絢香の兄は
友丸が東京異界の一区へ戻ったのは、絢香の食堂の夜の営業が終わる少し前だった。
深層で黒いスーツを脱ぎ、ジーンズとパーカーへ着替える。装備をまとめたバッグには、こはくにも入ってもらった。
そのまま絢香の食堂へ向かうと、店の前にはまだ十人ほどが並んでいた。友丸も最後尾へつく。
ほどなくして店員が営業終了の札を持って現れ、友丸の後ろへ置いた。どうやら最後の客になったらしい。
二十分ほど待って店へ入る。
「いらっしゃい」
厨房に立っていた絢香が、友丸の顔を見るなり眉を寄せた。
何か言いたそうだったが、店内にはまだ大勢の客が残っている。絢香は口を開かず、いつもの定食を用意し始めた。
友丸も何も言わず、空いていたカウンター席へ座る。
食事を終える頃には、ほかの客も店を出ていた。
「ありがとうございました」
最後の客を見送り、従業員たちが閉店作業を始める。絢香は厨房から出ると、店内を見回した。
「残りは私がやるから、今日はもう上がっていいわよ」
「分かりました。お疲れさまです」
従業員が全員帰ったあと、絢香は入口の鍵を閉め、表の灯りを落とした。
それを待っていたように、友丸の足元でバッグが動く。
「みゃあ」
僅かに開けていた隙間から、こはくが顔を出した。そのままバッグを抜け出し、ふわりとカウンターへ上がる。
「待たせたな」
「みゃ」
絢香は小皿に魚を取り分け、こはくの前へ置いた。それからカウンターを回り、友丸の隣へ腰を下ろす。
「それで、どうだった?」
「前に行ったときと、景色は変わってなかった。蜘蛛の群れが多く棲み着いてたくらいだな」
「それだけじゃないでしょ」
絢香が横から友丸の顔を覗き込む。
「能力を使ったのね」
「分かるのか?」
「分かるわよ。使いすぎたあとは、昔からそんな顔をしてたでしょ」
自分では普段と変わらないつもりだったが、まだ顔色までは戻っていなかったらしい。
「少し使いすぎた」
「少しには見えないけど。怪我は?」
「ない。最後はこはくに助けてもらった」
「みゃ」
魚を食べていたこはくが、顔だけを上げて返事をした。
「まさか、新しい技まで試したの?」
「いや。新しいのを使うには、まだまだだな。今日はとりあえず、能力の基本だけ試した」
「基本って?」
「八本のナイフを繋いで動かした。あとは、糸と毒を何度か切り離したくらいだ」
「何度かって、何回?」
「途中から数えてない」
絢香が呆れたように息を吐く。
「それは、使いすぎたっていうのよ」
「今の限界は分かった」
「限界まで使わなくても、もう少し手前で分かるでしょ」
「ぎりぎりまで使わないと、正確には分からない」
「そこは昔から変わらないわね……」
絢香は立ち上がり、厨房から湯気の立つ汁物を運んできた。
「これも食べて。今日は、うちに来る?」
「帰る」
友丸は迷わず答えた。
「その顔で?」
「歩くくらいなら問題ない」
「だったら、どうして店には来たのよ」
「一か月無料の約束だったからな。食べに来た」
「魔力がなくなりかけても、無料分は食べるのね」
「食べられるときに食べた方がいい」
「みゃ」
こはくが賛成するように鳴く。
絢香は二人を見比べ、もう一度ため息をついた。
友丸が汁物へ手を伸ばしたところで、絢香が何かを思い出したように口を開いた。
「そういえば、兄が言ってたわ。たまには黒田家に集まろうって」
◇
翌朝。
枕元に置いていたスマートフォンが鳴った。
友丸は布団の中から腕を伸ばし、画面も見ずに通話へ出る。
「もしもし」
『私だ』
「誰だ」
『私だ』
「誰だ」
電話の向こうで、短い沈黙があった。
「……何の用だ」
『近々、黒田家に集まろうと思う』
「面倒だな」
『来なければ、奴をお前のアパートに送り込むぞ』
男が電話の向こうで楽しそうに笑う。
「賑やかになりそうだな」
友丸は深いため息をついた。
「いつだ」
『私も仕事がある。数か月以内だな』
「近々じゃなかったのか」
『細かいことは気にするな』
「分かった」
『それと、こはくちゃまも必ず連れてこい』
「こはくちゃま?」
『こはくちゃんのことだ。貴様、知らないのか?』
「切るぞ」
ピンポーン。
ピンポーン。
通話を切る前に、玄関の呼び鈴が続けて鳴った。
友丸がスマートフォンを耳に当てたまま玄関へ向かうと、扉の向こうから聞き慣れた声がした。
「友丸、今月の家賃まだだよ」
友丸は、もう一度深いため息をついた。




