友丸の現状
その日、友丸は東京異界の深層に来ていた。
深層と呼ばれてはいるものの、そこが東京異界の最奥というわけではない。深層へ入った先でも経路はいくつにも分かれ、その一つを進んだ先で、さらに新たな分岐が現れる。
四十年近く調査が続けられている現在も、政府が把握しているのは、その一部に過ぎなかった。
友丸がいる場所も、公式の地図には載っていない。
既知の経路を外れてから半日以上。狭い岩の隙間を抜け、地下へ続く亀裂をいくつも下りた先に、このエリアは広がっていた。
友丸が初めてここへ来たのは、数年前のことだ。それ以来、何度も足を運んでいる。
地面も、転がっている岩も灰色だった。遠くを覆う薄い靄まで同じ色をしており、草も水も見当たらない。大小の岩が不規則に並ぶだけで、誰かが通った痕跡も残されていなかった。
以前にはなかった足跡や目印もない。別の経路から入れる可能性までは否定できないが、ここまで来た人間は、おそらく友丸だけだろう。
「ここへ来るのも久しぶりだな」
「みゃ?」
黒いスーツに身を包んだ友丸が、足元の石を蹴る。前に来たときと変わらず、見渡す限り岩しかない。
友丸は腰に黒いナイフを下げ、背中には大きめのバッグを背負っていた。人目のないこの場所なら、普段は隠している力も使える。
しばらく進んだところで、右手にあった岩が僅かに動いた。
友丸の足が止まる。
岩ではない。
灰色の塊から細長い脚が伸び、地面を踏んだ。胴だけでニメートルを超える蜘蛛の魔物が、折り畳んでいた八本の脚を広げる。
続いて、周囲から硬いものを擦り合わせるような音が聞こえてきた。
一つではない。
岩の陰から、地面の亀裂から、灰色の蜘蛛が次々と姿を現す。周囲の景色と同じ色をしていたため、動き出すまで見分けられなかったのだ。
見える範囲だけでも百体を超えている。離れた岩の間でも灰色の脚が動き、こちらへ集まり始めていた。
友丸は迫ってくる群れを見回したあと、背負っていたバッグを片方の肩から下ろした。
「今、どれくらいやれるか試すか」
「みゃ」
バッグを開き、中から八本の投げナイフを取り出す。左右の指の間へ挟むと、友丸は八本すべてを上空へ投げた。
扇状に広がったナイフが、途中で一斉に消える。
友丸は空いた手でバッグを背負い直し、腰から黒いナイフを抜いた。
次の瞬間、八本のナイフが蜘蛛の群れの中へ現れた。
正面から眼を貫くもの。背後から腹部へ入るもの。岩の陰にいた蜘蛛の脚をまとめて斬り裂くもの。別々の方向へ投げたはずのナイフが、まったく違う場所から蜘蛛を襲った。
友丸の力は、目で捉えた二つの場所を繋ぐことができる。
ただし、通せるのは剣や岩のような物だけだ。友丸自身や魔物は移せない。
一体目へ刺さったナイフが、その場から消えた。
勢いを保ったまま別の蜘蛛の眼前へ現れ、二体目の頭部を貫く。さらに三体目の背後へ移り、腹部の奥まで突き刺さった。
ほかの七本も同じだった。蜘蛛へ刺さり、勢いが止まる前に別の場所へ移る。八本のナイフが何度も消えては現れ、次々と蜘蛛を倒していった。
友丸が立っている場所まで、刃の一本も戻ってこない。
それでも、群れの勢いは止まらなかった。
倒れた仲間を踏み越え、さらに多くの蜘蛛が押し寄せる。その後方から放たれた糸が頭上で重なり、巨大な網となって落ちてきた。
同時に、左右から毒液が迫る。
友丸が網の中心へ目を向けた。
友丸の視線の先で、糸と毒が直径二メートルほど円く消えた。
その中にあった糸も毒液も、最初から存在しなかったように失われた。開いた隙間を抜け、友丸は蜘蛛の群れへ踏み込む。
空間を繋ぐことだけが、友丸の力ではない。
目で捉えた空間を切り離し、異次元に飛ばす。
切り離すことが出来るのは、最大で二メートルほど。こちらは生き物にも使えるが、その分、消費する魔力は比べものにならない。
友丸の視線が、正面の蜘蛛へ向く。
頭部から腹部にかけて、身体の中央だけが消失した。切断されたのではない。二メートルの範囲に入っていた部分だけが削り取られ、残された脚がばらばらと地面へ落ちる。
右から迫っていた三体にも、続けて力を使う。
一体目は頭部が消え、二体目は半身を失う。後ろに重なっていた三体目まで腹部を削られ、灰色の地面を転がった。
その間にも、別の方向から糸と毒が飛んでくる。
友丸は二メートルずつ空間を切り離し、攻撃ごと蜘蛛を消していった。投げた刃も休むことなく場所を変え、群れの外側にいる蜘蛛を仕留めていく。
倒した数は、すでに百を超えていた。
だが、灰色の岩の向こうから、さらに新しい群れが現れる。
「多いな」
こはくは群れを見つめたままだった。
蜘蛛が多いだけなら問題はない。だが、途切れることなく降り注ぐ糸と毒を消すには、空間を何度も切り離さなければならない。八本のナイフを何度も移したことで、そちらにもかなりの魔力を使っていた。
友丸の呼吸が、初めて乱れた。
左から迫った糸を消し、正面の蜘蛛をナイフで斬る。続けて背後の毒液を切り離した直後、踏み出した足から力が抜けた。
身体が僅かに傾く。
その隙を、蜘蛛たちは見逃さなかった。
周囲にいた十数体が一斉に腹部を上げる。白い糸が前後左右から放たれ、友丸を閉じ込めるように迫った。
「みゃあ」
こはくの声が響いた。
蜘蛛たちの動きが止まる。
空中を走っていた糸は停止した。糸には、吐き出した蜘蛛の魔力が残っている。そのため、蜘蛛と一緒にこはくの力へ捕らえられたのだ。
ただし、すでに蜘蛛から離れていた毒液までは止まらない。
友丸は傾いた身体を立て直し、迫る毒液の間を抜けた。
こはくが止められるのは、二秒だけだ。
友丸は黒いナイフを逆手に持ち直すと、迷わず来た道へ走り出した。
二秒が過ぎ、蜘蛛の群れが再び動き出す。
友丸は振り返らなかった。
残っている魔力では、この数を相手にしながら糸と毒を防ぎ続けることはできない。まだ動けるうちに、外へ逃げるべきだった。
灰色の岩が左右へ流れていく。
蜘蛛たちも追ってきたが、二秒で開いた距離は大きい。やがて脚音が遠ざかり、完全に聞こえなくなったところで、友丸はようやく速度を落とした。
「助かった」
「みゃ」
友丸は一度だけ後ろを確認する。
新たに棲み着いた蜘蛛の数を頭へ入れ、友丸は地図にない分岐を引き返した。




