸は拡大された画像を元へ戻し、もう一度全体を見せる。
「お前は、これによく似た物に入ってたんだぞ。覚えてるのか?」
「みゃ」
「今のは、どっちだ」
こはくは答えず、画面の上へ前脚を置いた。卵の模様を隠すように、その場へ座り込む。
しばらく待っても動く様子はなかった。
「分かった。写真は消さないから、携帯を返せ」
「みゃ」
「それと、爪切りはまだ終わってないぞ」
こはくの身体が、携帯電話の上から勢いよく浮かび上がった。
再びカーテンレールまで逃げたものの、その視線だけは、テーブルの携帯電話に映る謎の物体へ向いたままだった。




