おっさんスーツに着替える
閉店時間を迎える頃には、店内に残っていた客もすっかり少なくなっていた。
最後の一組が会計を済ませて店を出ると、従業員たちが慣れた手つきで片付けを始める。
友丸はカウンターの隅で、その様子をぼんやり眺めていた。
結局、食事十回無料の一回目は遠慮なく使った。
大盛りの定食を平らげ、追加で頼んだ料理については普通に代金を払った。それでも深層の砂漠まで行った対価として考えれば、まだ九回残っている。
しばらく食費には困らない。
満足だった。
「じゃあ帰るね」
友丸が席を立つと、厨房で片付けをしていた絢香が振り返った。
「帰るって、東京まで?」
「他にどこがあるの?」
「もうこんな時間よ」
壁の時計は日付が変わる少し前を指している。
友丸にとっては大した問題ではなかった。
「一区に泊まればいいじゃない」
「高いから嫌だよ」
即答だった。
第一安全区にはホテルもあれば、冒険者向けの簡易宿泊施設もある。
ただし、どちらも東京側に比べれば割高だ。
物資を運び込む費用がそのまま宿泊料金へ反映されているうえ、深層を主な活動場所とする冒険者からの需要も高い。
友丸にとって、寝るだけの場所へ払いたい金額ではなかった。
「じゃあ、うちに泊まれば?」
友丸が足を止める。
「いいの?」
「今さらでしょう」
「じゃあ泊まる」
決断は早かった。
絢香が呆れた顔になる。
「本当にお金が絡むと分かりやすいわね」
「無料は大事だよ」
「だったら、いい加減うちに住めばいいじゃない」
「それは嫌」
こちらはさらに早かった。
「何でよ」
「一人が気楽だから」
「部屋なら余ってるわよ。家賃だっていらないし」
「でも一人じゃなくなる」
「私と住むのがそんなに嫌?」
「そうじゃなくて、一人がいいの」
あまりにも友丸らしい答えに、絢香はしばらく見つめたあと、諦めたように息を吐いた。
「はいはい。好きにしなさい」
そう言ってエプロンを外す。
そのやり取りを聞いていた従業員の一人が、何とも言えない顔で友丸を見ていたが、本人はまったく気づいていなかった。
翌朝。
友丸が目を覚ました時には、朝食が用意されていた。
「いただきます」
「どうぞ」
一区の住宅区にある絢香の家は、友丸のアパートとは比べるまでもなく広かった。
現役Aランク冒険者。
繁盛店の経営者。
それだけでも十分な収入がある。
一区の高い住宅費を払ってなお、生活に困るような立場ではない。
友丸は焼き魚を食べながら室内を見回した。
「ここ家賃いくら?」
「朝から聞くことがそれ?」
金額を聞いた。
箸が止まった。
「絶対住まない」
「だから家賃いらないって言ってるでしょう」
「こんな高い家に住んだら落ち着かないよ」
「どんな感覚してるのよ……」
絢香も向かいで朝食を取りながら、呆れたように首を振る。
それから何でもないことのように言った。
「今日、暇?」
「その聞き方、三日前もされた」
「今日は私も一緒よ」
「どこ行くの?」
「深層」
友丸が味噌汁を飲む。
「嫌だ」
「昨日も行ったでしょう」
「だから嫌なんだけど」
「仕事なのよ」
「断ればいいじゃん」
「日本政府から」
「もっと断ればいいよ」
絢香なら、政府からの依頼だからという理由だけで何でも引き受ける人間ではない。ましてやAランク冒険者ならある程度融通が効く。
それを知っているからこその返事だった。
絢香がご飯を一口食べる。
「兄貴から頼まれたの」
友丸の箸が止まった。
「ああ……」
苦笑する。
「それは断りづらいね」
「でしょう?」
「で、何するの?」
「詳しい説明は歩きながらするわ。行く?」
友丸は少し考えた。
昨日、深層へ行ったばかりである。
できれば今日は何もしたくない。
だが絢香が自分へ声をかけたということは、少なくとも普通の依頼ではないのだろう。
「昼飯は?」
「出す」
「じゃあ行く」
「……あなたを動かすの、本当に簡単ね」
朝食を終え、二人は家を出た。
朝の一区はすでに動き始めている。
通りにはこれから探索へ向かう冒険者たちが行き交い、企業の倉庫では大量の物資が運搬車へ積み込まれていた。
友丸は昨日と変わらない格好だった。
くたびれたズボン。
シャツ。
古いジャケット。
隣を歩く絢香は違う。
黒髪を後ろで一つに束ね、身体の動きを邪魔しない探索服を着ている。腰には二本の大型ナイフ。背中には異界用のバッグ。
食堂に立っていた時とは、雰囲気がかなり違っていた。
そして胸元には、小型の撮影機材。
友丸がそれに気づいたのは、住宅区を出たあたりだった。
「それ何?」
「カメラ」
「なんで?」
「配信するから」
友丸が止まった。
「聞いてないよ」
「言ってなかった?」
「言ってない」
「私、たまに配信してるのよ」
「それは昨日聞いた」
