タダ券に惹かれる
昼を少し回った頃、枕元に転がしていた携帯が鳴った。
坂田友丸は布団から顔だけを出し、しばらく鳴り続ける画面を眺めていた。
見覚えのある名前が表示されている。
出るか。
出ないか。
二度目の着信が始まったところで、諦めて携帯を取った。
「もしもし」
『友丸、今暇?』
「忙しい」
『何してるの?』
「寝てる」
『暇じゃない』
「寝るのも予定のうちなんだけど」
『じゃあ、その予定変更して』
相変わらず人の話を聞かない。
友丸は目元まで覆っていた髪をかき上げ、寝返りを打った。
電話の相手は、東京異界の第一安全区――通称『一区』で食堂を営んでいる知人だった。
付き合いはそれなりに長い。
こうして直接仕事を持ち込まれることも、たまにある。
『角猪を三頭、数日中にお願いできない?』
「三頭?」
『ええ。最近ほとんど入ってこないのよ。数日に欲しいの』
角猪。
東京異界の中層区域に生息している中型魔物だ。
名前の通り頭部に太い角を持ち、突進力はかなりのものだが、冒険者の討伐推奨ランクはC。
友丸にとって面倒なのは、倒すことより三頭分を持って帰ることだった。
「自分で行けば?」
『店をどうするのよ』
「休めば?」
『嫌よ』
即答された。
『ちゃんと依頼として払うわ。三頭でこれくらい』
金額を聞いて、友丸は少し考えた。
悪くない。
三頭運ぶ手間を考えても十分に割がいい。
何より、そろそろ財布の中身も減り始めている。
「分かった」
『助かるわ。できれば早めにお願い』
「善処する」
『
お願いね』
これで話は終わり。
そう思って通話を切ろうとしたところで、
『それと、もう一つ』
友丸の指が止まった。
「何?」
『こっちは店の依頼じゃなくて、私個人からなんだけど』
「嫌な予感しかしない」
『深層の砂漠、覚えてるでしょう?』
「嫌だ」
『まだ頼んでないでしょう』
「そこまで聞けば分かるよ」
東京異界は、どこまでも同じ環境が続いているわけではない。
森林。
湿地。
岩山。
地下洞窟。
そして砂漠。
奥へ進むほど環境は大きく変化し、魔素濃度も高くなる。
彼女が言っているのは、その中でも深層に位置する広大な砂漠地帯だった。
『前に持ってきてくれた赤い果実、あったでしょう?』
「あったね」
『あれを十個くらい欲しいの』
「何に使うの?」
『デザート』
「…………」
友丸はしばらく天井を眺めた。
「そのために?」
『そのためによ』
迷いのない返事だった。
彼女が冒険者になった理由を知っている友丸としては、今さら驚くことでもない。
異界の魔物を狩って料理してみたい。
異界にしかない食材を食べてみたい。
そんな理由で冒険者になり、気がつけばAランクまで上がり、最終的には異界内部に自分の食堂まで開いた女である。
食に関してだけは行動力がおかしい。
「自分で取りに行けばいいじゃん」
『行けるなら行くわよ。でも砂漠まで行ってたら何日店を閉めると思ってるの』
「俺だって遠いんだけど」
『あなたなら私より早いでしょう』
友丸が少し黙った。
「買えば?」
『流通してないから頼んでるの』
「じゃあ諦める」
『報酬出すから』
提示された金額を聞く。
決して安くはない。
むしろ果物十個の採取依頼として考えれば破格だった。
それでも友丸は、
「いいや」
『少ない?』
「角猪の報酬でしばらく足りるから」
『……あなたね』
呆れた声が返ってきた。
友丸は金が嫌いなわけではない。
むしろ金がなければ働く。
家賃を催促されれば異界へ潜るし、三万円の依頼でも割に合えば受ける。
ただし、当面暮らせるだけの金があるなら話は別だった。
わざわざ遠い深層まで行って、必要以上に稼ぐ理由がない。
『もう少し出すわよ』
「遠いから嫌」
『そこを何とか』
「嫌」
『……うちの食事、五回無料』
友丸が黙った。
電話の向こうも黙る。
「十回」
『なんで増えたのよ』
「砂漠まで行くから」
『今出した報酬で十回どころか何十回も食べられるわよ!』
「でも、その金は家賃とかにも使うから」
『当たり前でしょう』
「食事十回なら、十回飯に困らない」
『…………』
友丸としては極めて合理的だった。
相手にとっては違ったらしい。
長いため息が聞こえた。
『本当にその日その日で生きてるわね、あなた冒険者に向いてないわ……』
「十回なら行くよ」
『分かったわよ。十回』
「大盛りも?」
『普通盛り』
「じゃあ九回でいい」
『なんで回数減らすのよ!』
「大盛りじゃないなら、そのくらいかなって」
『分かった! 大盛りも無料!』
「ありがとう」
『……なんか腹立つ』
交渉成立だった。
角猪三頭は正式な依頼として通常報酬。
深層砂漠の赤い果実十個は、食事十回無料。
他人が聞けば、なぜ深層へ行く方が食事券なのか首を傾げるだろう。
友丸にとっては問題なかった。
通話を終えると、しばらく天井を眺める。
本当なら今日は寝ている予定だった。
だが、一度異界へ入るならまとめて済ませた方がいい。
「……行くか」
ようやく布団から起き上がった。
二日後。
東京異界、第一安全区。
巨大な門を抜けた友丸の前に、異界の中とは思えない街並みが広がった。
通称、一区。
東京異界の浅層に建設された最初期の恒久拠点であり、現在では単なる安全地帯という言葉では収まらない規模にまで発展している。
