九章 深夜の庭
中庭は、玄関ホールのテラスから行くのが一番早い。
一階に降りると、誰もいない玄関ホールは不気味なほどがらんとしていた。カミーユの部屋よりも射しこむ月光は弱弱しく、どんよりとした闇が空気の粒子一つ一つに絡みついている。
暗闇に、重々しい玄関扉の輪郭が浮かび上がっていた。
私が物心ついてから一度も開けられたことのない扉は埃が積もり、重く錆びついている。使われていないからといって飾りに成り下がることはなく、むしろ一種独特な威厳をたたえていた。ありもしない鎖が厳重に巻きつく音が、玄関ホールの隅々まで響いていた。
私は不思議な気持ちで扉を眺める。
これはいつか開かれるだろう。そして開くとしたら、それはきっと私によってだろう。何の根拠もありはしないのに、既に決定した運命のようにそれを感じていた。
暗く冷たい玄関ホールで、扉と向かいあうテラスだけがいやに明るかった。私は誘い込まれるようにテラスの鍵を開け、軽やかな足取りで中庭に出る。
涼やかな風が肌を撫でた。思っていたとおり、空には貼りつけたように丸く大きい月が出ていた。月光がしとどに土に降り注ぎ、生命としての植物を照らしている。氷のような質感の月光が照らすところだけが現実でない、どこか異国の舞台を観ているようだった。
裸足で土を踏む。ひやりとした感覚が心地いい。私はそのままどこに行くともなく、ふらふらとうろついた。
中庭は広く、ぐるりとまわれば三十分はかかる。色とりどりな植物が空間を満たし、中央には枯れた噴水がその原型をかろうじて留めていた。どこを歩いてもむっとするほどの香りが漂う中庭は、あてもなく散歩をするのに丁度良かった。
私はワンピースの裾をつまみ、地面から伸びる花を踏み越えていく。
透けるような花弁が四方八方に広がっているシャガの花。鈴に似た愛らしい容姿を持つスズラン。早朝にだけ白い花を咲かせるダチュラ。淡いピンクが可憐なクリスマスローズ……。
濡れたように光る花弁が地面に散っていた。養分を吸う根を失った花弁は、夜露の重みに耐えかねて徐々に腐っていく。腐って崩れていくまさにそのときに、花は至上の香りを放つ。
枯れた噴水を通り過ぎると、この敷地内に建つもう一つの屋敷がゆらりとその姿を現した。
普段私たちが住む屋敷を本館とするならば、中庭を挟んで立つもう一つの屋敷は、特別なときにだけ使 用される別館だ。その内部も、本館とは違う特別な造りになっている。
特別なこと。私たちの中ではそれは儀式を示す。年に一回だけ行う、ほかの何よりも重要な儀式はもう一週間後に迫っていた。
儀式で行うことは至極単純だ。しかしそれらの行為にどんな意味があるのか、なぜ年に一回必ず行うのか、正確なことは誰も知らない。ただ、一度も忘れることなく行われてきた。
屋敷に季節はない。日付を記録する習慣もない。今がいつなのか確認のしようがないはずなのに、儀式が近づくと、何日後に儀式があるのかはっきりと頭に浮かぶ。それによって私たちは一年の時が過ぎたことを知る。
誰かに教わったわけでもないのに分かっているのだ。何かが私の体に組み込まれている。得体の知れないそれが、儀式の時期を私に直接教えている。そんなことを考え、その感覚に背筋が寒くなる。
私の体から何本ものチューブが伸びている。チューブを通して、何かしらの液体が体内に注がれている。あの悪夢がどうしても脳裏によぎる。
私は裸足でさくさくと歩いていく。草の影に身を隠していた蝶が何羽か飛び立った。私は足音を立てたことを後悔する。
蝶の収集は幼いころからの趣味だった。今まで何十、何百羽もの蝶を捕えてきた。この中庭でこつこつと集めた蝶は全て標本にして、部屋に飾っている。
今飛び立った蝶なら、もう標本にしていたはずだ。そう考えて、少し心が軽くなる。
恐ろしいほど美しい月が私の頭上にあった。
不意に風が吹いた。とっさに髪を押さえる。カミーユに整えてもらった髪を崩すのは嫌だった。風が止んでから三つ編みを指で撫でる。蝶は風に乗って飛んでいくことなく、依然として私の髪の上で死んでいた。
そのとき、ひらりと。
月光のカーテンの向こうで何かが動いた気がした。