絢香は異界料理の配信者としても有名だった。
自ら魔物を倒し、その場で解体。食材として持ち帰り、料理する。
最初は趣味の延長で投稿しただけだったらしい。
ところが、現役Aランクの女性冒険者が魔物を狩り、それを料理するという内容が受けた。
さらに絢香自身が非常に目立つ容姿をしている。
気づけば登録者は二百万人を超えていた。
「でも俺、映りたくないよ」
「大丈夫よ」
「何が?」
「私以外の人間は自動でぼかしが入るから」
友丸がカメラを見る。
「そんなことできるの?」
「今の配信用カメラなら普通よ。登録した配信者以外の顔はAIが自動判別して処理するから」
「顔だけ?」
「基本的にはね」
「服は映る?」
「映るわよ」
友丸が再び止まった。
「じゃあちょっと待って」
「何?」
友丸は背負っていたバッグを下ろした。
一区の通りの端へ移動し、中を探る。
絢香は何をするのか分かっているらしく、特に止めない。
やがて友丸が取り出したのは、一式の黒い衣服だった。
「それ着るの?」
「俺とバレないでしょ」
「そうだけど」
友丸は近くの更衣施設へ入った。
数分後。
出てきた友丸を見て、通りを歩いていた何人かの冒険者が思わず振り返った。
先ほどまでとはまるで違う。
古びたジャケットも、くたびれたズボンもない。
代わりに身につけているのは、黒を基調とした上下の衣服。
形だけを見ればスーツに近い。
襟元まで身体へ沿うように作られ、余計な装飾は一切ない。生地は薄く見えるのに、不思議なほど型崩れせず、友丸の動きに合わせて自然に伸縮している。
ただ、現代の既製品には見えなかった。
縫い目らしいものが、ほとんどない。
「やっぱり、それ使うのね」
絢香は驚かなかった。
友丸がバッグの中へ普段着を押し込む。
その服は店で買ったものではない。
企業から提供された最新装備でもない。
東京異界の深層。
現在の人類が築いた施設など存在しない、遥か奥地。
そこで友丸が発見した遺跡に残されていたものだった。
誰が作ったのか。
いつ作られたのか。
何のための衣服なのか。
友丸自身、詳しくは知らない。
ただ一つ。
「丈夫なのよね、それ」
「うん」
友丸は袖口を整える。
「かなり」
それだけ分かっていれば、本人には十分だった。
絢香が携帯端末を操作する。
「じゃあ配信始めるわよ」
「俺の名前も出さないでね」
「分かってる」
「ランクも」
「はいはい」
「あと――」
「注文多いわね!」
友丸は黙った。
絢香が配信を開始する。
まだ一区の中だというのに、数字は猛烈な勢いで伸び始めた。
一万人。
五万人。
十万人。
通知に気づいた視聴者が次々と入ってくる。
絢香は慣れた様子で手に持ったカメラへ向かって話し始めた。
「おはようございます。今日はちょっと珍しく、朝から東京異界に入っています」
コメントが一気に流れる。
《きた!》
《生配信久しぶり》
《今日は狩り?》
《料理配信じゃないの?》
《一区だ》
《装備ガチじゃん》
そして当然、隣を歩く友丸にも気づく。
顔には自動でぼかしが入っていた。
だが、その下の服までは隠れない。
《誰?》
《同行者いる》
《男?》
《何その服》
《スーツ?》
《異界にスーツで来たの?》
友丸はコメントを見ることなく、絢香に確認する。
「顔、映ってない?」
「ちゃんとぼけてる」
「ならいいや」
二人はそのまま一区の出口へ向かった。
防壁を抜ける。
背後の街並みが遠ざかり、目の前に東京異界の森が広がった。
配信開始から、まだそれほど経っていない。
それでも同時視聴者数は二十万人を突破。
三十万。
さらに増えていく。
絢香が歩きながら数字を確認する。
「今日、伸びるの早いわね」
「人気なんだね」
「他人事みたいに言わないで」
「俺の配信じゃないし」
《今日どこ行くの?》
《深層?》
《同行者誰なんだ》
《あの服どこのメーカー?》
《見たことない》
《新作装備?》
絢香が最後のコメントを見て、ちらりと友丸へ視線を向ける。
もちろん答えない。
答えられるはずもない。
メーカーなど存在しないのだから。
友丸はそんなことより、前方の森を見ていた。
「で」
「何?」
「政府の依頼って、どこまで行くの?」
絢香は少し先を見据えた。
「昨日あなたが行った砂漠より、もっと先」
友丸の足が僅かに緩んだ。
「……聞いてないよ」
「今言ったもの」
「帰っていい?」
「駄目」
絢香は笑いながら歩いていく。
友丸も小さくため息をつき、その後を追った。
二人のやり取りを、すでに数十万人が見ている。
その中で誰一人として知らない。
絢香の隣を歩いている男が身につけている服が――これから二人が向かう深層よりさらに奥、人類の地図にも満足に記されていない場所から持ち帰られたものだということを。