舗装された大通りを電動運搬車が走り、その両側にはホテルや飲食店、武器店、道具屋が軒を連ねる。
管理局の出張所。
診療所。
素材の買い取り所。
装備を修理する工房。
異界開発企業の事務所や倉庫まである。
さらに中心部を抜ければ、冒険者向けの集合住宅や一戸建てが並ぶ居住区まで存在した。
一つの街。
それが今の一区だった。
ただし、便利な分だけ何でも高い。
物資の大半を地球側から運び込む必要があるため、食料も日用品も割高。特に住宅費はかなりのもので、それでもAランクやSランクを中心とした高位冒険者には、一区に自宅や長期滞在用の部屋を持つ者が少なくない。
深い区域を活動拠点とする者にとって、毎回東京まで戻るより遥かに効率がいいからだ。
友丸には縁のない話だった。
「こっちに住む家賃で、今のところ何か月住めるんだろ」
そんなことを呟きながら大通りを歩いていく。
服装は出発した時とほとんど変わっていない。
くたびれたズボン。
シャツ。
古びたジャケット。
腰には小太刀。
背中には異界探索用の収納バッグ。
昼から角猪を三頭狩り、その足で深層の砂漠まで行って帰ってきた人間には、とても見えなかった。
収納バッグには依頼された角猪の素材。
そして別に包んだ赤い果実が十二個。
頼まれたのは十個だが、傷んでいるものが混じっていた時のために二つ多く採ってきた。
それだけである。
友丸にとって今日の仕事は終わった。
あとは納品して飯を食うだけだ。
大通りから飲食店街へ入る。
夕食時ということもあり、どの店も冒険者たちで賑わっていた。
その中でも一際客の多い店がある。
魔物料理を専門に扱う食堂。
友丸の目的地だった。
店の前まで来て――足を止める。
男が一人、転がっていた。
「…………」
防具がない。
上着もない。
ズボンもない。
辛うじて下着だけは残っている。
近くを通る常連らしき冒険者たちは、助けるどころか笑っていた。
「またか」
「今日は何人目?」
「二人目じゃね?」
「最近減った方だろ」
友丸は倒れている男を見る。
続いて店を見る。
事情を察した。
そのまま男の横を通る。
「……待ってくれ」
呼び止められた。
友丸が振り返る。
男が震える指で店を指した。
「中の女……何なんだよ……」
「店主だけど」
「そういうこと聞いてんじゃねえよ……!」
それだけ喋れるなら大丈夫だろう。
友丸は店の扉を開けた。
途端に、肉の焼ける香ばしい匂いと客たちの賑やかな声に包まれる。
店内はほぼ満席だった。
厨房では何人もの従業員が動き回り、その中央に一人の女性が立っている。
長い黒髪を後ろで一つに束ねた、すらりとした女性。
エプロン姿で肉を焼くその横顔は、初めて訪れた客なら思わず目を奪われるほど整っている。
実際、それで勘違いする男が後を絶たない。
普通に誘う程度なら断られるだけで済む。
問題は、その後だ。
断られてもしつこく迫る。
腕をつかむ。
力ずくでどうにかしようとする。
そうなれば――店の外に転がる。
時には身ぐるみまで剥がされて。
もはや常連客の間では、この店の料理とは別の名物になっていた。
何しろ彼女は、ただの料理人ではない。
現役のAランク冒険者なのだから。
女性が顔を上げた。
友丸と目が合う。
「いらっしゃ――」
言葉が止まった。
「友丸?」
「ただいま」
「……ただいまって、あなた」
女性は厨房の時計を見る。
それから友丸を見る。
「二日前昼に電話したわよね?」
「うん」
「角猪は?」
「三頭あるよ」
「果実は?」
「十二個」
「…………」
女性の動きが完全に止まった。
友丸は気にせずカウンターへ向かい、ちょうど空いた席へ腰を下ろす。
「十個でよかったよね?」
「ええ……」
「二個余ったから、それもあげる」
「ちょっと待って」
「何?」
女性は友丸をじっと見る。
「あなた、砂漠まで行ったのよね?」
「行った
「…………」
彼女は知っている。
東京異界の深層が、どんな場所なのか。
自分もAランク冒険者として何度も深い区域へ入っている。
だからこそ分かる。
二日前の昼過ぎに東京で電話を受けた男が、角猪を三頭仕留め、そのまま深層の砂漠まで往復し、夜には一区の店へ現れる。
普通ではない。
だが――。
「それより飯」
友丸は壁のメニューを見上げていた。
「食事十回無料、今日からだよね?」
「……ええ」
「じゃあ一回目」
女性は何か言おうとして、やめた。
付き合いは長い。
友丸がこういう男なのは、とっくに知っている。
「何食べる?」
「一番高いやつ」
「遠慮って言葉、知ってる?」
「大盛りで」
「聞いてないわね」
女性は呆れたように息を吐き、厨房へ戻っていく。
その背中へ友丸が声をかけた。
「あ、あと」
「何?」
「外に一人転がってたよ」
「知ってる」
「服なかったけど」
「知ってる」
「そっか」
それ以上、友丸は聞かなかった。
女性も説明しなかった。
この店では、別に珍しいことではない。
友丸は水を一口飲み、料理が来るのを待つ。
角猪三頭。
深層砂漠まで往復。
赤い果実十二個。
報酬と、食事十回。
友丸としては十分働いた。
明日は何もしない。
今のところ、それだけが決まっていた。




